「管理人さんは重要な点を感得でごまかす」
これはあるコメントの一部です。最近のものですが、去年から同じ話を他の人からもされています。
先日から「対話」をしています。そして、今回の「体験」(感得)の話となりました。その説明をほぼ原文のまま掲載します。若し若干でも納得出来る事があれば、嬉しいですね。
「感得」とは、「体験」と同義です。自分自身の体験を、感得という表現を使います。この事は特に異論が出ないような気もしています。
信心は「体験」が第一だとは、よく話されます。この言葉を「感得」が第一だと言い換えることも可能です。
「合気武道…「合気」と言う基本的な技術で全ての技を仕掛けたり受けたりします。これは筋肉的な「力」でもありませんし、超精神的なものでもありません。合気道に親しんでいない人間にとっては信じられない話に聞こえますけど、これは「事実」の技術です。個々の才能にも拠りますけど、例えば10年とか20年の修行期間で身に付くようです」
この例え話(とは言え事実の話ですが…)は、私がよく出すものです。アンチ系は信心がありません。(故にアンチ学会だと自称している訳です)その人達に対して、
「学会の信心…学会での信心体験は初心の功徳がありますので、下手をすると1ヶ月とかそんな感じで出ます。信心は「方程式」だと戸田先生が言われていましたけど、やるべき事をきちんとやれば結果(体験)は必ず出ます。要するに功徳が出ないと言う事は、信心を方程式どおりにやっていないからです」
と言う話が聞けるかどうか…?簡単に想像出来るはずです。
例え話は「方便」の話です。方便から当人に演繹して欲しいから、そう言う話を(ある意味その人に合わせた話)する訳です。
上述の合気のことを更に話すと、「合気」の「感得」「体験」は、果たして「慢心」なのでしょうか?だとすれば、塩田剛三先生は慢心のかたまりだったと言う事になります。
信心でも何でも「感得」「体験」が大事だと言う事は論を待ちません。
何故「感得」=「慢心」になるのか、私には未だに理解不能の状態です。
題目の凄さは優れて個人的な「感得」です。「体験」だと言い換えることも、全く可能の話です。
学会で昔言われていた話、「リンゴは食べてみないと味は分からない」の意味は、「リンゴの味を感得・体験する為には、結局食べてみることが一番」だと言い換えれます。この言い換えのどこに矛盾があるのでしょうか?
上記の話の一体どこに間違いが存在するのか、伏在しているのか、どなたか道理を尽くした、分かり易い説明が欲しいものです。
以上は「体験」「感得」の少々周りくどい例え話です。そのまま「信心の体験」と言う言葉で説明出来ればいいのですけど、こう言う話はネット上には溢れかえっています。それを今更同じ表現で記していても仕方ありません。
少数の人でもいいので、この例え話で「へえ…」と感じて頂ければそれでいいのではと、個人的には思っています。
葛西氏との対話の「結論」を知っている人は,少々の脱力感を感じるかもしれません。でもこれは、私と彼との(彼の嘘話の)対話の中でも納得出来る話だと、自分では思っています。
彼への同調者さん達はともかくですが…。
どのような分野であれ、ある程度のレベルに達した「一流の人達」というものは、
世界を見回せば、結構な人数いるわけですが、そこを突き抜けて、
「超一流」と称される、所謂「その道の達人」は、各ジャンルに一人か二人、
多くても三人ほどしか存在しないのではないでしょうか。
「一流になり得る才能を持った人」が、壁にぶつかってもがいている場合、
過去から現在において「一流になったことのある人」のコーチングや
アドバイスによって、ある「きっかけ」を掴み、猛練習や日々の修練によって
「壁を破り」一流の仲間入りをしたという話はよく聞きますが、
「超一流の人物」たり得る道程や、その境地というものは、自らが独自の
プロセスを発見して「体感」するしかないものであろうと思います。
平昌オリンピック スピードスケート女子500mを五輪新記録で金メダルに輝いた
小平奈緒さんは語っていたそうです。
スタートの号砲が鳴る直前に体が「ピクン」と反応し、ファールを取られると
焦ったのではないかと、実況中継をしていた解説者に問われて、
「スタート直前から、第一コーナーに差し掛かる手前までの記憶がない」と。
更には、
「最後のコーナーを抜けて直線に入ってから、ゴールまでの間は、
スローモーションのようだった」と。
この状態を、その解説者は、「ゾーンに入った状態」と表現していました。
この解説者もまた、スピードスケートで過去に、無敵のアスリートとして
名を馳せていました。
「ゾーンに入った状態」。
これは、彼や彼女のように、トップアスリートとして君臨した者にしか
「体感」するこのできない「特別な時空体験」でしょう。
私たちの信心の世界で言えば、戸田第二代会長の「獄中の悟達」もまた、
戸田先生にしか「体感」できない世界だったでしょうね。
私たち学会員が、信心の確信を掴むに至った「唱題の功力」は、それぞれの
「宿業」と真正面から向き合って、真剣に動き、題目を唱えた者のみが知る
「体感」であり、「特別な境涯(境智冥合=仏界の湧現)」です。
幹部でさえ、組織をうまく立ち回って泳いでいる者には絶対に味わえない
境涯(「唯仏与仏乃能究尽)です。
私がここで「体感」と表現したものと、Monlingenさんが表現している「感得」は、
同じものですよね。