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第2話 エアレースなんてくだらない!?

 桜花が通う国立航空防衛士官学校は、将来の航空防衛隊を背負って立つ防衛官を育てるための、日本政府が支援する教育機関だ。高等部と大学部が同じ敷地に併設されており、学生たちは高等部で3年、大学部で4年の合計7年間をここで教育を受ける。学生たちは自宅や学生寮から学校に通い、互いに切磋琢磨・自己研鑽しながら、卒業を目指すのだ。


 高等部では、国語・数学・物理・英語・歴史など、基礎的な学科教育のほかに、敬礼や分隊行動などの基本的教練から武器の扱い方、陣地構築といった、防衛官としての基本教育を学ぶ。


 次に大学部に進むと、気象学やエンジン学、無線機の基礎と扱い方、航空機の操縦と専門的になり、教練や体力練成もレベルアップする。そして7年間の教育期間を終えると、航空防衛隊の防衛隊員として、全国の航空防衛隊の基地に配属されるのだ。


「ねっ、ねえ、桜花ちゃん。これからなにか予定ある?」


 時刻は午後5時。今日最後の授業が終わり、筆記用具やノートを鞄に詰めて、さあ帰ろうかと席から立ち上がったとき、一人の女子生徒が桜花に声をかけてきた。ツインテールに結んだ黄緑色の髪と琥珀色の瞳に、夏なのに抜けるように白い肌をした、華奢な女子生徒の名前は南雲未唯那なぐもみいな。桜花の幼馴染みで、エアレース部の貴重な部員である。


「予定? とくにないけど、どうしたの?」


「大学部でね、放課後にフライトの練習があるって聞いたの。それで、その、見にいこうかなって思って、どうせなら桜花ちゃんも一緒にどうかなって……」


 白い頬を赤くした未唯那は俯き加減でもじもじしている。


 ――なるほど、そういうことか。


 未唯那の様子を見た桜花は得心した。航空防衛士官学校の大学部には、未唯那が密かに(クラスメートたちにはバレているが)憧れている学生がいる。未唯那は恥ずかしがり屋で人見知りの激しい少女。一人で見にいくのが恥ずかしいので、桜花に一緒に来てほしいと言っているのだ。他ならぬ未唯那の頼みに、桜花は笑顔を浮かべて頷いた。


 桜花は未唯那と連れ立って教室を出ると、高等部の校舎を出て西側にある大学部の敷地に向かった。大学部の敷地は高等部よりも広く、高等部にはない滑走路と管制塔に飛行場が設備されている。格納庫が並んだ駐機場に停まっているのは、白と赤の二色に塗装された単発プロペラ機のT‐7初等練習機だ。航空防衛隊のパイロットを目指す者が、いちばん最初に操縦桿を握る航空機である。


 駐機場に集まっている高等部の女子生徒たちが、一斉にサイレンのような黄色い悲鳴を上げた。彼女たちの視線は格納庫のほうを向いている。格納庫から出てきたのは、オリーブグリーンのパイロットスーツを着た、黒髪と赤い髪の青年二人だ。


 熱烈な歓声を浴びる青年のうち、赤い髪の青年は笑顔で女子生徒たちに手を振っているが、黒髪の青年は彼女たちを冷たく一瞥しただけで、すたすたとT‐7のほうへ歩いて行く。女子生徒たちを「浮ついている馬鹿な奴ら」と見下しているような、冷たい眼差しだった。


(なによあの態度は! 花形の航空学部だから、きっとお高くとまってるんだわ!)


 唇を尖らせた桜花は心の中で青年に悪態をついた。航空学部は航空防衛隊の戦闘機パイロットを目指す学部だ。毎年70名の採用枠に対し、およそ72倍の受験者が殺到するという、非常に狭き門となっている。なので航空学部に在籍する学生たちは、こんなふうに憧れと尊敬の対象となっているのだった。


 プロペラの音を響かせながら、二機のT‐7は一機ずつ、薔薇色に燃える夕暮れの空へ飛んでいく。離陸した二機は、飛行場の上空を大きく旋回すると、着陸してからすぐに離陸する、タッチアンドゴーを披露した。


 桜花たちの前を通過するとき、翼を振ってくれたT‐7のパイロットは、愛想が良かった赤い髪の青年だろう。それに比べてもう一機のT‐7は目立った動きを見せない。あのT‐7のパイロットの黒髪の青年は、純粋なまでに、空だけを見ているのではないか――と桜花はそう思った。


 旋回。上昇反転。宙返り。エルロン・ロール。無礼極まりない態度の青年が操縦するのだから、きっと目も当てられないほど、ひどい飛行だと桜花は思っていた。けれどそれは違った。その軌跡はときに鋭くときには柔らかい。さながら一羽のツバメが、自由に華麗に空を飛んでいるようだった。


 そんな青年が操縦するT‐7のフライトは、桜花が宝石のように大切にしている、とある記憶を呼び覚ました。


 桜花の脳裡に鮮やかに蘇ったのは、遠く彼方まで広がったスカイブルーの空。その青空を一機の飛行機が白煙を曳きながら飛んでいく。あの飛行機には桜花が憧れる人が乗っていて、子供の桜花は手を振りながら、夢中になって飛行機を追いかけている。


 桜花の口から自然と熱い吐息が漏れる。――彼ならきっと、翼を失って飛べなくなったあの飛行機を、空に連れていってくれる。しだいに高鳴っていく心音のなか、胸に置いた拳を握り締めて、桜花は強く思っていた。


「――未唯那ちゃん。わたし、決めたよ」


「えっ? 決めたって……なにを?」


「あの人にパイロットになってもらうの! ちょっと行ってくるね!」


「ええっ!? 行ってくるって――桜花ちゃん!」


 胸に芽生えた思いはとめられなかった。飛行訓練が終わり、着陸したT‐7からパイロットの二人が降りてくると、桜花は未唯那が止める声を聞かずに走り出した。思い立ったらすぐに行動に移すのが、桜花の長所であり短所なのだ。女子生徒の集団を押し退けた桜花は最前列に飛び出した。


「あのっ! すみません!」


 桜花が声をかけると黒髪の青年は振り向いた。目が合った桜花は思わずドキッとしてしまう。さっきは遠くから見ただけだったので分からなかったが、青年はとても端正な容姿をしていたからだ。ロシアンブルーのような切れ長の瞳は深い青色で、まるで銀河が渦巻く宇宙を小さくして、瞳の中に閉じこめたようだった。


「……サインや握手がほしいなら光國みつくにに言え。俺はそういうことはしないからな」


 桜花に言った青年は背中を向けて立ち去ろうとした。桜花は「待ってください!」と青年を呼び止める。桜花の呼びかけに、長い足を止めて振り向いた青年は、迷惑で面倒だと言わんばかりに眉を寄せると、クレバスのような深い皺を眉間に刻んだ。不機嫌オーラ全開の青年に睨まれた桜花は、今すぐここから逃げ出したくなったが、ぐっと堪えて青年と向き合った。


「サインも握手もいりません! わたし、高等部1年の春宮桜花って言います! あなたにエアレース部のパイロットになってほしいんです!」


 黒髪の青年は目を丸くして驚いている様子だ。初対面の相手に、「エアレース部のパイロットになってほしい!」といきなり勧誘されたのだから、青年が驚くのも無理はないだろう。


「――くだらないな」


「えっ……? いま、なんて――」


 まるで出会い頭に斬りつけられたような衝撃が襲いかかる。桜花は高揚していた気持ちが、一気に冷めていくのを感じた。


「エアレースなんてくだらないって言ったんだ。おい、光國! いつまでも遊んでるんじゃねぇよ! さっさと行くぞ!」


 桜花に冷たく言い放った青年は、サインや握手に応じている赤髪の青年を呼ばわると、彼が来るのも待たずに歩いていった。パイロットの二人が立ち去ると、集まっていた女子生徒たちも解散していき、桜花と未唯那だけが、静かになったエプロンに残される。


 牽引車で運ばれていくT‐7を、ぼんやり眺めていると、桜花の腕に未唯那の手が触れてきた。未唯那の眉毛は八の字に下がっている。八の字眉毛は未唯那が桜花を心配している証拠だ。


「桜花ちゃん……大丈夫?」


「――えっ? うん、大丈夫だよ。あの人に、エアレースなんて興味ないって言われただけだから」


 桜花は快活に笑ってみせる。実際には「エアレースなんてくだらない」と、冷たく鋭く言われたのだけれど、これ以上未唯那に心配させたくなかったので、桜花は嘘をついた。未唯那はまだ疑っている様子だったが、桜花がもう一度笑ってみせると、ぎこちないが微笑み返してくれた。


(――そうよ、エアレースなんてくだらないだなんて、あの言葉は嘘に決まっているわ。待っていなさい、大学部のパイロット! わたしは絶対にあきらめない! あなたをエアレース部のパイロットにしてみせるから!)


 夕空を仰いだ桜花は己を奮い立たせる。いちだんと薔薇色に燃えていく空と雲は、あたかも桜花の不屈の闘志を表しているかのようだった。

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