皇軍実態集 私的制裁(part1)
皇軍実態集 私的制裁(part2)
の続き
 昭和十六年十二月二十七日、繰り上げ現役兵として姫路第五十四部隊(輜重連隊)に入隊しました。・・・
 教育訓練はなかなか厳しく、助教の上官たちに信号用手旗でピンピン打ち込まれての訓練が続く毎日でした。班内の日常起居の躾の教育も厳しく、勝手の異なった軍隊生活はなかなか馴染めませんでしたが、幸いに班内暴力は比較的に少ない方でした。(p396・397)

 十一月の末、北京西苑にある北支軍下士官教育隊に、徐州教育隊から我々四人が選抜され派遣されました。この教育隊は北支軍の騎兵、輜重、砲兵等各兵科の自動車使用部隊の合同の下士官教育隊でした。教育訓練は厳しく、教官に竹刀で叩かれることも再三ありましたが、これも自分が立派な国軍の幹部になるためとありがたく頂戴して訓練に励みました。(p398)尾崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_396_1.pdf

 呉で改めて検査を受け、甲種ということになり、徳島航空隊へ転属、三ヵ月の新兵生活を送ったのです。海軍の新兵の教育は誰でも知るように極めて厳しいものでした。そうしなければ誇りある帝国海軍の水兵にはなれぬからでしょう。バットで尻のアザが消えることはなく、海軍軍人としての基礎を徹底的に仕込まれた三ヵ月でした。(p391)保木http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_391_1.pdf

 舞鶴海兵団に入団して四ヵ月間新兵教育を受けました。この教育期間中の海軍魂涵養のため、海軍の伝統であり、名物とも言うべき罰ちょくをほとんど毎晩のように受けました。「甲板に整列」との号令がかかると、私達新兵は「また、やられるか!」と悲壮な覚悟で整列しました。軍人精神注入棒という樫の棒(長さ約一・五メートル、直径五〜六センチ)で尻を思いきり叩かれます。まれには棒が二つに折れ飛んだこともありましたされるままに奥歯をぐっと嚙み締めて、無抵抗で耐えなければなりません。班長さんは京都弁で怒鳴りながら叩き続けます。尻は内出血で黒く変色し痛いこと。現在の言い方にすると、まさに暴行のし放題でしょうか。海軍の伝統となれば致し方ありません。
 他の隊のことを噂で聞きました。「若い新兵が尻の上の腰椎を叩かれて骨折し、下半身不随で兵役免除になって一生不遇な生活に苦しみ泣いた」とか。この罰ちょくは四ヵ月の新兵教育が終わってからも受けました。あの精神注入棒のことを忘れることが出来ないのは、私一人のことではないでしょう。・・・
 次は普通科運用術学校入校です。学校は舞鶴にあり、入校期間は四ヵ月でした。運用術とは、常に甲板上にあって、錨の出し入れ、舵取り等を司る任務でした。この在校期間中も精神注入棒は健在で、私達も再び苦しめられましたが、どうにか卒業出来ました。(p379)

 昭和十八年四月、飛行機でスラバヤよりシンガポールヘ。ようやく「名取」がいました。ドック入りをして敵にやられた個所の応急修理中でした。修理を終えて舞鶴へ帰り本修理をするとのことで、やっと「名取」に乗れました。ドック入り中だから勤務というものはないのですが、そこで「お前等はたるんでいる。ちょっと気合を入れてやる。艦橋のところへ整列!」ときます。注入棒ではなくビンタです。これは大したことなく助かりました。(p381)

 不穏な相談がありました。新兵教育に引き続き、ずーっと私達に精神注入を行ってきた班長がちょうど同じ艇に乗り合わせていました。私達の恨みは深く、「あの野郎め。ただではおかぬ。報復してやれ」との同年兵の気運が醸し出され気持ちが一致しました。夜間航行の勤務中に皆でよってたかって奴をつかまえ、海へ放り込めと衆議一決。しかしなんとなく実現しませんでした。悪運の強い奴と思わざるを得ません。(p382)矢萩
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 海軍水兵として舞鶴海兵団へ入団で、自分のように年のいった者まで必要あるとは、戦況も非常に悪化している証拠だと思い、生きて帰ることは出来ないだろうと覚悟をしていました。・・・
 食事以外に飲む水はなく、手洗い場で水を飲むのを見られると大変で罰せられました。その時は自分一人だけでなく班の者全員が制裁を受けます。同期兵以外の兵に見られぬ間に水を飲みましたが、暑い日が続くので、水と食い物には飢餓のようでした。そのため身体は日増しにやせこけていきました。・・・
 短期間の訓練兵ですから、次から次と習うことが多く、海に出てボートを漕ぐ練習に行き、生まれて初めて海を見た人も大勢いました。ボート一隻に十二人ぐらいで両方に並び、櫂で水をかき、ボートを漕ぎます。数十隻で競うこともあり、一番ビリの組は、その日の昼食が欠食となるので皆必死にボートを漕いだものです。
 また、武装して早く整列する訓練もやりました。各班競争で、負けた班は罰として上司の訓示を聞かなくてはなりません。「お前等は、娑婆のことを思っているのか、立派な軍人になっていないとは恥ずかしいことだ!残してきた親や子供、妻もいるだろうが、気合が抜けているからだ……今、気合を入れてやるから歯を食いしばれ」と言われます。歯を食いしばらないと口が切れるからです。並んだ順に頬を殴りつけられるのですが、身体が動くと再び殴られます。このようなことが、二〜三日に一度必ず実行されるので、誰もが両頬がはれあがっていました。頬が赤黒くなった者、耳が黒くなった者がいます。まるで畜生同様に扱われ情け容赦は絶対ありません。「命令だ」ばかりですので、「全員死ね」と言われたときの死の覚悟ができていきました。・・・
 青森から函館の旅館で一泊、次の日は「白洋丸」という軍用船に乗るのです。何百人か判りませんが大勢の軍人でごったがえしていました。船中では訓練はありませんが、精神面の訓練があり、軍人勅諭等も暗記させられました。時々整列の号令がかかり「お前達は、この頃気合が抜けているぞ! 気合と活を入れてやるから両手を高く上げろ! 足を開いておれ!」と丸太ん棒で叩かれます。それは痛いこと痛いこと、頭の上までジーンとなります。そのために尻から足の後ろ下半身は真っ黒になりました。そんなことをすれば全員倒れてしまうと思いますが、当時は皆精神が統一されていたから、一人として倒れる者はいませんでした。
 軍隊では、一日でも早く入隊した者が上級者ですから、訓練をつけるのは若僧で、二十歳前の小僧が私のような三十八歳の兵隊を制裁するのです。上官の命令は「朕の命令」、即ち「天皇の命令だ」と言ってビシビシと叩くのです。何事も仕方なしでした。
 一週間が過ぎ、水平線に島のようなものが浮かんできました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。きました。「目的地に着いたぞ!」と言われました。千島列島の北端、占守島に上陸しました。
 我々の部隊名は〝第五十二警備隊〞であり上風陸戦隊、第二分隊速射砲隊で、速射砲一門。隊長は村山兵曹で次に保坂水兵長、蛸井兵長でした。二人ともキスカ島の生き残りで気性は荒く、下の者達は皆困っていました。我々は本当に苦しめられました。年齢は十六歳でしたから私とは親子ほどの差がありましたが、いつも鬼を見る思いで、今でも兵隊の当時のことが目に浮かんできます。・・・
 晩には、必ず整列の声が掛かり「お前等は気合が抜けている! 気合を入れてやる」からと、頬を殴られたり、尻を打たれました。お尻から下股の方まで真っ黒になり、なにしろ、入団以来毎晩のことですから、お風呂に入ると戦友同士で黒くなっている程度をお互い見せ合っていました。叩かれて倒れる者がいたら再び打ち直され、不動の姿勢が出来るまでやらされました。上司でも各人の気性で情け深い人もおられ、その人には今でも感謝しています。・・・
 このような時、一人の同年兵が銃弾一発を紛失し、班長にビシビシ打たれる体罰が加えられました。そのためか四日目の朝死亡しました。私はお経が読めたので戦友と二人で荼毘に付しましたが他の人は誰も知りませんでした。私は、万が一生きて帰ったら遺族の人に話してあげようと思いつつ、一生懸命読経しました。(p359~364)松島http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_358_1.pdf

 私は大正十一年三月二十七日、愛媛県上浮穴郡久万町の生まれで、昭和十八年八月十七日佐世保へ入団(現役)しました。・・・
 佐世保では、私一人汽缶の方へ、他の二人は水兵ということで別れ別れです。海兵団の新兵教育は三ヵ月間。毎夜整列してお尻へ精神棒をたたき込まれます。一人でも悪いと団体責任でやられます。お尻が黒くなって、入浴の場合はタオルを巻いて隠したものです。(p353)

・・・そのうち、私なりに考えて、船の底の汽缶は駄目だと決めて、班長さんが沖縄出身の方でしたが申し出て、横須賀の工機学校を希望し許可され、昭和十九年一月二十七日横須賀目指して佐世保から新兵二十人同行出発しました。・・・
 従軍の全期間を通じて、工機学校の三ヵ月が最も苦しかったと思います。毎夜の精神棒は勿論、実習中に不都合があると上の人からその場にあるスパナとかハンマーとかで頭を打たれ、時として不運な学生は頭部裂傷も出る始末。とにかく地獄でした。
 昭和十九年四月やっとのことで卒業出来ました。ところが学校を出ても乗る船が無く、待機しているうちに、五月七日長崎県大村航空隊へ仮入隊と決定。大村には一ヵ月いました。
 大村では電気とカマ(汽缶)に分けられました。私はカマは嫌いだったので電気に入れられました。広い大きな配電室に沢山の配電盤その他計器類がズラリと並んでいます。「これから説明をする。よく聞いておけ。今夜から配電盤の当直だ」と言って説明が始まります。新兵ではあるし、十人ぐらいの同年兵が全員目を白黒。とにかく当直に立つ、すぐ完全に任務が出来ない。毎晩整列。精神棒。普通に立っていると棒の力で吹っ飛ばされるので、壁に向かって両手で体を支えて棒を受ける。現在の若者は辛抱出来るでしょうか。海軍魂の気合入れ。経験した者でないと判りません。(p354)清水
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_353_1.pdf

 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。尻の皮が腫れ上がって便所へ行っても屈むのに涙が出る程痛かったものです。個人的な私的制裁はなく、自分は青年学校を卒業していたから他の戦友より何かについて有利なことが多かったのですが、全隊責任の罰は致し方なく同罪でした。(p341・342)
・・・自分達の乗船(艦)は最新鋭の航空母艦「瑞鶴」(五万七千トン)で、これに便乗しての出陣でした。艦隊勤務の厳格さは、海兵団にいた時以上に激しいものでした。精神打ち込み棒が一日に何回も風を切って尻に飛んできました。歩行困難なほどに腫れ上がりました。(p342)片桐
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_340_1.pdf

・・・その後私は大阪の被服廠へ徴用となったが、勤務は予想外に厳しく、点呼で対抗ビンタを取られることもあったので、進んで兵役の志願をした。
 昭和十七年十二月一日、歩兵第二三四連隊要員として歩兵第一一二連隊補充隊第二中隊へ入営。十二月十七日、転属のため丸亀を出発。以後下関、新義州で朝鮮へ入り、山海関を通過し、北支那より南下し中支へと輸送された。
 その輸送中の出来事であるが、浦口より南京へと揚子江を渡り、兵站宿舎で二日間を過ごした。同年兵戦友と三人で景色の良い所へ行ったら、歩哨に捕まり衛兵所へ連行され、衛兵司令より気合を入れられて、顔は腫れ上がり、口の中は切れて出血。ほうほうの態で宿舎へ帰り上官(兵長)に報告。兵長殿は「よし!その衛兵所へ俺を連れて行け」と新兵三人を同行して衛兵所で「前線の第一線要員として輸送中の大事な兵を、些細なことで傷つけるとはどういうことか。南京あたりの後方で楽に警備しているお前等とは大違いの大事な兵だ。何故殴ったか? 理由次第では承知せん。上級の隊長と談判する。返事は?」と恐ろしい剣幕で抗議した。同じ兵長の衛兵司令も最後には陳謝して事はすんだ。私等三人は「頼りになる兵長殿!」と信頼を高めた。(p326)高橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_326_1.pdf

・・・私の入隊通知が八月十五日に来て、翌月の九月五日に山形連隊(北部第十八連隊)に入隊することになりました。・・・
 内務班は生死・苦労を共にする軍人の家庭ですが、あら探しの名人の万年一等兵と言われる程度の低い古年兵が一人いて、万事文句を言っては、ビンタも手で殴られるのは良い方で帯革ビンタの雨、初年兵同士での対抗ビンタもやらされました。(p282)今田
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 私達は槍部隊(独立混成旅団)の独立歩兵第一〇五大隊で第二中隊は杭州より自動車で所要時間約三時間離れた余杭を警備していました。
 私達初年兵はこの部隊初めての現役兵で大歓迎を受けました。翌日より班長、初年兵係による猛訓練が始まりました。毎晩、初年兵と背嚢は叩けば叩く程良くなると言って叩かれて、昼間の訓練、夜の内務と昼夜一寸の油断も許されない猛鍛錬が続きました。(p274)山本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_273_1.pdf

 私は、徴兵検査を受けた昭和十五年の暮れに召集令状がきて、鳥取の歩兵第四十連隊に入りましたから、甲種合格になった人より早く軍隊の飯を喰ったことになります。・・・
 しかし演習の終わりで兵器の手入れの段になると、小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一小銃の中に入った砂の除去に大変泣かされました。一粒でも砂が見付かれば「手入れ不充分」でビンタか捧げ銃などが待っていました。そのころの印象は強烈に私の脳裏に残っているのか、あれから六十年を経た今でも夢を見ます。小銃を紛失した夢を見て、どうしようともがいて、目が覚めて夢で良かったと、ほっとするのです。(p262・263)

 少しは軍隊生活に慣れてきたかなあと思い始めた昭和十六年三月十六日に宇品を出航して北支の塘沽に上陸、天津、保定を経て石家荘に着き、トラックで約一時間余り東南に向け走り、威県という小さな町に着きました。ここに私の所属する第百十師団第百四十連隊第四中隊の本部がありました。・・・
 最初、軽機手を命ぜられましたが、貧弱な体格の私では軽機が重くて走ることもできず、動作も鈍いので途中で交替してくれと文句を言ったらビンタをもらいました。戦後、伍長に会った時「あんたにビンタをもらいましたなあー」と言ってやったら変な顔をして黙っていました。(p263)田中
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_262_1.pdf

 六月一日、幹部候補試験に合格し集合教育を受ける。いよいよ将校生徒としての教育で、その責任の重を身をもって感じた。十一月三十日、集合教育終了、十二月一日付、陸軍軍曹となり北支保定陸軍予備士官学校に入校した。将来の将校としての、観測、通信、専門の指揮班の教育を受けたのである。・・・
 また、もう一つの忘れ得ぬ思い出は、消灯後、隣の戦友と笑いながら話をしていたら、そこに週番士官の巡察があり、戦友と二人週番士官室に連行され、「消灯後に話をしているとは軍規に違反する」と、下着のままコンクリートの防火用水槽に五分間首まで入れられた。何分にも厳寒二月の冬の夜であった。このように、将校生徒としての見せしめのための厳罰である。これは一生忘れられない体験であった。(p227)青山
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昭和十七年
四月  一日 召集で姫路中部四六部隊応召
・・・旗の波と大合唱に送られて列車で姫路へ出発、無事入隊し新兵教育に励みました。周知の通り毎日の朝夕ビンタを喰らい、内務班教育の厳しさを体に叩き込まれました。・・・
 服装検査、兵器検査、軍装検査とまた気合の掛けられ通しで、在郷では味わえない苦痛に満ちた新兵期間を涙を流し歯をくいしばり、故郷を出る時の家族、友人、町民の激励を思い起し、これも御国のためと頑張ったことでした。(p216・217)寺川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_216_1.pdf

 私達の栄光に輝くべき大学の卒業式はまた、戦争への門出でもあった、昭和十七(一九四二)年十月一日、仙台東部第二十二部隊歩兵連隊に陸軍二等兵として入隊。いわゆる初年兵の始まりであり、まさに激動の我が青春の始まりでもあった。(p463)
 毎日の演習のつらさ、規律の厳しさ、汚れた下着を着ていると早速ビンタのお見舞、といって洗濯する時間もなく、揚げ句に上官の下着まで洗濯しなければならない。食事の用意、食後の後始末、掃除、雑用は皆初年兵の肩にかかっている。少しでも手を抜くと「セミの鳴き声」といって柱に登り、自分の鼻をおさえてセミの鳴き声をまねる。あるいは「ウグイスの谷渡り」と称してベッドの下にもぐり、隣のベッドとの間から顔を出し、またもぐって次のベッドとの間から顔を出す。こんな罰則がすぐ適用される。(p464)
・・・そして前橋陸軍予備士官学校入校になったのである。・・・学校での生活を一部取り上げてみると

1、起床ラッパが鳴り、起きて服を着、毛布をシワ一つないようにたたみ、枕を一線に揃え、窓ガラスをど真ん中に開け、靴を履いて校庭に出て全員整列完了まで五分間、校舎の出口に下士官が剣道で使う竹刀を振り上げて待ち構えており、五分を経過した者は竹刀でいきなり頭を殴られる
2、校舎から一歩でも校庭に出たら駆け足、歩いているのが見つかると営倉(学校の留置所)一日の罰。
3、集合時間一分遅れたために一分間の時間の誤差があると戦闘機なら何キロ飛んで行くし、騎兵隊なら何キロ進行する。作戦に大きな誤差が生ずるということで、罰として校庭を三周六キロの全力疾走。
4、敵襲があったと仮定して夜中に突然起こされ、武装して整列するという「非常呼集」と称されることが一晩に十三回。寝る時間全く無し。
5、慶応卒業の男爵の息子ともう一人が、敬礼の仕方を間違えたために、「将校生徒たる者が間違えるとは何事か」と言うことで全員集合。百五十人の前でカシの木刀で尻を十回たたかれ、内出血で陸軍病院に入院してしまった。(p465・466)森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_463_1.pdf

私は茨城県友部の筑波海軍航空隊に約百六十人の学生とともに赴任した。(p448)
私を含め一一〇人の者は戦闘機教程に所属が決まり、それぞれの教育練習航空隊に転出していった。私は大分航空隊に行くことになった。
 その晩、集会所に集合させられ、「娑婆っ気を抜いて、海軍精神を入れてやるから有り難いと思え」と海兵を卒業した飛行学生達が理由もなく、一人少なくても十発ぐらい、中には卒倒する者が出るくらいの鉄拳の洗礼を受けた。(p449)加美山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_447_1.pdf

 佐世保海兵団に入団し第四十六分隊であり、・・・教育中のバッタ(堅い棒で尻を叩く)を私は一度だけしか食わなかったのですが、団体としてはやられました。(p430・434)近藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_430_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(p389)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_388_1.pdf

・・・昭和十七年九月一日、呉海軍病院第四十九期普通科看護術練習生として入隊することになりました。・・・
 入隊後三ヵ月の教育訓練は兵科の区別はありません、一般水兵の教育訓練で終始します。起床と同時のハンモックの片付け作業は背の低い私は毎日ビリで、罰として便所掃除に回されました。特に辛かったのが毎晩の精神修養棒による制裁です。連帯責任と称して誰か何かあれば、皆で整列して、太さ六センチぐらいの六角形の樫木棒で尻を、腫れ上がり紫色に変色するほど殴られるのです。時にはブッ倒れないように初めから物に結び付けブッ叩き続ける悪質な制裁もあり、上司からは禁止されていたらしいのですが、分隊上等の不在時をねらって制裁行事が毎晩続けられ、新兵達には全く生き地獄の三ヵ月でした。(p385・386)安井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_385_1.pdf

 満州国牡丹江省東寧駅下車、初めて踏む大陸の地、満州大平原を軍靴の音も高らかに大城子の満州第二一二部隊(野砲兵第二十四連隊)に入隊したのが十一月二十五日でした。
 満州編
 第八中隊に配属され、内地での石橋忠幸曹長の予言通り石橋登中尉の中隊でした。・・・
 消灯ラッパが鳴ると藁布団の中に入りますが、消灯で廊下の灯りだけで薄暗くなると進級遅れの二等兵が二、三人小声で「初年兵、集合」と。初年兵は素早く食台横に整列、補充兵も一緒です。「貴様等タルンどる。足を踏んばれ」と一メートルぐらいの精神棒で小突きながら二言三言言った途端、帯剱用の革ベルトが頬に空を切ってくる。革スリッパが顔へ……。翌朝は洗面は水で濡らすのみで、朝食は口が腫れて嚙むことが出来ず、味噌汁で流し込むのです。
 関東軍の私的制裁はさすがに凄いものでした。(p366・367)馬場
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_365_1.pdf

 私は昭和十四年三月二日、大阪に集合、朝鮮の清津に上陸、軍用列車で豆満江の国境を通過、九日琿春に到着、琿春駐屯隊歩兵第八十八連隊第一歩兵砲中隊に入隊しました。・・・
 関東軍名物のビンタは当然猛烈で、軍靴や上靴ビンタの嵐は初年兵を見舞いましたが、私は幸いにも戦友に恵まれ、内務班の先任上等兵が当たりましたので、夜の点呼後古年兵が「初年兵、整列!」と気合をかけると、戦友の先任上等兵が「郡司! これを洗面所で洗ってこい」とわざと私を逃がしてくれたので助かりました。
 洗濯が終わって班内に戻ると、他の初年兵は皆顔を赤くはらしていました。内務班長の小松沢軍曹も私を可愛がってくれ、当番にしてくれたので助かりました。私が初年兵の中で一番助かったと思っています。(p287・288)郡司
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_287_1.pdf

 前述のとおり、昭和十四年八月、山形連隊へ応召入隊、初年兵教育の基本は「軍人勅諭」を忠実に勉強し訓練に励むことでした。また入隊と同時に「誓文書」を書かされて中隊長に提出しました。班内へ入ると例の私的制裁がありました。初年兵が全員横一列に並ばされて、親にも殴られたことがないのに、数回力まかせに殴られました。この悪い思い出は一生忘れません。一般家庭や社会では行われない蛮行ですが、軍隊という特殊社会では、教育鍛錬の一助として広く実施れていました。(p276・277)寒河江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_276_1.pdf

・・・二月二十三日朝鮮羅津に上陸、直ちに貨車に乗せられ、二、三日後、満州東安省虎林に到着、歩兵第七一二部隊に無事入隊をする。・・・
やがて消灯ラッパが鳴ってベッドに入ったかと思うと、教育係に起こされて精神訓話であり、班内の誰か一人がへまなことをすると、班内全員の責任だと言ってビンタが飛んで来る。軍隊という所は絶対に言い訳がきかないところである。その当時は人生の苦しみを一年間で味わったと思った。(p271)越智
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_270_1.pdf

・・・三月になったというのに満州は寒く、目的地勃利に着いのは三月六日と記憶しています。・・・
 いよいよ、独立守備隊第三十四連隊第一中隊入隊です。初年兵教育は、小銃、軽機関銃、擲弾筒、馬が五頭、乗馬と駄馬で、馬は十五頭ぐらいで飼育の世話をせよとのことです。
 初年兵教育の時、中隊には古参兵で癖が悪く進級しない万年一等兵が数人いて、二年兵からそばへ寄るなと教えてもらい助かりました。初年兵時代は古兵や上級者からビンタ(罰として頬などを叩る)をもらいましたが、私は少ない方でした。特に、鈴木部隊長が大変良い人で、今まであっ「私的制裁を禁止する」とたやかましく言われ、中隊内でのビンタは少なくなってきました。軍隊での初年兵時代の教育訓練は当然厳しいものですが、それより辛いのは内務班での私的制裁です。一期の検閲も終了し、やっと一人前の兵隊になり、満州の気候にも慣れて、二年兵になってから私は自分の体験から、可愛想だから下級者にビンタはとりませんでした。(p233)寺本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_231_1.pdf

 翌昭和十五年四月、十五年徴集の初年兵が入隊して来たので、初年兵係を命ぜられ、三ヵ月間の教育を行う。自分達が味わった初年兵当時の苦しい内務班教育、そして演習、特に、誰しもが味わった教育時のビンタは、あのようなつらい思いは、出来るだけやりたくないと思った。しかし、どうしても教育上やむを得ず、二度ビンタをくれたことがあったが、復員後その者達と戦友会等で会った時、心から謝罪の念にかられたものだった。(p224)熊田

私の入隊先は支那の高射砲第十五連隊第五中隊(甲一四〇九部隊梁田隊)、場所は北京とのこと。・・・
 当然ビンタは覚悟していましたが、一般によく言われるシゴキは覚えがありません。五回か、六回くらいしかビンタの覚えがありません。その点助かったと思います。(p165・166)山内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_165_1.pdf

 四月十日、徳島歩兵連隊通信中隊に入隊し、軍人勅諭に基づく三ヵ月間の厳しい教育訓練を終了。。一期検閲を受けるため岡山の日本原へ移動しました。
 私は兵隊検査で第一乙種となった時から、「やがては必ず入隊の日が来る。それまでに一日も早く軍人勅諭を丸暗記しなくては」と、在郷軍人会の先輩からの指導もあり、毎日努力を重ね、入隊時には楽に大声ですらすらと朗詠できました。そのためか新兵教育の期間中は模範兵として取り扱われ、いろいろと楽をさせてもらいました。・・・
 また、中隊の小隊長さんの一人が野戦帰りで片足が悪く常に自転車を使用していましたが、私はその自転車も整備点検し、軽やかでピカピカに仕上げて、小隊長の将校さんよりお礼を言われたようなこともあり、対抗ビンタや、きつい苦しい制裁とかは、予め適当な理由で隊から外れて楽をさせて、もらったりしました。(p160・161)
・・・武昌に上陸。鉄路南下。横江橋に駐屯する第四十師団第二三五連隊通信中隊に配属となりました。
ここでは初めの三ヵ月間は主としてモールス信号、五号無線機の操作の教育を受けました。この三ヵ月の間、初年兵三人で消灯後、チャン酎を飲んで深酔いしました。折悪しくその夜「初年兵集合」がかかり、三人は酩酊です。平素より要注意の○○新兵が首謀者と分かり、私もビンタの二〜三発やられましたが、○○君は徹底的にやられ、数日間は班内で臥床の状態でした。半殺しにされました。(p162)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_160_1.pdf

小野武夫「戦後農村の実態と再建の諸問題 啓明会研究報告」

第三、絶対服従の強要
  軍隊に於ては上官の命令は絶対的なものであって、これに服さない場合には抗命の罪として処罰せられるのである、命令に対しては命令以外の行動も以内の行動も許されない、命令せられたゞけのことをやればよいのである。其の間に自己の意志や判断を交へた行動は絶対に禁止せられてゐたのである。命令の絶対服従は個人意志の抹殺である。批判や意志の働きを持たない命令のまにまにに動く兵隊が模範兵である。例へば中隊の玄関の掃除を命ぜられた兵隊が、ついでに営庭まで掃除することは余計な行動として叱責せられる。しかも其の際一言の抗弁も許されないのである。正当の理由ある言い訳と雖も『それは文句だ』との一言のもとにはねつけられる。軍隊に於ては道理は常に上級者にあり、そこでは常に意志なき人間が養成されつゝあるのである。従って長い軍隊生活を送ったものは積極的行動の意図と批判的精神とを喪失してしまふ。最近軍関係の学校から一般学校に転入学した生徒に就て見ても判るやうに、彼等は命令せられたことだけは忠実にやるが、それ以外のことを自主的に積極的に行ふことが出来ないのも、此の間の事情を物語るものである。かゝるところに進歩があり得る筈がなく、独善と保守とが全軍隊を支配するのであった。

第四、敬礼の強制
  軍隊に入って先づ第一に教へられるのは敬礼の仕方である。軍人勅諭にも、『軍人は礼儀を正しくすべし』との一項があげられてゐる。人間社会に於て礼儀が尊重さるべきことは言ふ迄もない。週番の任務につく士官と下士官はきまった様に敬礼の厳正を説く。それ程迄に敬礼がやかましく注意せられるのは、其の反面に於て敬礼がなかなか励行せられないことを意味する。軍隊に於ては敬礼は上級者に対する服従心の現れであると教へてゐる。従って欠礼することは不服従を意味することになる、下に記する欠礼に関する一兵長の挿話は此の間の事情をよく語ってゐる。ある日、彼のゐた兵営で、下士官の引率する部隊が帰営の途中営門近くにさしかゝった際、師管区司令官の乗ってゐる自動車に出遭った。そこで下士官は『歩調取れ、頭右』の号令をかけたが、最後尾にゐた兵長はそれが聞えなかったゝために欠礼して通り過ぎ、其のまゝ営門内に入ってしまった。これを認めた司令官は自動車を疾駆して其の跡を追って営内に入り来り、自動車から降りるや否や、該兵長を捕へてなぐった後、重営倉二十日を言ひ渡して引上げた。欠礼によって彼等の威厳が毀損せられたと感ずることの如何に大であるかゞ此の一事によっても窺へよう。軍隊に於ては敬礼は上下垂直の階級制度を維持する手段として最厳格に行使せられてゐたのである。

第五、階級的差別の行き過ぎ
  軍隊に於ける階級的差別の厳格さは他の社会に於て其の比を見ない程はげしいものであった。将校と下士官と兵との間には越すべからざる限界があり、いかに打解けた時と雖も対等の言葉で話をすることは許されない。便所の如きも将校用、下士官用、兵用と判然と区別せられてゐる。同じ兵の間に於ても星一つ違へば、主人と使用人の如き差異が存ずる。一等兵から二等兵に対しては『おい貴様』と呼ぶが、二等兵から一等兵に対しては『古兵殿』としていとも叮重なる言葉遣ひが要求せられる。食事に於ても古兵から先に盛りつける、其の盛り方も二等兵よりはずっと多く盛らなければならない慣習になってゐる、所が演習其の他の使役で実際に腹のすいてゐるのは二等兵であるが、二等兵は自分の空腹を抑へても古兵に沢山の飯を盛るのである、そして二等兵は御飯もよく咬まないでそこそこにかき込んで古兵等が食事の終るのを待ち構へ、其の食器を我先きに取り下げて洗滌しなければならない、古兵が食べ終っても尚食べてゐようものなら、早速お小言が飛ぶのである。二等兵は食事すら落着いて食べられないのである。
  古兵に対してすら此の様であるから、下士官の飯の盛付に就てはおこげとか、御飯の上つ面になって固くなったところの入らない様、又香物の入方も三切は縁起が悪いから四切入れろと云ふやうな点にまで注意をくばり、下士官室に御膳を運ぶには呼気のかゝらない様にとマスクを掛け、膳を目の高さに持って行かなければならない。マスクもかけず、口より低く御膳を持って行くと、こんなきたない飯は食べられぬと突き返されるのが常である。
  食事以外に於ても古兵の兵器の手入、身の廻りの世話は二等兵の義務とせられてゐた。演習から帰ってきても古年兵は煙草をふかして無駄話をしてゐるが、二等兵は疲れた体を休ませる暇もなく、自分ののと共に古兵の銃や帯剣の手入、泥靴の手入をしなければならない。兵器の検査が行はれる際でも、古兵の兵器の手入が悪いとの注意を検閲官から受けると、古兵か其の後で必ず二等兵の手入が悪いからだと激しい私的制裁が加へられる。かうして軍隊に於てはすべての責任が部下の者に負はされるのである。従って長い間軍隊生活を送ってゐると、自分のことを自分でする二等兵時代のよい習慣すらもいつしか忘れ果てゝ、自分のことを人に命じて平然として怪しまない悪い習慣を身につけて家庭に帰るのである。
  日常生活に於て右の如くであるが、営外の作業に於ても実際に働くのは上等兵以下の兵卒であって、兵長以上は指揮監督者である。陣頭指揮は文字通り指揮であって陣頭に立って兵と共に十字鍬をとり、円匙を持って働くのではない。之は終戦後に於て目撃したことであるが、米国進駐軍が或作業に於て兵下士官は勿論、将校すら一緒に作業に従事してゐるのを見て感心した。日本の軍隊にはついぞそんな和やかな共働的光景に接したことがなかった。軍の一致団結が強調せられながら、其の成績の挙らないのは上下の階級的差別が余りにも厳格に過ぎるところにある。日本の軍隊では将校と兵とが打解けて話すといふことは特殊な私的関係のない限り存在しない。いつも裃をつけて接してゐるので、其の間に人間的な親しみといふものは涌いて来ない、そこに真の団結心の起らない原因がある。

第六、私的制裁の公認
  戦時中の連合軍俘虜虐待者が戦争犯罪者として裁かれつゝあるが、其の判廷で挙げられてゐる虐待と同じ行為が平素軍隊内で同胞軍人に対して加へられ、しかもそれが当然のことゝして何等怪しまれてゐなかったといふことを、私は証言し得るのである。些細な過失に対してもビンタは当然の報酬と考へられてゐた。軍隊では気合ひを入れるといふ言葉が使はれてゐるが、上級者によく仕へないものは、何かのきっかけをつかまへて思ふ存分の制裁が加へられる。例へば帯剣のバンドの金具のついた方で顔をなぐるとか、裏に金を打ってある革のスリッパで顔をひっぱたくとか、野蛮極まる方法が行はれ、其のため耳の鼓膜を破られたり、歯を折られたりした兵も尠くなかった。ある二等兵が炊事場へ茶をもらひに行った処、其の態度がよくないと言ふので、炊事当番の兵隊が、いきなり煮え湯を其の二等兵にひっかけ、それが二等兵の眼にひっかゝって両眼失明するに至った。大分問題になった様であるが、有耶無耶の裡に終ってしまった。上級者に対して絶対服従の軍隊に於てはかゝる蛮的行為に対しても殆ど一言の抗議すらも許されない。従って蛮的行為に堪へ切れずして逃亡する兵も尠くなかった。逃亡者が多くなると軍の威信に関するので、上官は逃亡者の続出を防止しようとして、私的制裁を禁ずる方針に移りつゝあったが、このやうな弊風は容易に抜け難いものであった。腕力を以て威嚇せねば自分の思ふ様に動かせない指揮官は、最も低劣な指揮官と云はねばならない。

結び
  以上項を分って述べ来ったところによっても分る如く、日本の軍隊に於ては兵隊は全く其の人格を認められていない。人格の認められない兵隊は如何程兵技に長じてゐても、立派な兵隊とは言ひ得ない。軍規厳正を誇る日本軍隊の南京に於ける、或はマニラに於ける数々の蛮行が、世界の人々から指弾せられてゐるが、其の根本的原因はかうした兵営内の誤れる兵隊指導に存在してゐたのである。(p53~59)