(前回、松平容保の回はこちら)
第3回は桑名藩主松平定敬を取り上げる。定敬は弘化3年(1846)の生まれで、兄の会津藩主松平容保よりも11才年下である。高須4兄弟でいうと、一番下にあたる。
兄弟が藩主を勤めて政治行動を共にしたことで、「会津・桑名」と括られるのが幕末史の定番の記述だが、桑名藩の歴史は会津藩とかなり違う。会津藩は保科正之が入封して幕府が倒れるまでの200年以上、保科(松平)家が藩主を勤めたが、桑名藩は藩主の入れ替わりが多い藩であった。
伊勢桑名は上方の要衝として、親藩大名や譜代大名が入封するのが通例だった。関ヶ原合戦の論功行賞で徳川四天王の本多忠勝が封じられた。本多家が姫路に転封となると、家康の異父弟である久松(松平)定勝が封じられる。
百年近く松平家が藩主を勤めた後、奥平(松平)家が藩主となる。同家が同じく100年ほど藩主を勤めた後、文政6年(1823)に白河藩主松平定永が移ってきた。そして、明治まで松平家が藩主を勤める。なお、定永の父は寛政改革を主導した老中松平定信である。
桑名藩の所領は11万石だが、越後柏崎に6万石近くの分領があり、陣屋を置いて支配にあたった。後に、定敬は柏崎陣屋を拠点に新政府軍に抵抗することになる。
安政の大獄のさなかの安政6年(1859)、定永の孫にあたる藩主松平定猷が死去する。嫡男の定教は幼少であった。そのため、中継ぎの形で養子を迎える話となり、定敬が養子入りする。定敬は14才になっていた。
高須4兄弟のうち、長兄の徳川慶勝(当時は慶恕)は前年に井伊大老(安政の大獄)により隠居に追い込まれ、次兄の茂徳が尾張藩主となっていた。すぐ上の兄松平容保は会津藩主の座にあり、これで4兄弟がみな藩主の座に就いたことになる。
翌年に勃発した桜田門外の変を境に、幕府の権威は失墜の一途を辿る。そうしたなか、文久2年(1862)閏8月に容保が京都守護職に任命される。定敬が兄と運命を共にする時は刻々と近づいていた。
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