今月半ば、「非黒人のブルーノ・マーズが黒人音楽をやるのは文化の盗用!」「彼は才能のかたまりで、黒人音楽をリスペクトしているだけ!」という論争が巻き起こり、激しく炎上した。ブルーノ批判を始めた黒人女性活動家/ブロガーの Seren Sensei(以下、セレン) は、ブルーノがマイケル・ジャクソンやプリンスの曲も演奏することから「カラオケ歌手!」とまで貶めた。
しばらく続いたこの騒ぎも先日、大物ミュージシャンのスティーヴィー・ワンダーが「くだらないたわ言だ」「ブルーノは才能にあふれている」「彼は素晴らしいミュージシャンにインスパイアされたんだよ」と擁護、さらには「神は音楽をだれもが楽しめるものとして創造した」と発言したことで、一応の沈静化を見せた。
だが、スティーヴィー・ワンダーのブルーノ擁護発言のなかでもっとも重要だったのは、「我々は、恐れと自己不信感を抱く者によって制限されてはならないのだ」だろう。この発言についてはのちに改めて触れるが、まずは炎上の経緯とブルーノのバックグラウンドを説明したい。
グラミー賞を独占したブルーノ・マーズ
ことの起こりは『The Grapevine』というユーチューブ・チャンネルだった。黒人文化や社会問題についての若い黒人たちによる討論会をアップするチャンネルだ。3月8日のディスカッションのテーマは「ブルーノ・マーズは文化の盗用者か?」だった。このテーマが選ばれたのは、ブルーノのサード・アルバム『24K・マジック』が前2作にくらべて格段にブラックミュージック色が強いこと、さらに今年2月のグラミー賞において数多くの黒人アーティストを抑えて主要3部門の最優秀アルバム賞/最優秀レコード賞/最優秀楽曲賞のみならず、本来は黒人アーティストが対象の最優秀R&Bアルバム賞/最優秀R&B楽曲賞/最優秀R&Bパフォーマンス賞の6部門にノミネートされ、そのすべてで受賞してしまったことではないかと思われる。ディスカッションの中でもこの件については触れられている。
THE GRAPEVINE “IS BRUNO MARS A CULTURAL APPROPRIATOR?”
黒人活動家/ブロガーのセレン「ブルーノは文化の盗用者」発言シーン。実際のディスカッションは約1時間におよぶ。
参照:第60回グラミー賞は社会的メッセージの場となった〜女性・マイノリティ・移民・銃・トランプ
セレンは黒人ではないブルーノが黒人音楽を「向上もさせず、そのまま完コピしただけ」の文化盗用者であると激しくバッシングしている。また、多くの黒人ミュージシャンがなかなか売れない中、ブルーノが大スターとなったのは、白人リスナーが「非黒人による黒人音楽」を好むからだとも主張している。ディスカッションではこうしたセレンの主張に対して賛否両論が起こり、議論は白熱する。だが、ビデオが公開されたのちは、何人もの黒人ミュージシャンからブルーノ擁護コメントが出された。
ブルーノ・マーズの複雑なバックグラウンド
ブルーノは黒人ではないが、人種を問われると一言では答えられない複雑なバックグラウンドを持っている。
父親はニューヨークからハワイに移住したプエルトリコ系アメリカ人だ。ただし、アシュケナージと呼ばれるユダヤ系とのミックス。アシュケナージとは世界中に拡散したユダヤ系のうち、ヨーロッパに流れたグループの子孫を差し、つまり白人の血を持つ。ブルーノの父親はハンガリー系のアシュケナージだ。
プエルトリコはカリブ海にある米領の島だが、島民の多くは先住民タイノ族、かつての宗主国のスペイン人、さらにアフリカから奴隷として連行された黒人の血を併せ持つ。島では現在もスペイン語が使われており、島民と米国本土への移住者はともにヒスパニック/ラティーノ(最近ではラティンクス)と呼ばれる。
母親はフィリピンから幼児期にハワイに移住している。フィリピンもかつてスペイン領であったことから、スペインの血筋を持つフィリピン人も少なからずいる。
この両親から1985年にハワイ州ホノルルで生まれたのが、ピーター・ジーン・ヘルナンデス(ブルーノの本名)だ。
母親はフラ・ダンサー、父親はドゥワップなど黒人音楽を得意とするドラマー/パーカッション奏者で、かつエルヴィス・プレスリー・マニアでもあった。両親とピーターを含む6人の兄弟姉妹はバンドを結成し、毎夜、ハワイのナイトクラブで演奏した。バンドの花形は、当時5〜6歳でプレスリーのモノマネを完璧にこなすピーターだった。当時の児童労働法に適っていたかは不明だが、一週間に6晩ステージに立ち、まれに熱を出してステージを休まされると残念でしかたがなかったとブルーノは回想している。
幼いピーターがスパンコールのジャンプスーツを着てプレスリーのヒット曲を歌うさまは評判を呼び、1992年にはサラ・ジェシカ・パーカー主演のラブ・コメディ映画『ハネムーン・イン・ベガス』に出演している。このちびっこプレスリーが後にスーパースター、ブルーノ・マーズになるとは当時、誰も知る由もなかった。
2歳で圧倒的な音楽の才能を見せたピーターは、まずプレスリーを歌い、同時に父親やバンドでの演奏の影響でドゥワップなど黒人音楽にごく自然に親しんでいく。かつブルーノ本人が語っているように1990年代はブラックミュージックの何度目かの全盛期だったことから、黒人音楽にのめり込んでいった。やがてハワイのナイトクラブ歌手では飽き足らず、自分自身の音楽を始めるために高校卒業と同時にカリフォルニアへと渡る。当初はバス代もないほどに困窮したこともあったものの、やがて作曲家、プロデューサーとしておもに黒人アーティストとの仕事で頭角を現した。その後のソロ・アーティストとしての成功ぶりは知られるとおりだ。
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