「B:The Beginnig」は二面的なジャンルのアニメである。主人公の捜査官・キースと謎の少年・黒羽の二人がそれぞれサイコサスペンスとハードアクションをコインの表と裏のように担う。緊迫するエピソードが進む中、コインがくるくると表裏が回転するようにアクションとサスペンスが入れ替わるのを魅力としている。食い合わせが難しい二つのジャンルをスタイリッシュにまとめている一方、シナリオ展開に鼻白むスタイリッシュさの限界を感じさせる。
本作は90年代の「羊たちの沈黙」や「セブン」といったサイコサスペンスで見かけたモチーフにあふれており、異常犯罪の捜査官という題材ながら口当たりのよいデザインは同Production IGが制作した「PSYCHO-PASS」に近い。そこに「カウボーイビバップ」などのキャラデザインに関わってきた中澤一登が監督することで、よりスタイリッシュに仕立て上げる。
しかし、本作では商業アニメのスタイリッシュさがもたらしてきた功罪が全編に埋め込まれている。
サイコサスペンス的な謎と猟奇性を背景としながらハードアクションを行うシークエンスは本作のハイライト
序盤ではキースを中心に連続殺人事件の謎を追いかける。同時に人体を凶器に変えることのできる謎の少年・黒羽が同じような能力を持つ謎の組織との闘いが入れ替わりながら進む。
特に黒羽がサイコサスペンス的な謎と猟奇性を背景としながらハードアクションを行うシークエンスは本作のハイライトといっていいだろう。作画的にも3話で見られるハイスピードな殺陣のなかでスローモーション演出の作画で緩急をつける気持ちよさは必見と言える。これはスタイリッシュの功の面だと言えるだろう。
一方、主人公キースの関わるサイコサスペンスの部分に関しては、スタイリッシュな演出の罪の部分が続々と現れる。ここには過去20年ほどで推し進められた、商業アニメが犯罪をテーマとする際、その本質から回避し続けることで生まれた紋切り型で埋められている。
苦さを濾過することは、必然的に本質から遠ざかる。
中澤一登監督は泥臭いリアリズムをスタイリッシュなアニメーションに濾過させてきた本物の天才だ。これまでジャズとハードボイルドの「カウボーイビバップ」やヒップホップと侍の「サムライチャンプルー」、そして21世紀以降のテロリズムの「残響のテロル」といった渡辺信一郎作品で、彼がキャラクターデザインとして関わることで、90年代以降の日本の商業アニメーションで選ばれにくい題材を見事に成立させてきた。
ジャズもヒップホップも21世紀以降のテロリズムも本質的には苦々しい背景を持つ題材だ。その苦さをいずれも反映させずにスタイリッシュとして成立させることは、良い意味ではキャラクターの魅力を広げる効果があった。それは同時に萌えや尊さや性として消費できる範囲の拡大でもある。
しかし、悪い意味では描いている題材の本質から遠ざけることである。苦さを濾過することは、必然的に本質から遠ざかる。そこで最も影響を受けるのがストーリーだ。短編ならば謎とは象徴的なものとして終えられるが、長編のストーリーはおおよそ謎を明らかにせねばならず、必然的に本質的なテーマを掘り下げざるを得なくなる。
優れたサイコサスペンスでは、謎が解き明かされるに従い社会背景や宗教的背景の歪みが理解不能だった犯罪事件に関係する構図が見えることは少なくない。だが本作ではイタリアをモデルにした国家・クレモナの社会的な背景や宗教的背景というのはあまりよくわからない。文化的な背景も普通にあんパンがあったり、唐突に日本の屋敷で格闘を始めたり、特別イタリアに一貫しているわけではない。
本質が登場人物の心理の変遷になるというケースもあるだろう。ところがそれを見ても登場人物の造形はいずれも類型の先を行かない。いずれにせよ、苦さにあたりそうになると急にギャグに走ったり、ありきたりななじみ深いモチーフを持ち出して回避していく。なにしろ殺人事件というシリアスな空気感の中、キースがぼやぼやして抜けたキャラであることをイジる意味で、車に引き飛ばされ、噴水に突き落とされるシーンがギャグとして挿入されるのである。リアリティラインはどうなっているのだろうか?
では謎を掘り下げた末、社会背景に特に繋がらないとするならばどうなるのか? 荒唐無稽な組織の関わる陰謀論になるのである。本作では予告にあるような連続殺人事件に関しては中盤までに誰が犯人だったのかは解決、その先の人体を変容する超常現象に関しては、またしても類型的な描写が為される。謎の施設で管理された子供たちが、成人に近づくころにはどこからきたのかわからないまま、施設で育まれた力をふるう。こうした展開をいったい何度見てきただろうか。すべての犯罪や超常現象の温床が謎の組織による管理された子供たちという描写。狂気に陥る犯罪者がおしなべて三白眼で描写され、笑い声をあげながらする犯行。
過去20年の間に完成された「犯罪」や「狂気」の紋切り型
これはおそらく過去20年間の間、商業アニメで苦いテーマを扱いながら苦さを濾過することで完成された「犯罪」や「狂気」の紋切り型である。そしてネタ晴らしのように黒幕が事態の背景を明かす段取りになると、もはや説明セリフが大半になり、中澤監督ならではのアクションのアニメートが弱くなっていくのである。これも何度か見てきたことだ。
最終話、黒幕と対峙するキースのシークエンスには、目にしていながらにして認識していなかった真実に触れるといった、サイコサスペンスならではの感動はひとかけらもない。ただただ黒幕との対峙自体は、ここまで積みあがったキャラクターの関係性からしてネットミームの「尊い」という言葉以外に評価しようはないのである。スタイリッシュな演出による無意味な物語と反比例するかのように、キャラクター同士の関係性の尊さはあまりにも周到に積み上げられる。キースと黒幕との関係はただただ尊い。それがすさまじい。そして別にキースと黒羽はそんなに尊くならないのもすさまじい。
最終話のエンドロールの後には第2シーズンを期待させるクリフハンガーで終わる。可能であれば、キースと黒羽のサスペンスとアクションが入れ替わる回転の速さにより特化し、結末までセリフよりもテンポの詰めやアニメ―トで突破していく内容を期待したい。こうなればスタイリッシュな描写がどこまでキャラクターの尊さの地平線を超えられるかを見届けたい。でもこの尊さの地平線を超えるとは単に「少女革命ウテナ」などの幾原邦彦作品のことではないか、とわかっていても願わずにはいられない。