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【社会】沖縄戦マラリア 軍民で対応差 浮き彫り
沖縄本島から南西へ三百キロ以上離れた宮古島と八重山諸島。一九四五年四月一日以降、旧日本軍の兵士たちはマラリアなどで次々と倒れていった。戦病死した軍人・軍属は千人超。遺族には戦後、国から弔慰金などが支給されていたのに対し、同じようにマラリアなどで命を失った住民には補償されず、軍民の対応の差が浮き彫りになった。 (編集委員・吉原康和) 「マラリアで亡くなった住民の遺体を火葬場に運ぶ『死の行列』を家の前で毎日、目撃したが、マラリアにかかった軍人も陸軍野戦病院などで次々と亡くなり、病院の周辺は遺体で埋め尽くされていた」 石垣市在住の美術家、潮平正道さん(85)は、終戦前後に目撃した島での惨状を振り返った。 潮平さんは四五年、中学入学と同時に十二歳で鉄血勤皇隊に入隊。潮平さん、陸軍軍人の兄、父親の三人ともマラリアに侵されたが、潮平さんと父親は終戦後、米軍から配給された特効薬「アテブリン」で一命をとりとめた。 旧日本軍は治療薬「キニーネ」を持っていたが、多くの犠牲者が出た。 「軍幹部はマラリア無病地の民家に居住していた。だが、下級兵士は有病地の山岳地帯の兵舎で寝起きしていたため、犠牲になるのは下級兵士ばかり。終戦後、軍幹部へ提供していた自宅に戻った住民が押し入れを開けたら、キニーネが出てきたという話も聞いた」と潮平さんは話す。 一方、住民の被害はさらに甚大だ。八重山諸島だけで三千六百人以上が亡くなっている。多くは日本軍の命令によるマラリア有病地への強制疎開が原因。当時六歳で母親と姉、弟、妹の四人をマラリアで亡くした「八重山戦争マラリア遺族会」会長の佐久川勲さん(79)は「私も罹患(りかん)したが、母の必死の看病で助かった。あの『生き地獄』の記憶は七十三年たっても消えることはない」。 軍人・軍属の遺族には弔慰金などが支給される一方で、住民の遺族らは八九年に「援護会」を結成、国に補償を求めた。戦後五十年の九五年、政府は慰霊碑建設などを柱とする「慰藉(いしゃ)」事業を行うことを決定し、個人補償を見送った。 潮平さんは「慰藉事業は国の償いに値しない。軍人も住民も戦争の惨禍で亡くなったことに変わりはない。住民にも国の責任で補償すべきだ」と訴える。 <戦病死とマラリア> 軍人・軍属の戦没者は、直接の戦闘で亡くなった戦死者と、軍事行動中に病気などで命を落とした戦病死者に大別される。マラリアは、熱帯から亜熱帯に分布する原虫感染症。八重山諸島では、沖縄戦が始まると、軍の命令によるマラリアに感染しやすい地域への強制疎開などで住民の犠牲が急増した。
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