昭和天皇御野立所(北の丸公園内、後ろは弥生慰霊堂)
いつもお世話になっております。赤池誠章です。「国づくり、地域づくりは、人づくりから」をモットーに、全力で駆けています。9月になっても、まだまだ暑い日が続きますが、お体は大丈夫でしょうか。
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●9月1日は防災の日、関東大震災の日
9月1日は、関東大震災が起きた日であり、「防災の日」となっています。関東大震災は、当然防災問題であると同時に、「朝鮮人虐殺」があったという国家や先人たちにとって名誉の問題、歴史問題でもあります。
大正12(1923)年9月1日(土)正午2分前、関東大震災が起こりました。私の父も生まれておらず(大正15年生まれ)、子供頃に祖父母から、山梨でも相当揺れたと聞きました。実際都心では震度7もあり、山梨でも震度5か6はあり、死者も出たと言います。被害は死者10万人超、住宅焼失者200万人で、史上最悪の地震被害となりました。関東大震災の教訓によって、法整備や耐震建築の普及等、日本は地震防災大国の道を進みました。それにとどまらず、近代的なアパート(表参道ヒルズの前身である同潤会等)が各地にでき、サラリーマンという新しい家庭像、生活様式を生みだし、時代の節目となりました。関東大震災の教訓を継承し続ける必要から、政府は以下のような報告書をまとめています。
内閣府 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月
関東大震災の被害は関東全域におよび、中でも最大の被害場所は、東京の下町でした。その中でも、墨田区横網(よこあみ)町の陸軍被服廠跡地の被害は空前絶後でした。隅田川沿いの2万坪以上の空き地に、近隣の人々が家財を担いで避難しました。その数4万人。風速17メートルの大旋風とともに四方から火災が襲い、家財道具や衣服に燃え移り、3万8千人以上が焼死しました。震災後、その場所に行方不明者の遺骨が納められる慰霊堂が建てられました。平成20年3月10日の東京大空襲の慰霊も合わせて行われるようになり、現在その場所には、慰霊堂の他、公園や東京都復興記念館、両国国技館、江戸東京博物館があります。慰霊のために相撲興行が行われているのであれば、意義あることだと思います。[横網町公園]
弥生慰霊堂(北の丸公園田安門から石段を登る)
●昭和天皇御野立所
皆さんよく知っている施設に隣接しているにもかかわらず、ほとんど知られていない関東大震災由来の場所があります。「昭和天皇御野立所」です。日本武道館に隣接した場所で、北の丸公園の田安門を正面にして、左上(東)の石垣の上にあります。田安門を入り、右に曲がって、さらに門をくぐると、すぐ左側の横から石階段があり、入口には「弥生慰霊堂」の碑と狛犬があります。石段を上ると、「弥生慰霊堂」に隣接して「昭和天皇御野立所」があります。もともと近衛歩兵第一連隊があった場所です。「弥生慰霊堂」は、警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る慰霊施設です。明治時代に「弥生神社」として本郷区(現文京区)弥生に創建され、戦前は神社形式でしたが、戦後GHQの占領政策によって、無宗教の慰霊施設となりました。建物は神社形式で、入口には狛犬もありましたが、鳥居がなく、説明する看板もないため、寂しい感じがします。この場所は、江戸城の石垣の上にあり、昭和初期までは、東京で一番高い場所ではなかったかと思われます。下町や東京湾を一望できる場所でした。今この場所に立ってみると、ビルが林立して、見通すことはできませんが、思いのほか高台で、ビル群がなければ、遠くまで見通すことができたことが理解できます。目の前には牛ケ淵の皇居の堀があり、九段会館が見えます。九段会館の屋上の先に、現在建設中の東京スカイツリーが見えます。このように見ていると、関東大震災の最大の被災地に立つ東京スカイツリーは、慰霊塔のように感じました。説明の看板が立っています。
「昭和天皇御野立所
大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東地方一帯に大地震が発生した。死者、行方不明者十四万人、家屋の全壊、焼失五十七万戸、罹災所帯六十九万に及ぶというわが国災害史上未曽有の大惨事であり、東京遷都の噂すら流れたほどであった。
時に摂政であらせられた 昭和天皇は「東京ハ依然トシテ国都タルノ地位ヲ失ハズ、コレヲ以テソノ善後策ハヒトリ旧態ヲ回復スルニ止マラズ、進ンデ将来ノ発展ヲ図リ・・・・・」との詔書を発せられて、復興の方針を明示されると共に、同月十五日親しく被災地を御視察遊ばされた。
それより六年有余の歳月と七億円(昭和五年度一般会計歳出十六億円)の巨費を投じて鋭意再建に努めてきたが、漸く復興が成り、昭和五年三月二十六日皇居前広場に於いて、天皇陛下の親臨を仰ぎ、帝都復興祝賀の式典が盛大に挙行された。
昭和天皇は、これに先立つ二十四日、被害の甚だしかった下町一帯の復興状況を、約五時間に亙り御視察遊ばされた。その第一歩を駐めさせ給うたのがこの地である。当時はここから東京湾まで眺望することが出来た。
その後ここに「御野立所記念碑」が建てられたが、長年の風雪に曝されて損傷が著しくなっていた。この地は嘗て近衛歩兵第一聯隊が駐屯していたところである。そこで有志相倚り昭和天皇御誕生日を卜して「御野立所記念碑」を再建し、御聖徳を偲び奉るものである。
平成元年四月二十六日
近衛歩兵第一聯隊會」
摂政宮(昭和天皇)は、宮城で関東大震災に遭い、9月15日、18日に被災地を視察しました。その衝撃から、その年の秋に予定していた良子(ながこ)女王との婚儀を延期することを決めたと言います。民の窮状を目の当たりにして、摂政宮が心を痛め、いかに復興に心を寄せられていたかが偲ばれます。
●関東大震災の真実
関東大震災は、教科書にどのように記述されているか、産経新聞平成22年1月25日号は次のように伝えています。
(引用)
「関東大震災、朝鮮人虐殺の犠牲者 大半の教科書に記述」
関東大震災直後の朝鮮人虐殺は、小学校から高校までの社会科教科書にすべて記述されている。
中学では「およそ7000人」(清水書院「新中学校歴史」)、高校では「6000人以上」(東京書籍「新選日本史B」)、「約6700人」(実教出版「高校日本史A」)といった記述のほかに、「数千人」「多数」としたものもある。
小学でも「罪のない数千人の朝鮮人が殺される事件が起きました」(教育出版「小学社会6上」)などと記述している。小中高とも、「虐殺」についての記述が、関東大震災についての説明の半分前後を占めている。
学習指導要領や、教科書編纂(へんさん)に影響が強いとされる学習指導要領解説書には、朝鮮人虐殺についての言及はない。文部科学省は「過去10年の教科書検定で、犠牲者数について検定意見が付いたことはない」としている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100125-00000027-san-soci
(引用終わり)
また、日教組では関東大震災を次のように教えていると、産経新聞平成22年1月24日号は伝えています。
(引用)
1月24日(日)から行われた日教組教研集会では、中学校の授業実践として、朝鮮人虐殺「約6600人」を前提としての報告がなされています。それは、「人権意識を高めること」などを狙いに、朝鮮人への差別意識を生徒に考えさせたり、朝鮮人とともに皇太子暗殺を企てたとして死刑(後に無期懲役)判決を受けた無政府主義者、金子文子元服役囚について学ばせたりしています。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/349796/
(引用終わり)
私は、学校で関東大震災を学びましたが、「流言蜚語」による朝鮮人虐殺までは教わらなかったと思います。前述した平成20年にまとめられた内閣府の報告書には以下のように記載されています。
(引用)
「関東大震災時には横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた。流言は地震前の新聞報道をはじめとする住民の予備知識や断片的に得られる情報を背景に、流言現象に一般的に見られる「意味づけの暴走」として生じた。3日までは軍隊や警察も流言に巻き込まれ、また増幅した。」「被害者数は1%から数%」としています。
(引用終わり)
被害者数の断定は避けていますが、10万人の方が亡くなっていますから、1千人から数千人が虐殺されたことを、政府報告書が認めているということになります。
阪神淡路大震災はじめ、国内各地の震災はもちろん、世界各国での災害救助のために、ボランティアなど支援を惜しまない私たち日本人が、教科書や政府の報告書の通り、未曾有の被災とはいえ、根拠なき「流言蜚語」によって、多数の無辜の朝鮮人を虐殺したとは、到底信じられません。そのような疑問を持っていた時に、大変な労作、好著が出版されました。
●工藤美代子著『関東大震災』を読む
工藤美代子著『関東大震災―朝鮮人虐殺の真実』(産経新聞社刊)です。「SAPIO」で1年に渡って連載されていたものです。阪神淡路大震災から15年、日韓併合から100年、関東大震災は、防災問題であることはもちろんですが、国家や先人の名誉の問題でもあり、歴史、外交問題でもあります。以下、同誌から要旨を抜粋します。
(要旨)
関東大震災が起きた大正時代は、「大正デモクラシー」という言葉に代表される通り、憲政擁護、護憲運動が起こり、藩閥政治から政党政治へ移行し、普通選挙の要求(納税額での選挙権の制限解除)がなされます。そのような民主化が進む中で、大正6(1917)年のロシア革命が起こります。共産主義による世界革命運動が、労働、農民、学生、朝鮮独立等の運動を過激化させました。また、日韓併合によって、朝鮮半島から内地へ大量の労働者が移入しました。1911(明治44)年日韓併合前には1千人にも満たなかった朝鮮人が関東大震災時には8万人となり、終戦時には200万人にも急増しました。大正8(1919)年3月1日の朝鮮での「3.1独立運動」は、ソウルのパコダ公園から始まり、全土で武装闘争、騒擾事件となり、1万人以上が逮捕される事態となりました。その中心人物は、大陸で再起を期し、また密航者として日本に渡りました。それ以来、日本において、朝鮮人による危険な犯罪やテロが横行します。大正8年の10月31日の天長節(大正天皇誕生日)には外務省で爆弾事件が起こり、大正9年には首相官邸を襲撃するために、爆弾数個と陰謀書類が発見され、朝鮮人が逮捕されたりもしました。国内各地で、また朝鮮半島でも、朝鮮人独立運動家の事件が頻発したのです。今では考えられない過激なものであったことを十分理解する必要があります。朝鮮独立運動に、過激な共産主義が加わるわけですから、当時の社会情勢は不穏なものでした。さらに、大正天皇の御不例(病気)、米騒動、暗殺事件、政治の不安定化など、大変な時代でした。
関東大震災の直前、8月24日加藤友三郎前首相(海軍大将)が急死し、震災時は山本権兵衛に大命が降下し、ちょうど組閣中でした。加藤友三郎前首相はその1年2カ月前に高橋是清内閣から引き継いだばかりでした。その高橋内閣も、原敬元首相が大正10年11月4日に東京駅で暗殺されて総理に就任しましたが、与党立憲政友会の内紛によって半年で瓦解してしまったのです。今のように、当時も毎年総理が変わっていました。山本権兵衛は9月2日夜7時に、震災の猛火の中で赤坂離宮の庭のあずまやにおいて、摂政宮(昭和天皇)から親任されました。大正天皇が御不例のため、大正10年には皇太子(昭和天皇)が摂政に就任していました。摂政宮は組閣が遅れたため赤坂離宮におられました。組閣が早く済んでいれば、箱根宮の下の御用邸に行幸することになっていたと言います。箱根は震災で壊滅的な被害を受けており、被害を免れることになりました。
以上のような社会情勢の中で、関東大震災が起きたのです。その災害の最中に、朝鮮人独立運動過激派による放火・テロが横行し、それに対抗して、警察や自警団の防衛活動があったというのです。その過程で、残念ながら233名(内務省報告)の朝鮮人が自警団の過剰防衛によって殺害されることになりました。その後事態を複雑にしたのは、後藤新平内務大臣や正力松太郎警視庁官房主事(実質NO2)が、治安維持のために、戒厳令を布告し、自警団を引かせるために、報道操作し、朝鮮人襲撃を「流言蜚語」としたことです。自警団と朝鮮人過激派の対立激化は、さらなる騒擾を起し、摂政宮への襲撃を恐れたからだというのです。
いったい当時どれだけの朝鮮人が死亡したのか?震災直後に京浜地区にいた朝鮮人は約9800人でした。その内習志野の陸軍廠舎に3169人、東京市内各警察署に2500人、目黒競馬場に617人、埼玉、栃木の各警察署に471人、神奈川県庁に40人が保護収容されていました。内務省が発表した殺害された朝鮮人は233人で、その差は2770人で、朝鮮人の死者・行方不明者ということになります。この中にどれだけのテロリストが含まれるのか?下町の日本人の対人口死亡率が15%で、朝鮮人の場合は20%として、当時京浜地区に住んでいた朝鮮人から割り出すと1960人が被災による死亡者となります。2770人から1960人を引くと、810人となり、これがテロリストとして殺害されたのではないかと推定しています。朝鮮人テロリスト数百名が震災に乗じて、放火や殺人暴行を繰り返していたというのです。驚くべき事態だったと言えます。
このような波状攻撃を画策したテロ集団の実態は、朝鮮独立をめざす「大韓民国臨時政府(上海仮政府)」であり、彼らの最終目標は摂政宮(昭和天皇)であったということです。
(要旨終わり)
私は工藤女史の本を読みながら、以上が真実だとすれば、驚くべき事態だったと感じました。当時の日本が置かれた苦難とそれに対応した先人たちの努力を思うと「朝鮮人虐殺」という自虐、不名誉を放置するわけにはいきません。関東大震災の教訓として、防災問題はもちろん、テロ対策の面からも学ぶ必要があります。政府は改めて事実調査をすべきだと思いました。
工藤女史の労作、好著をぜひ多くの方に読んでほしいと思います。