2017年のある午後、ベトナム、ティエン川のほとりで小さなコーヒーショップを営む67歳の女性ハ・ティ・ベさんは、息子とともに川がのんびりと流れるのを眺めていた。その時だ。突然、すぐ下の地面が水中へと崩れ落ちた。「大声で叫びながら逃げました」と彼女は話す。「ボン、ボン、ボンと、ものすごい音を立てて川岸が砕けていました」
ハ・ティ・ベさんと息子は無事に逃げ出せたが、コーヒーショップも、近くの自宅も壊れてしまった。「全財産をつぎ込んで家を建てたのに、全て失ってしまいました」と嘆きつつも、自分はまだ運がいいと彼女は話した。「あれが夜だったら、私も孫たちも死んでいたでしょう。いつもその家で寝ていましたから」
崩壊の主な原因は、浚渫(しゅんせつ)船だ。メコン川の主な支流の1つであるティエン川では、濁った水面にいくつもの浚渫船が浮かび、やかましいポンプを使って膨大な量の砂を川底から集めている。コンクリートの原料である砂は、急成長するベトナムの都市で、建築材料として欠かせない。その需要は急増しており、ベトナムの河川だけでなく、極めて重要な穀倉地帯メコンデルタにも大きな混乱を起こしている。
メコン川を始めとするベトナムの川沿いの町や村では、浚渫によって川岸が崩され、田畑や魚の養殖池、商店、民家が水中に消えている。ここ数年で数十平方キロの稲作地が失われ、少なくとも1200世帯が移住を余儀なくされている。政府当局は、こうした崩落地帯から移動が必要な人口を、メコンデルタ地域だけで約50万人と推定している。(参考記事:「グレートバリアリーフに浚渫土砂を投棄」)
浚渫の被害を受けているのは人間だけではない。一帯にすむ魚や植物などの命を奪っている。「子どものころ、魚やカタツムリを捕まえて食べたものですが」と、ハ・ティ・ベさんは振り返る。「浚渫船が来るようになって、魚もカタツムリもいなくなりました」(参考記事:「サンゴの病気、一因は港湾工事」)