小林さやかさん、26歳。名前を聞いてピンと来る人は少ないだろうが、彼女があの“ビリギャル”だ。30万部を超えるベストセラーとなっている「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(坪田信貴著、KADOKAWA刊)で取り上げられた、ギャル本人である。放蕩(ほうとう)娘の面影は今はなく、どこにでもいるOL風のいでたちでインタビューに現れた。慶応に入ったビリギャルの、その後の物語とは―。
「君はね、人間のクズだよ」。名古屋では有名な中高大エスカレーター式のお嬢様学校でさやかさんが中学3年の時、こんな言葉を校長から投げつけられた。髪を金色に染めてクルクルと巻き、スカートをたくしあげた格好でタバコをふかす。異性との交際も見つかっての無期停学を言い渡された際。「母を悲しませたことは反省したけど、あんたは関係ないだろ、クズと言われるほどのことか」と反発した。
そもそも中2までは「赤い縁の眼鏡をして地味な方だった」。ソフトテニス部で毎日真っ黒になるまで練習、遊ぶ時間もない。道を外れ出したのは、中3でギャル風の子が同じクラスになり、仲良くなったことが大きい。自分も取り残されまいと派手になった。また、男女を問わず他校の友達との交遊が広がり、タバコをはじめとするいろんな遊びも覚えた。夏に部活を引退すると、一気に「はじけた」。
もうひとつ、グレた理由としてあったのが、両親の不和だ。起業した父は仕事で忙しかったうえ、弟を溺愛し、さやかさんと妹をほったらかしにした。高校まで野球をしていた父の夢は、弟をプロ野球選手にすること。そのため野球チームのコーチとして、弟を厳しく指導する。母はそうした教育方針に反発、やりたいことを自由にやらせたら、と進言したが、「俺に任せとけ、お前は黙っていろ」と言うばかり。
両親の溝は広がり、さやかさんも「家に帰りたくなかった」。父と顔を会わせれば必ずけんか。夜中に、友人とのたまり場へ迎えに来た父を「くそじじい」と罵ったこともある。
そんなさやかさんが変わるきっかけは高校2年の夏に、「ビリギャル」の著者である坪田氏が経営する学習塾に通い始めたことだ。内部進学も危うい学力だったことを心配した母が薦めた。「大人はみんな、私をダメなやつと見ている気がしていた」さやかさんに対し、坪田氏はちゃんとあいさつができることを「いい子だね」と褒めた。「褒められたことって、母以外にはなかった」
「聖徳太子」を「せいとくたこ」と読んでも、坪田氏はバカにするのではなく、腹を抱えて笑った。面白いねえ、と。「それがすごく印象的で、悪い気はしなかった。この大人は信用できるな、と思った」
当時の学校の成績は、10段階で数字の下に赤線が引かれて「赤ザブトン」と呼ばれた3以下がほとんど。数学は2、英語は3、体育だけは8。入塾時のテストで出た偏差値は30以下だった。
でもここから、さやかさんの猛勉強が始まる。なぜ、頑張ろうと決意した?
「環境を変えたいと思ったんです。このまま内部進学では楽しくなさそうだから絶対嫌だった。今いる場所から飛び出して、世界を広げたかった。そのためには頭のいい、面白い人に出会える大学に行きたかった」。それで狙いを定めたのが慶大。単に、イメージがいい、という理由だけで。「本気で行けるなんて思っていなかったから」
坪田氏の心理学を駆使したユニークな指導法や、さやかさんの勉強ぶりは、本で詳細に語られている。その結果、第1志望の慶大文学部は落ちたが、同総合政策学部に見事合格した。
大学入学に備えてしたのが、地味になっていた容姿を元に戻すことだったというのが、元ギャルらしいところ。美容院で6万円かけてエクステンション(付け毛)をつけ、メッシュも入れた。洋服も欲しいものを買った。慶応はきれいな人が多いと聞き、「恥ずかしくないように、との思いから」。
大学生活については、「受験で学びの面白さに目覚め、大学でも一生懸命勉強した」という、できすぎの物語にはならなかった。「単位はぎりぎりで、留年せずに何とか4年で卒業した感じです」と笑う。ゼミにも入らず卒論もなく、後に恩師と呼べる先生に出会ったわけでもない。専攻を決め、深くその道を追究したこともない。
その代わり、さやかさんにとっての学びは、「いろんな人に会い、そこから様々な経験をしたこと。授業よりも、それで自分がもっと成長できるのが魅力だったので」。生活の中心となったのはサークル活動。1922年設立の伝統ある広告学研究会に所属した。ミス慶応コンテストを主催する、学生サークルの草分けだ。
フリーペーパーを発行したり、湘南の葉山で海の家の運営をしたり、ミスコンの裏方をしたり。それこそ、名古屋にとどまっていては体験できなかったことに関わり、会えなかったような「キラキラした人」たちと交わった。
名古屋時代によく遊んだ友人たちは、ほとんどがキャバクラ嬢になったという。中にはお店のナンバーワンに上り詰めている子も。一方で、慶応のサークルの同期からは、起業して億単位の年商を稼ぐという人が現れた。「キャバ嬢の方が低レベルだなんて全然思っていなくて、全く真逆の人たちを両方知っている私は、そこが自分の強みだと思っている」
職業に貴賤(きせん)はないはずだが、それでも両方を等価と見られるさやかさんの視線は、確かに人間としての幅広さを示すものだろう。その本人が就職活動で目指したのはサービス業だ。
大学時代、東京・下北沢の人気居酒屋でバイトした。2時間待ちでも入りたい人が列をなすほど、料理と、スタッフの接客の良さが評判の店だった。その体験が人と関わるサービス業を仕事にしたいという思いにつながる。リッツ・カールトンについて書かれた本に感銘を受け、東京ミッドタウンの同ホテルにアポなし突撃をし、「ここに入れて下さい」とフロントで訴えたこともある。もちろん「中途採用しかしていません」というつれない返事で撃沈したのだが…。
結局、大きなブライダル会社に入社した。「自分の大事な人が同じ日、同じ時間、同じ場所に集まるのは結婚式しかない。親への感謝が伝えられる場でもあり、人生一番のイベントに関わるのは、究極のサービス業と感じた」からだ。
しかし、2年半で辞める。マイクにリボンをつけるだけで1000円、赤いバージンロードを引くのは5万円と、なるべくオプションをつけさせる営業を強いられた。そのくせ、社員総会には花火をあげたりして派手にお金をつぎこむ。「お客様思いじゃない」と違和感を感じた。
いったん名古屋に戻った後、また東京に出てきて昨年、別のブライダル会社に転職。従業員10人ほどの小さな会社だが、大学時代にインターンをしたつてで誘われた。
最近、3月に結婚式をしたカップルから、新郎の誕生日のサプライズで来て下さいと呼ばれ、自宅にお邪魔した。前の会社でお世話した人で、今でもつながっている例も多い。「いい式が開けた証拠かなと思う。お客様とここまで深い付き合いができる仕事はなかなかない」。お客さんからの感想で最もうれしいのは、「あなたで良かった」のひと言だ。小さな会社だからこそ、自分を見てくれる人がいると感じる。
昨年末に自らの物語が出版され、大きな反響を呼んでいることについて、「母が私の可能性を信じたように、子どもを信じることでどこにでもある親子関係がうまくいくきっかけになってくれれば」と話す。父の態度も変わり、さやかさんのことを認め、意見も聴いてくれるようになったという。
「ネットで本の感想を読むと、私も頑張ってみよう、とか前向きなメッセージが多くて、それを見ていると泣けてきます。今の私は、こんなに言ってもらえるほど、頑張っているのかな、と。自分も負けないように頑張らなくちゃと思います」
「あのビリギャルだった小林さやか」が、「あの小林さやかはビリギャルだった」と言われるようになれば、それこそ、できすぎの物語として完結するのだろう。
(編集委員 摂待卓)
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