暴露本は自爆本だった!?三遊亭円丈が「御乱心」で落語協会分裂騒動を執筆した理由
- 「御乱心」の初版本(左)と文庫本(右)を手に笑顔の三遊亭円丈
- 落語協会分裂を報じる報知新聞(1978年5月23日付)
- 三遊協会の発足を報じる報知新聞(1978年5月25日付)メンバーに「ら」ではなく円丈の名前もある
- 三題噺で注目を集めた円丈を報じる報知新聞(1980年5月26日付)
落語家・三遊亭円丈(73)が執筆し1986年に出版された「御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち」(主婦の友社)が今年3月「師匠、御乱心」(小学館)として文庫化された。演芸界で戦後最大の事件と今でも語り継がれる78年の落語協会分裂騒動を、当事者だった円丈の視点ですべて実名で赤裸々につづり、ベストセラーとなった。名著との評判を得る一方で師匠・三遊亭円生、兄弟子の三遊亭円楽(5代目)を痛烈に批判した元祖・暴露本とも言われている。騒動から40年、円丈が「御乱心」執筆の理由と受けた影響を語った。
「僕にとってはプラスになったのか、マイナスになったのかと言えば、総合的に見たらマイナスですよ。プラスになったのは印税が少し入ってきたようなもので…」と円丈は出版後の影響について語り出した。「それ(出版)までは年に3、4回、『笑点』に出ていたけど、(その後は)ピシッとなくなってゼロです。テレビにはほとんど出なくなった。日本という国は“おきて破り”を嫌う民族ですから」。円丈もその頃は新作「グリコ少年」や池袋演芸場での三題噺で客と十番勝負を繰り広げるなど新作派の第一人者として注目を集めていたが、「笑点」司会者として抜群の知名度と人気を誇る円楽を“批判”した代償は大きかった。
それでも、円楽を始め業界内での表だっての“反発”は皆無だった。「一人ぐらい殴るやつがいて当然だと思って覚悟していたけれど、誰もいなくてがっかりした。いい加減なことを書いていたら袋だたきに遭うけど、起こったことは間違いないんだから」
なぜ執筆したのか。「僕にとっては強烈な体験で何か残したい、全部書きたいという思いがあったんです」。発端は出版社のプロデューサーの執筆依頼で、最初は推理小説だった。「推理小説書きませんか?」その依頼に乗った円丈だが、行き詰まった。「『足立区に牛がふる』のタイトルで書いたけど、推理小説って事件が起きて終わるまででしょう。途中でストーリーがつながらなくなって…」。落語協会分裂騒動をテーマに書きたいとプロデューサーに告げると快諾を得た。一気に書き上げた。
円丈は真打ち昇進して50日間の披露目が終わった直後に、師匠・円生が落語協会を離脱。新協会設立を発表したが、寄席の席亭は新協会を認めずに寄席から閉め出されることに。賛同者も次々と離脱して落語協会に戻り、円生一門だけが取り残された。円丈が「強烈な体験」と語る出来事はその時に起こった。
今後の進路について決断を迫られた円丈は、「落語協会に戻りたい」と意思表示。すると円生とおかみさんから代わる代わるに叱責され罵倒され、円丈は自身の決断を翻意させ師匠と行動をともにすることに。「あれだけ『恩知らず』『義理知らず』などと何回も、交互に言われたのは強烈な体験ですよ」と今でも鮮明に覚えている。本の中でも「俺は、円生を憎んではいない。円生を恨みもしない。ただ円生を許しもしない」とつづっている。
「あれから円生という言葉を思い出すと病気みたいになった」円生の話題を振られると拒絶反応を示し、急に他の話題に変える。冷酷な師匠の表情がフラッシュバックする。現在のPTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状だった。それだけ円丈の心の奥に刻まれたトラウマだった。「僕は『御乱心』を書くことによって、円生をもう1回理解して、そして和解したんだと思います。書くことで円生を許して、“三遊亭”の円丈に戻れたんです」。執筆したことで、師匠への思いが変化したという。
今では冷静に師匠を評価出来る。「僕は円生が好きなんじゃないかな。良くはまっていた」。封印した思い出が次々とよみがえった。人形町末広で円生の口演後、手動で幕を下ろす役目だった円丈は、ゆっくり下ろさなければいけないところ、手を離して師匠の頭の上に一気に落としてしまった。「高座で『今、誰だ!』ってどなっていたけど、僕だと分かると『お前か、お前ならいい』って」。新作を毛嫌いしていたという円生だったが円丈の新作「即興詩人」を評価し、評論家に「あの噺はいいです。是非聞いてみてください」と話している姿などの記憶がよみがえった。
騒動から40年がたった。騒動を“主導”したとされ、本では批判した5代目・円楽の評価も変わった。「円楽さんはえらいです。(落語協会脱会の時に)弟子を集めて『付いてきてくれって』。円生はやる前に(自分たちに)言わなかった。僕なら言いますよ。前の円楽さんは弟子に対する愛があった。寄席(若竹)を作ったり、そこはお金のある、ないじゃなくってね」と話した。
落語協会を離脱したまま活動している「5代目円楽一門会」との付き合いもある。5代目の弟子の6代目・三遊亭円楽(68)とは2014年から合同で「三遊亭ゆきどけの会」(現在は「三遊落語会」)を実施。今回の文庫化には円楽、三遊亭小遊三(71)との対談が収録されるなど、かつての対立ムードはほとんどなくなっている。
三遊派としての思いも強い。「『円生』を復活させたい。子飼いの弟子でね。襲名の意思? 前はあったけど、自分の記憶力ががた落ちになって、そういう年じゃねえなって。継ぐなら50代くらいかな。でも誰かが継がないとダメですよね」と円丈は言う。自身の名前についても「『円丈』は誰か継いで欲しいなと思いますよね。生きているうちに(後継者について)書いたモノを残しておけば継ぐ可能性は高くなる。当人にその気があればね」と名跡に対するゴタゴタを回避したいという思いを吐露した。
「御乱心」で登場した中心人物はほとんど鬼籍に入った。「昔より楽に読めるようになったね」と円丈は笑う。マイナスに作用したと言っていたが後悔は一切ない。「信念を持って出したから。出して良かったと思う。(文庫化で)これから、わずかでも印税が入れば…」。(コンテンツ編集部・高柳 義人)
◆落語協会分裂騒動 1972年まで落語協会会長を務めた三遊亭円生が、78年に真打ち昇進の基準を巡って柳家小さん会長ら幹部と対立し、脱会を決意。弟子の5代目・三遊亭円楽や立川談志、古今亭志ん朝らとともに新協会の設立に動き、弟子の三遊亭円丈も行動をともにした。談志一門は直前で参加を取りやめ、同年5月に「落語三遊協会」の設立を発表したが、寄席の席亭は新協会を認めずに落語協会への復帰を通告。そのために志ん朝らが復帰し、円生一門のみの団体になった。翌79年9月に円生が死去。弟子の円楽一門を除く円丈らメンバーは落語協会に復帰。円楽一門は復帰することなく「大日本落語すみれ会」を結成、現在は「5代目円楽一門会」として活動している。
〇…三遊亭円丈は柳家小ゑん(64)とともに3月31日の新宿末広亭(余一会・昼の部)「円丈・小ゑん二人会」に出演する。円丈は伝説の作品となった「グリコ少年」をネタ出ししている。「グリコの会長が亡くなった時に哀悼の意を表して作ったもの。池袋演芸場でやったらウケて。大好きな噺です」と思い入れがある作品を披露する。円丈の「グリコ少年」は桂文枝、柳家喬太郎らが影響を受けたと公言している新作落語の金字塔。円丈は「笑わせようと思って作った噺ではなく、感動させよう泣かせようと思って作った噺がウケているんです」と話している。