米津玄師『Lemon』が3月14日の発売から1週間を待たずに、ミリオンセールスを突破した。デジタルダウンロードは75.2万、CD出荷数は30万枚を超えている。
ドラマ『アンナチュラル』の主題歌としても話題を呼んだ同曲。すでに10〜20代の若年層のあいだで圧倒的な認知度を誇る彼の名が、より広く一般に知られるきっかけになったのは間違いないだろう。
10代半ばから「ハチ」名義でニコニコ動画で『マトリョシカ』『パンダヒーロー』などのボーカロイド楽曲を発表してきた米津。2012年に本名「米津玄師」でデビューした。
音楽からイラスト、映像まで一人きりで手がけてきたボカロP時代から、コラボやタイアップに積極的に取り組むようになるまで。2017年、音楽家として大きな転機になったと話す俳優・菅田将暉との出会い。
ネットで開花したポップソングメイカー、米津玄師はどこまで飛躍するのか。27歳の若き才能が見据える過去と未来を聞いた。
「やっぱりこの曲は『Lemon』だったんだ」
――配信もCDも絶好調の『Lemon』。大ヒットを記録していますが、実感はありますか?
自分でもこんなことになると想像していなかったので、ただただ驚いています。これだけ多くの人に届いたのは『アンナチュラル』という素晴らしいドラマの力ですね。
――「夢ならばどれほどよかったでしょう」の歌詞が、毎週ぴったりのシーンで流れるのがとても印象的でした。
本当にここしかない、というタイミングで使ってもらってて。 制作時間もタイトで自分のツアー期間ともかぶっていて、正直結構大変だったんですけど、 あれだけ愛情を感じる使い方をしてもらえるなんて感謝しかないです。
ハッシュタグでドラマの感想を見ていると、主題歌『Lemon』に言及してくれている人も多く、この曲をきっかけに初めて米津玄師の名前を知った人へも届いている手応えがあります。
――亡くなった方を想う曲でタイトルは『Lemon』なんだ、と少し意外に感じました。
仮タイトルは「メメント」だったんですよ。でも人の死をテーマにした曲でこのタイトルってちょっとやりすぎ、直情的すぎるなとピンときていなかったんです。
1コーラスめの<胸に残り離れない 苦いレモンの匂い>という歌詞はなんとなく書いたんですが、なんとなく出てきたわりにはハマりがよすぎて、頭から離れなくて。
どうしてレモンだったんですかね? 記憶のどこかから出てきたんだと思うんですが、自分でもうまく説明できないです。
今回本当にギリギリで、レコーディングの前日もまだ歌詞を書いていて、深夜になっても全然最後の2行が出てこなかったんですよ。
切り分けた果実の片方の様に
今でもあなたはわたしの光
悩んで悩んで、このフレーズが出てきた瞬間に「ああ、やっぱりこの曲は『Lemon』だったんだ」と自分の中でひとつ合点がいきました。
――CDジャケットのイラストレーションもご自身で手がけています。
タイトルと同じく、やはり辛気臭いものにはしたくなくて。レモンという果物のみずみずしくて爽やかなところにフォーカスし、あえて死の一般的なイメージとは離れたものにしました。
菅田将暉との出会いが変えたもの
――2017年、特に印象的な1曲はありますか。
菅田将暉くんとの「灰色と青」ですね。僕の音楽家人生の中でも本当に大事な経験になりました。
最初に菅田くんのことを知ったのは『そこのみにて光輝く』(2014年)という映画でした。主役ではないけど強烈なインパクトがあって「この人、なんか気になるな」と印象に残っていたんです。
その後も知人と仕事していたり、気になる作品に出ていたり、ずっと視界の片隅にいたんですが、『何者』(2016年)、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(2017年)と自分の仕事とダイレクトにリンクするようになってきて(注:いずれも米津さんが主題歌、菅田さんがメインキャストの一人)。
「この人は一体なんなんだろう?」という気持ちが強まっていったんです。
菅田くん、声がめちゃくちゃいいんですよ。バラエティ番組で吉田拓郎さんの曲を弾き語りをしているのを見て本当にいい声だなと思った。
そのうち自分の作品に参加してもらいたいなとぼんやり思いながら、去年の夏にできた曲が「灰色と青」でした。この曲を菅田くんと歌ったら絶対に美しいものになると思えて、こちらからオファーしたんです。
菅田将暉と歌いたいという思いと、今この曲が生まれたこと。自分の中でどちらが先かわからないですが、この曲がなかったら一緒にやってなかったかもしれない、とは思います。
――「一緒に歌いたい」というのは「彼をプロデュースしたい」とも違う感覚なんでしょうか。
なんでしょうね、「この人がいれば自分にとって美しい音楽が作れる」確信というか……。
だから、僕一人のエゴでもあるんです。結果的に、彼にもプラスになればいいとはもちろん思っていますが。お互い関わり合う中で気持ちいい瞬間があればいいなと。
「今までやってきたものは間違ってなかった」
――武道館ライブでの共演はいかがでしたか(『Lemon』映像盤に収録)。
菅田くんが出てきた瞬間に今まで聞いたことない歓声が上がって。俺が出てきた時よりでかい! と思いましたけど、よく考えたら、米津のライブに来ているんだから、俺が出てきても別にね(笑)。
菅田くん来ないかなって薄々期待していた方もいたと思うんですが、こんなにも待ち望まれていたのかと思いました。
自分としても、ステージの上で自分以外の誰かと歌うのは初めての経験だったんですよ。本当に気持ちよかった……。
今この瞬間があってよかった、いろいろ迷いながらやってきたものは間違ってなかった、と心から思えました。あの一瞬が、今まで音楽を続けてきたことへの一つの回答だと思いました。
「2017年に菅田将暉とやることが絶対に必要だったのか?」と聞かれると、正直そこに人に説明できる理由はないんです。でも、絶対に菅田将暉とやりたかった。やらなければ次に進めなかった。
曲作りって、合理的にしようと思えばいくらでもできてしまうんですが、そればかりじゃ面白くないんですよね。
ポップソングを作る人間として、誰かに思いを届けたい、生きていく糧になりたいという思いはずっとあって、そうやって心を動かすものは合理的に積み上げていった先にはないと思うんですよ。
目を凝らさないとわからないところに、何かずれた、どろっとした何かがある音楽でありたいと思っています。
――また菅田さんとコラボする可能性はありますか?
何かやりたいなとは思っていますけど、タイミングですね。
菅田くんの新アルバムに自分で作詞作曲している1曲があるんですけど、それがすごく、いいんです。悪い意味じゃなく「初めて曲を作りました」というピュアさがあって。言葉もいいし、エモーショナルで、素直。
この前ライブに行ったらアンコールでその曲をやっていて、菅田くんの歌う曲、作る曲をもっと見てみたいなと思いました。
誰かと一緒に作ること、への渇望
――サウンドもアートディレクションも自分一人でやれるとなると、もっと内向きに、一人で黙々とやるタイプのアーティストにもなれたように思うのですが、「灰色と青」だけでなく、この2年ほど積極的にタイアップやコラボを展開していますよね。
それは、疲れた、というか、飽きたんですよね。自分の中だけで閉じてやることに。
ボーカロイドを使って「ハチ」として曲を作っていた頃は、曲も歌詞もミックスもイラストも動画も全部一人でやっていました。
でも、ある時に「このまま一人でやってもたかが知れているな」と思ったんですよ。他者と関わりたい、人と一緒に何かをやりたいという気持ちが芽生えたからこそ、本名で、自分の名前でデビューすることにしたんです。
ようやく最近になって、いただいたオファーやコラボをうまく形にできるだけの、自分の音楽に取り入れられるだけの力がついてきた感覚です。
ボーカロイドは"人となり"がない無色透明な、そしてそこがよさでもある存在ですが、生身の人間にはそれぞれの背景があります。
彼らの人生や積み重ねてきたものと自分のそれがどう重なるか考えていくのって、面倒くさい部分もあるんですよ。それでも、その面倒くささを引き受けないと、楽しいもの、美しいものは生まれないんですよね。
――とはいえ、これまで最後まで自分で面倒を見てきた作品の一部を誰かをまかせるのは怖さもあったのではないでしょうか。
最初はそういうところもあったかもしれないです。でも、「人にまかせる」って、じゃあなんなんだ、って話で。
今までの人生で憧れのミュージシャンや映画監督への思いがあって、友人や親にいろんなことを教わってきて、そうやって取り入れてきたものを形にしていると思うと、それは本当に"自分一人の作品"なのか? と考えるようになってきたんです。
「一人で作る」ことと「誰かと作る」ことに本質的には差異はないんじゃないか。プロの世界に飛び込んでたくさんの人に出会う中で、ゆっくり考え方が変わっていきました。何かひとつ大きな出来事があったわけじゃなくて、少しずつ。
ポップスにこだわり続ける理由
――米津さんの中で「ポップスであること」にはどんな思いがあるのでしょう。
やっぱり、自分の原体験がJポップにあるんですよね。家でかかっていたフォークソングや歌謡曲、夢中になって聞いたバンドの曲……。当時聞いていたものって、大人になった今も思い出と一緒にあるじゃないですか。
特定の世代に向けて届けたいというわけではないですが、例えば今の小学生、中学生が10年後、今の自分と同じような年齢になった時に、思い出の中で鳴っている音楽であってほしいという気持ちは強くあります。
――自分が作りたいものと、時代が求めるもののバランスはどう考えていますか。
そもそも分かれてない、です。ボカロの頃から変わらず。
ハチとして活動していた頃、ニコニコ動画のコミュニティの中では、BPM200くらいの超高速ボカロ曲が流行っていたんですよ。ボーカロイドだからなせる、人間のボーカルではありえない曲って、すごく美しいじゃないですか。
それは「流行り」ではありますが、僕自身心からやりたいもので、だから取り入れて音楽を作っていたわけで。
2010年8月にニコニコ動画で発表した「マトリョシカ」。昨年末に1000万再生を超えた
結局、自分が今いるコミュニティ、『Lemon』の場合はドラマとのあいだにあるものと音楽をどれだけリンクさせられるかですよね。常にそこだけ考えているので「求められるもの」「やりたいもの」に齟齬を感じてないです。
「時代に迎合する」と揶揄する言葉もありますけど、ちゃんちゃらおかしい。皮肉っぽい言い方をすると、僕はずっと迎合し続けてきました。誇りを持って。これからもそうやっていくと思います。
――ポップスで戦う以上逃れられないことだと思うのですが、「売れる」ことへの欲はありますか?
それって要するに、多くの人に伝えたいということですよね。ポップスで育ってきたからこそ、そういう強度を持った音楽を作りたい気持ちは根っこにあります。
もっとたくさんの人に届くものを、残るものを作りたい。「売れる」というのがそういうことだとしたら、そこにたどり着きたいです。