映画🎞ワイルド・スタイル
作成日時 2017-02-10
コメント日時 2017-02-20
птушка, わたしはわたしたかった、かぎつけたにおいを、とびらのむこうがわから、とばりをたたいて、してきなぶんたいというのはいつもなにかあそこをものがたっている、がたがたしたちそうのようなかたり。屈葬🔥 ❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️ ( 自 由 の 翼 を く だ さ い ) ❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️❄️ птушка, あなたはなにかしてくれましたか? あなたはなにをしてきましたか? 面接官の問いにわたしはかぎをわたして云う。そのかぎにわたしのむねのあなをさしこんでください、まちがえた、そのかぎをわたしのむねのあなにさしこんでください。かそう☠️ ほき、ぼき、🌃 おちていく日野啓三、その向こうがにある鄭義、そしてその先にある叙述トリック、そこにかくされたひみつを、存在しなかったヒミコのようにあばきだす。わたしとてそう不在ではない。からすのようにぐるぐる歩いてまわっている。🈳 だから、птушка, ミスティカ。Mistakea. ザンボーロ、露と米とをかきまぜたスゥプにて。 だから💗速やかに死ぬべきなのだ。矢継ぎ早に質問を繰り出す面接官。何故ですか? 何故あなたはまわっているのですか? 何故あなたはまっているのですか? なにゆえあなたは舞っているのですか? 空を。雲を。つかむためです。わたしとてそう簡単には説明できない。その訳を。 ならば、птушка, ならばはなはどうですか? はなのなまえはおぼえられますか? 地雷の呼吸を止められますか? わたしは歩きながら考える。птушка, いつの間にか新幹線🚄に乗っていて、わたしはその中をうろうろしている。ちょろついてんじゃねえよ! わたしはわたしにどなる⚓️。ならばわたしは、ことばを喪うべきなのか。わたしはただわたしたかっただけなのだ。卵を産む鶏の蠕動運動のような魂の呼吸を。 💐それから、птушка, あなた🌼にはなにができましたか? птушка, 生きることと愛することのどちらですか? птушка, のどちんこ? 🌸птушка, のどん? птушка, ど?んば? птушка, り? птушка, りりりぃ、りりりぃ。ライラックの花🌺がしのとちに、しずかにみだれている、乱気流のように。 あなたにはなにもわからない。 птушка, ptushka(プトゥーシュカ) 男性名詞 「鳥」 (ベラルーシ語)
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こういうのがかきたかった。よくこの掲示板頑張って作ってくれたね。俺はこれが投稿できただけで十分満足。ありがとう。
魂の呼吸。詩的な文体とは魂の呼吸。このように書けば、現代詩に不慣れな読者の方も作者の大概のメッセージは伝わるのではないだろうか。そうではなく、共通認識が難しいかもしれない文体を選択する意味、それは『わたしとてそう簡単には説明できない』のだろう。共通認識など、所詮、他者に抱く幻想なのだ。 未だ勉強が不足している私にとって、今作から得た、今後、追究するべく疑問は以下の2点である。 ・未見のもの、未知の文体が新しいとは決して限らないのではないだろうか。新しいことをやるというスタイル自体が過去のもので、その、過去のスタイルが作品よりも先に読者に古い印象を与える。(作者が新しいことを今作でトライしている意図の有り無しとは別。三浦が感じたことにすぎない) ・読者にとって新しさとは、読者の脳内でシナプスが繋がる現象が発生することであり、その受信可能な読者と、どこまで共通認識(共有)を求めるか。その訴求が言葉置きと文体を選らぶセンスであり、やがては作品に宿る詩情となるのではないでしょうか。 次回作も気になります。それは、なんとなく、私のシナプスを作者は繋げてくれそうな気がするからです。
三浦果実さん、どうもありがとうございます。丁寧に書いていきたいと思います。 ・最初の疑問 これは、答えは至ってシンプルで、過去に見たことがあるかないか、という程度の問題だと思います。しかしながら、新しいものが必ずしも評価されるとは限りません。新しいことをやっていたとしても評価されない可能性はあります。そして、私のこの詩の文体、装飾の多用、そういうあらゆることが、すでに日本をはじめ世界中のコンクリート・ポエトリーの系譜――ni_ka、新国誠一、カミングス、マラルメ――によってやり尽くされています。私はそこから少しばかり残滓をいただいて、やり残したであろう部分に再生を試みるだけです。 ・ふたつめの疑問 詩の書き方を説明する方法はありません。しかしながら、詩を読んだときの反応を研究する方法はあります。それは作家論を、読むこと。批評をとにかく読むこと。例えば『芭蕉七部集評釈』という本があって、それこそ芭蕉の句をけちょんけちょんに読み解いていく訳ですが、内容が頭に残るかというと、読んでいてちっとも面白くない上に頭に残らない。今の私の同期なんかそうですが全然、本を読まないですし、そもそも芭蕉って面白い? ってところから始まるはずなのに、ドカドカと廊下を走っていく学徒のような、元気だけど頭は空っぽなそんな感じがあるわけです。 新しさは、新しさです。しかし、それを生み出すために、様々な血の滲むような、目から血の涙を流すような努力がいるのです。
kazさん 返信ありがとうございます。 系譜!ーこれ、私が今、一番こだわりたいことの一つです。こだわりたいのですが、コメント書きにも、自分の詩作にも未だ現せておらず。電子情報はすべてをフラットに我々へインフォメーションされるわけで。リアルタイムで私が80年代90年代に触れていた音楽やら映画は、今の二十代の方にとっても新しさとして伝わる。 その、時間軸が失われても系譜は残る。時空が無いのだから、そもそも新しいものなどありえない(独断ですが) なかなか言葉にしずらいニュアンスなんですが、アカデミックな視点でなく、詩を系譜をもとに、地図にマッピングするような、そんな冒険をしたいと密かに想ってるんですよ。三浦果実は。これからもよろしくお願いします。
初めまして。文法そのものを破壊して、自分だけ「わかってる感」満載の難解文体を作りだす新しさ、には反対だけれど、この作品のように、一般的に読解できる範疇を守りながら、その中に他者性というのか、その単語自体に重力があるような異語を入れて来る感じは、いいな、と私は思います。 日本語、という、とりあえず共通のルールの中でやろうぜ、と言っている口語自由詩、なんだし。 ネット掲示板なら、絵文字(emoji)とかも使える。 すぐに「今から何十年も前に、既に試みられていた」みたいなことを言い出す人もいるけれど・・・言葉の歴史は、千年、二千年の命があって、人間一人の数十年では、とても太刀打ちできない。もともと出来上がっている言葉(文法)を習い覚えるところから始まるわけだし・・・そうなると、どうやっても、どこかで誰かがやっていたこと、に、似てこない方がおかしい。 疾走感・・・言葉の音が頭韻のように次の言葉を引き出していくスピード感とか・・・ちりばめられた「ベラルーシ語」の鳥・・・「面接官」・・・アレクシェービチさんの話をちょうど聞いてきたばかりだったので、体制という檻に閉じ込められた魂の自由の渇望、平和への願い、などなどを、エナジーとして感じました。 なにかしてくれましたか/何か、してくれましたか/何貸してくれましたか 私/渡し 詩/死の土地 など、ひらがな表記の多重性を楽しめて良かったな、と思う反面・・・鍵とか、隠された、とかそういった意味語は、漢字でもいいのかな、とか・・・面接官の言葉は、カタカナだったらどうなるだろう、とか・・・そんな、表記の多様性について、もっと工夫できるかも、と思いました。
失礼、鍵は、嗅ぎつけた、から引き出されていたのかもしれない・・・
三浦果実さん 系譜学と言いましたが、まあ基本的には連なり性、関連性として考えてもらっていいと思います。今朝投稿したときに思いついたのですが、詩をスクリーンショットで大量に残しておいて、次に読まれる人に残すようにする、ということを私は考えています。画像化すれば拡散も容易ですし。そういう風に系譜学を捉えると、アートなんかも、新しい見え方をするでしょうね。
追伸。「日野啓三」という固有名詞を持ち込むのは、いわば「借景」の手法である、ような気がするのですが・・・背後に膨大な作品群というか、思想/詩想の渦を持っていて、それが押し寄せて来る感じになってしまうので、詩作品としては「盛り込み過ぎ」のイメージを、個人的には持ってしまう、けれども・・・けっこう、メインの主題なんですよね。その処理は、これでいいのかな(もっと、固有名詞を使わずに、一般名詞で行けないか?)という、課題が残るかもしれない、と思いました。
まりもさん アレクシェービッチとはまた、すごい本をお読みになっていますね。ちょうど今日雪が❄️降ってきていて、しかもベラルーシ🇧🇾語で鳥ですから、その相乗効果もあってアレクシェービッチを意識している感じはしますよね。私はいくらか推敲を経た後にこれを投稿していますが、実はこの「鳥」の説明を入れるか入れないかかなり考えました。この詩の最後の方に出てくる、りりりぃ、りりりぃ、というのは、私の中ではジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの『愛はさだめ、さだめは死』の朗読からの影響になると思います。ちなみに、この詩は、ワイルド・スタイルという映画から読み解くこともできてしまうでしょうが、私は一回もそれを見たことがありません。
創作において大方のアイデアは出尽くしていると言われながら、それでも新たな表現を模索する人たちには頭が下がります。意味を否定するような構造ながら、なぜか頭の中にスルスルと入ってくるパーツがあり、その瞬間が気持ちよいです。「ワイルド・スタイル」を観たことがないということですが、両者の内容を考えれば驚異的なことだと思います。
もとこさん、どうもありがとう。ワイルド・スタイルのあらすじ見たのですが、面白そうなので今度見てみようと思います。この作品は絵画的🖼なところが大いにありますね。
日野啓三も鄭義も検索してみるまで知りませんでしたので、そういう知識を前提として書かれた詩にコメントする資格はないのですが、抱えている葛藤の質には親近感を覚えます。小林秀雄の「モーツァルト」の冒頭のような、魂のさすらう気配。「卵を産む鶏の蠕動運動のような魂の呼吸」、既に触れられた方もおられますが、僕にも印象的な詩句でした。ただ、直喩にすると肉体的な生々しさが多少弱まってしまいませんか?実際身体の中で熱量を持った塊をじわじわと推し動かす感覚を読み取ると、実に魅力的です。しかもそれが魂という非肉体的な次元に帰結する語の流れを持つのですからね。 絵文字に関しては、僕にはその必要性が感じられませんでした。乱気流のように咲き乱れるライラックの花の豊穣なイメージが(僕にとっては)貧相な視覚的記号に置き換えられるのは残念です。試み自体を批判するつもりはありません。作品にして表現してみないと、そういう見方との間の齟齬も明らかにならないからです。僕の感覚が古いだけかもしれない。応援しています。どんどん挑戦してみて下さいね。或る日突然見方が変わって、この試みの真価が分かったとしたらそれはそれで僕にとっての新たな幸せです。
Migikata様、コメントありがとうございます。絵文字は、ある意味では形質の変化、すなわちゲノム編纂、遺伝子組み換え、放射線によるDNAの改変の影響と読んでくださればと思います。要するに奇形なのです。ライラックの花は、ホイットマンの「窓辺にライラックの花が咲くときに」にも、エリオットの「荒地」にも出てきますが、多分それらとはまた違った印象を与えるでしょうね。
落書きだって意味があるのだ。グラフィティをすることは主張することで、アンサーをするということである。世界は常に問い続けている。わたしはそのリフレクションとして、飛ぶだろう。踊るだろう。うたうだろう。 面接官がわたしに問う。 あなたはなにかしてくれましたか? あなたはなにをしてきましたか? 何故ですか? 何故あなたはまわっているのですか? 何故あなたはまっているのですか? なにゆえあなたは舞っているのですか? ならばはなはどうですか? はなのなまえはおぼえられますか? 地雷の呼吸を止められますか? あなたにはなにができましたか? 生きることと愛することのどちらですか? のどちんこ? のどん?ど?んば? り? と面接官は矢継ぎ早にたずねる。わたしは思う。ライラックの花が「しのとち」に乱気流のようにあふれている。鳥に問えば、あなたはなにもわからないだろう。わかることはある言葉の流れがあるということ。音がながれていくということ、絵文字と漢字、どちらも同じ性質をもつ、視覚的なサインがながれていくということ。記号の紐帯があるが、文脈は飛んでいってしまった。答えの訳は簡単に説明ができない。無理にいえば訳がわからないことになってしまう。だから、鳥は飛んだ。それは答えることではない。しかし応えることではある。空を、雲をつかむ、という応え。「しのとち」にでも向かったのだろうか。
鳥逃した応えは、どこへ向かうのでしょうね。まあ、仕事見つかるといいなあ。コーリャさん、どうもありがとう。
すんごい適当なレスポンスなんですが、今東京たられば娘見てるんですが、女性が私ああいう感じに活き活きしてる作品作りたいですね。構図的には色々な映画を模倣しているんですが、映像の根源に根ざしていてぶれないしっかりとした軸のある作品。
面接でどれほどショック受けたらここまで自由の翼なのかと思いますが、おもしろいですね。あなたの近作には問題があると思ってたのですけど、これはとてもいいです。ややこしいほのめかしが希薄だから読み疲れないし、見るだけ・音読するだけでふつーに楽しいです。 【だから、птушка, ミスティカ。Mistakea. ザンボーロ(※サンポーロ?)、露(※ロシア)と米(※アメリカ)とをかきまぜたスゥプにて。】 こういうとてもよい意味でのくだらなさは個人的に大好きなので、あなたの以後の作がこれくらい軽妙になったらいいなと思います。つまりより「読者が笑えるように」ということですね。あなたがセンスのいい書き手であることは知ってるので、しっかりしたギャグを書こうと思えば書けるのじゃないかな? ただのナンセンスとして「自分にとって興味深い誤変換」みたいなのを連ねてるだけでは、読者にその価値を訴求することはできないと思うし、あなたもう詩集を売ってるわけだから、訴求の目標を持つべきだと思うわけです。最後に改めて、この作品はよかった。以後もこの調子で行ってほしいです。
澤さんの今のコメントが一番📝嬉しかったな。肩肘張って批評の文体を作ろうとせず、しかも正鵠を射ている。澤さんは今までに批評を読んで感動したことはありますか? いい批評に巡り合うことができたようで、少し安心しています。
コーリャさんのコメントを読んで『映画🎞ワイルド・スタイル』をもう一度読みたくなった。 なるほど。面白いものだ。 コーリャさんのコメントを読んで、シナプスが繋がったのだろう。kazさんの波動に共鳴した。 皆さんご存知の通り、私のtwitter垢は「三浦くんは勉強家」。しかし、kazさんの勉強量には敵わないと思われる。 彼は能ある鷹は爪を隠さないスタイルであり、そのスタイルは天才詩人と同質のものだ。 メンヘラ系の天才女子が続々と登場するけれども、仄暗い系男子のカリスマが再び浮上してこないのは、俺が世界を変えてやるよ、という傲慢なる突破者が不在だからである。と、私の独り語りがうざがられる前に止めておこう。 しかし、ロジックを全否定する真逆のヒーローも、この掲示板に出てこないかな。 考えるな感じろ!って上から目線の無頼漢が。(荒らしはダメだぉ) 『映画🎞ワイルド・スタイル』トップに上げまーす。
こんにちは。この作品好きです。 冒頭のひらがなの読みやすさ/読みづらさのリズムがとてもいいなと思い、そのまま最後までいっきに読めました。 たとえば「わたしはわたしたかった」を「私は渡したかった」「私は私、集った」「私は渡した、勝った」とか。こういった漢字変換や読点の位置が、読みながら無数に生じていくのがあたしには心地よかったです。 こういう読み方で読みはじめられたからか、今まで苦手だった絵文字もひらがなを漢字に変換するのと同様に「変換」を行えたのは個人的に面白かったです。 作中の固有名詞についてはわかりませんでした。ただ、こないだKindleのを読んでも思ったのですが、のびのび書いているように思いました。以前より。その「以前」がいつを指すのかわかんないけど。
三浦さん この作品、スマートフォンで書いたのですが、スマートフォンから見た画面と、パソコンから見た画面とでは絵文字の形が違うのですね。私のツイッターに以前これのスクリーンショットを投稿していたので、それを見て頂ければ違いがわかると思います。 https://pbs.twimg.com/media/C4P0riHVUAAQ6mR.jpg:large caseさん ありがとうございます。絵文字を使った詩は読めないという常識を覆すのが、私の目標です。いずれ朗読パフォーマンスに使うと思います。