宗教学者が政治に介入するようになった経緯
ご存知の通り、シーア派の大国イランではウラマー(宗教学者)の権威が非常に高く、世俗の長である大統領の他に「最高指導者」という職がありイスラム宗教学者が就くことになっています。
ただし、本当であればウラマーではなく、イマーム(信者共同体の最高指導者)が国を治めるべきとされています。しかし最後のイマームであるムハンマド・ムンタザル(マフディー)が9世紀にどこかに「お隠れ」になっている現在、ウラマーが国を代理で治めるという発想です。
しかしどこまでウラマーが法制定や世俗の統治に関与すべきか、宗教学者同士の長い議論があり、現在の政体が生まれたのです。
1. ホメイニ師のイスラム革命
現代のイラン・イスラム共和国は、 1978年のイラン・イスラム革命によって前王朝パフレヴィー朝を打倒してできた政体です
石油利権によって莫大な富を得たイランは、国王モハンマド・レザー・シャーの指導の元、リベラルな親欧米路線を採り経済発展のため国内に莫大な投資を行いました。
ところが、行き当たりばったりの投資計画と、適切な人材の不在により多くのプロジェクトが頓挫し、また汚職が蔓延して貧富の差が拡大。不公平・不公正が世に蔓延るようになると、人々は国王の退去を求めてデモを行うようになり、とうとう民衆革命による王朝の打倒につながりました。
この革命で人々を率い、中心的存在となったのがホメイニ師です。
モハンマド・レザー・シャーによって国外に追放されていたホメイニ師は、テープに音声を録音してイランに送るなど様々な方法でイランの人々に「国王の打倒」「イスラム教に基づく国家の樹立」を訴えて人々に熱狂的な支持を受けました。
革命後ホメイニ師はイランに帰国し、敵対する政治勢力の排除を行い、シーア派のウラマーがトップに君臨する政体を築き上げました。
ではなぜイスラム革命では、ウラマーが世俗権力の排除を行い、人々がそれを支持したのでしょうか。その根本理由は、シーア派の教義とその解釈を巡る歴史を遡らなければなりません。
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2. 十二イマームの伝承(アフバール)
伝承(アフバール)とは
イランで多数派のシーア派は、正式には「十二イマーム派シーア主義」と言います。
彼らは預言者ムハンマドの娘ファーティマの夫アリーを初代イマーム(指導者)とし、ムハンマドの血筋を指導者の証と考えます。イマームはどの時代にも必ずいなくてはならない半神的存在で、イマームのみがこの世の諸問題を裁定できるとしています。
ところが874年、第12代イマーム・ムハンマド・ムンタザル(マフディー)が「お隠れ」になってしまい、地上における指導者がいなくなってしまいました。
そのため、何か神学・法学的問題や議論があると、シーア派のウラマーは預言者ムハンマドとその後継者である12人のイマームの「伝承(アフバール)」を参照して裁定します。
ウラマーによるイジュティハード
しかし世の中は常に発展し続けているため、現代起こっている問題は9世紀の言説だけでは充分に説明できないことが多いものです。
そこでウラマーがアフバールを根拠にしつつ、独自に解釈を加えて諸問題を裁定するのですが、その裁定はアフバールへの準拠が強いか弱いかによって、
・イジュティハード(اجتهاد)
・イスティフサーン((اِسْتِحْسَان
・キヤース(قياس))
・ラーイ(رَأْي)
などランク分けがなされています。
イジュティハードが「信頼性の高いアフバール的根拠に基づき理性を行使する法的解釈」であり、ラーイが「ウラマーの個人的解釈」です。
シーア派では預言者ムハンマドと十二イマームのみを指導者と認めているので、ウラマーの個人的解釈が入り込まない「イジュティハード」のみを認めてきました。
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3. アフバール派とウスール派の戦い
ところが、18世紀後半からこのイジュティハードすら認めないという一派が現れ、法学的一大論争が勃発することになります。
裁定を伝承のみに準拠するアフバール派
アフバール派はサファヴィー朝半ばのウラマー、モッラー・アミーン・アスタラバーディーによって確立した学派で、「世の中の本質はいつの時代も変わらないため、法的状況もいつの時代も変わらない」というスタンスを取っています。
彼らが準拠する書物は預言者ムハンマドと十二イマームのアフバールをまとめた、クライニー著「十全なる集成」、イブン・バーブイーェ著「法学者いらずの書」、トゥースィー著「判断の書」「諸規定改善の書」の4冊。
この4冊の本に準じて可否が判断ができない場合は、基本的には「否」であると考えます。
シンプルな発想ではありますが、この4冊の中には事実関係が怪しい記述も多く、お互い矛盾する記述もあったりして、世の諸問題すべてを裁定する根拠としては甚だ心もとない感じです。
この「伝承至上主義」のアフバール派に反対する学派が、イジュティハードを重視するウスール派です。
ウラマーによるイジュティハードを重視するウスール派
ウスール派を率いたのが18世紀のウラマー、ワヒード・ベフベハーニーという人物。
彼は歴代シーア派のウラマーの中の「歴代10天才のうちの1人」と言われる程頭がいい男で、イラン南西部の街ベフベハーンを本拠地にして長年アフバール派に反対する活動し、後にシーア派の本拠地カルバラに移動。論壇でのアフバリー派勢力との戦いとシーア派全体の統合を試み、時には暗殺などの暴力的手段を用いてアフバリー勢力のパワーを削ぎ、とうとう19世紀前半にはアフバリー派を撲滅させてしまいました。
ウスール派は「法解釈に際し、伝承を用いつつウラマーの理性に頼る」ことを主張しました。つまるところイジュティハードです。
ウスール派は様々な諸問題に対し柔軟な法解釈が可能になるため、ウスール派の勝利によってウラマーの指導力が求められる条件が出来上がったわけです。
4. マルジャイ・タクリードの統一化
イスラム教には聖職者階級は存在せず、 一定の学的水準に達すれば誰でも独自の法解釈を行うことができるとされています。これをモジュタヘドと言い、「独自の理性的判断を下せるウラマー」という意味です。
ただし、モジュタヘドになるためには何十年という勉強が必要で、そんなにたくさんの人がなれるものではありませんでした。
そのためシーア派では、一般の信徒は普段生きるための法的・道徳的指針となる「模範的人物」を持たなくてはいけないとされています。それをマルジャイ・タクリード(مرجع تقليد مرجع ديني)と言います。
それまでは各々が自分の知ってるウラマーをマルジャイ・タクリードにしていて別に何も問題はありませんでしたが、19世紀中頃から世にたくさん存在するウラマーを、1人のマルジャイ・タクリードの下に統合する動きが現れます。
そうして成立した「統一マルジャイ・タグリード」の2代目シャイフ・モルタザ・アンサーリーは、これまで様々に議論があったシーア派におけるウラマーの役割の論争に「終止符を打った」人物とされています。
アンサーリーによって定義されたウラマーの役割
預言者ムハンマドと後継者イマームは、信者の地上におけるあらゆる活動を絶対的に縛ります。本来であれば預言者の血を引くイマームはこの世に必ず存在し、信者を率いなければなりません。ところが現実は存在しない。
そこで問題になるのが、「ウラマーはイマームの代理足り得るか」です。
アンサーリーはこれをきっぱりと「NO」であると定義しました。
ただし、「共同体全体の福利を実現するため」であればウラマーはイマームの代理で裁定を下すことができるとしました。
共同体の福利とは何か。
それには
・定められた礼拝の実施
・刑の適用能力を持たない信者の財の管理
・統制
・公正な徴税
が含まれます。
つまり上記にまつわる問題であれば、ウラマーはイマームの代理で権限を行使し、信者を指導することができるようになったわけです。
ただし、この権限はウラマーのみに限定されなければならない証拠はどこにもないので、シーア派を標榜する国家の世俗権力者もその一旦を担うことができるとされました。
これにより、世俗権力のトップに立つ王族と、宗教のトップである高位ウラマー・マルジャイ・タグリードの2つが、イマームに代わって人々を指導することができるという体制が構築されたわけです。
ところが、いったんウラマーによるイマームの権限代理行使が認められると、アンサーリーが定義した項目が拡大解釈され、ウラマーによる「権限行使」が増大するようになっていきます。
その背景には、ヨーロッパ勢力のイラン進出によるカージャール朝の危機的状況がありました。
5. カージャール朝の危機とウラマーの役割
ヨーロッパ人による経済進出
18世紀後半、サファヴィー朝の崩壊とその後の混乱の後に成立したカージャール朝は、元からして権力基盤が脆弱な政権でした。
王朝の創設者であるカージャール部族はイランの辺境出身の遊牧部族連合で、軍事力によって国を統合したものの、他の遊牧部族、地方名望家、シーア派ウラマー(宗教学者)など人々を糾合する力量を持った勢力は国内に数多く存在していました。
前王朝のサファヴィー朝は「7代目イマーム・ムーサー・カーズィムの末裔」という支配の正当性があったものの、カージャール朝はそのような宗教面でも正当性に欠けていました。
そんな中、カージャール朝は軍事的威圧に屈しヨーロッパ諸国と治外法権を含む不平等条約を次々と結びました。これによりイランにはヨーロッパ製品が洪水のように流入し、綿織物などの地場産業は壊滅。さらにヨーロッパ資本の銀行がイランに進出すると、上から下まで金融の面でもイラン人はヨーロッパ人に支配されるようになっていきました。
イスラム価値観が顧みられず、経済的にも困窮するようになると、宗教学者ウラマーが人々を救うために「悪政排除」に乗り出すことになります。
代表的な事件が「タバコ・ボイコット運動」です。
これはイラン国内のタバコの生産・製造・販売の全ての権利が外国人に供与された問題で、これに激怒した当時のマルジャイ・タグリード、シーラーズィーは喫煙はイマームに対する冒涜という「宗教令(ファトゥワ)」を出しました。
この効果は絶大で、王族のみならず市井の人々も皆これに従い、おかげで大損をこいたヨーロッパ勢力はタバコ利権から撤退せざるを得なくなりました。
イランの民族主義と高位ウラマーによる民衆の指導はこの時から密接に関連するようになり、冒頭に述べたイラン・イスラム革命に繋がっていきます。
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まとめ
法的根拠はすべて預言者ムハンマドと十二イマームに求める、という体制は我々からするとひどく扱いづらく非効率なように思えます。
現代社会の前提にあるのは、「世界は人間によって理性的に作られ、何か問題があれば人の判断でクリアすることができる」という発想ですが、イランでは「人は神の前では何事も判断できない」という前提があります。
神様が我々の前に姿を表してくれれば万事解決するのですが、そうならないので、イランでは色々な代替手段がとられるわけでどうしても非効率になるのは否めません。
そうなると、効率的な社会が非効率な社会を抑圧するのは当然です。
そんな状況を、ムスリムに言わせれば「そもそもお前たちが神を前提にした社会を築かないのが問題だ」ということになるのでしょうが、我々にとっては文化的にも価値観としても全く違うので難しいものです。
個人的には、全部自分で背負いこまないで神様に委ねてしまうのはラクな社会だとは思うんですけどね。
参考文献
世界歴史<21> イスラーム世界とアフリカ 宗教学者の権威の確立とイランの近代 嶋本隆光