統計上の「平均値人間」は実在するか?

米軍が1940年代に「平均値という概念の欠陥」に気付いた話。とても面白いストーリーなのでご紹介:

戦闘機の事故原因を調べたところ、コクピットの設計に問題があり、パイロットの身体に合っていないことが分かりました。そこで、改めてパイロットの身体を測定し、その平均値に基づいてコクピットを改良することにしました。これで問題は解決するはずだ……

その頃、ハーバード大学を卒業したばかりの新人研究員ダニエル(23)が配属されました。彼はそれまで誰もが疑わなかった前提を問い直しました。というのも、彼の大学での研究はハーバードの男子学生250人の手を比較するというもので、そこから彼は「平均的な手のサイズ」など存在しないと確信していたからです。

ダニエルは4,063人のパイロットの身体測定データを分析し、「平均値人間」を定義しました。そして、その「平均値人間」にほぼ一致する身体寸法のパイロットが何人いるか調べたのです。その結果は……

ゼロ。

「身長の平均値」というものはある。「腕の長さの平均値」もある。「座高の平均値」もある。でも、10項目においてすべて平均値とほぼ一致する人物は、実際には存在しなかった。

このストーリー、直感に反していて、面白いと思いませんか?

「平均値人間」がいるという思い込みは、リサーチの落とし穴であり、デザインの落とし穴でもあります。気をつけなければなりません。

ちなみに、ダニエルの報告を受けて、調整可能なシートが開発され、戦闘機のコクピットに導入されることになりました。いまでは全ての自動車において標準になっています。


このストーリーからは、あの『失敗の本質』という本も思い起こされます。

日本軍と比べて、米軍はパイロットの人命を重視し、論理と議論を重んじる組織だった、と『失敗の本質』では指摘されています。そんな米軍だからこそ、それまで信じられていた価値観を捨てて、「平均人ではなく個々人に合わせた機体設計」というガイドラインへと速やかに移行できたのでしょう。

また、一度も飛行機に乗ったこともない新米研究員の主張でも、それが正しければ採用するという組織文化が素晴らしいと思いませんか?

権威や空気に流されず、論理的に意志決定することは重要です。しかし、その重要性は、いまだ多くの日本企業に理解されていないようです。一体どうすればいいんでしょうね……

ぼく自身は、社会全体というレベルでは諦めています。身近な範囲の啓蒙しかないな、と。半分諦め。これから日本社会が地盤沈下していっても(というか、そうなると思いますが)、自分とその周りの人たちだけでも生き残らなければなりませんので……