桑名歴史ニュース129 2015.07.06 貝塚栄之助について 西 羽 晃 貝塚卯兵衛の長男・卯三郎は19歳で死去し、次男・由二郎は生後間もなく死去した。3男の栄之助が家督を継いだ。栄之助は明治15 (1882)年に生まれた。三重県立一中学(現津高校)、東京高等工業学校(現東京工業大学)電気化学科を卒業し、名古屋電燈に入社。 その後、松阪工業学校(現松阪工業高校)の先生をしたが、大正4(1915)年に父の死去に伴い家督を継いだ。当時の貝塚家は大地主で あったが、彼は実業界へ乗りだした。 大正7年に名古屋で高岳製作所(現東光高岳)を設立し、社長となり、23年間務めた。さらに桑名瓦斯社長(大正15年)、山中清賞 堂社長などを務めた。また桑名電軌、三重県農工銀行の役員ともなった。昭和5(1930)年には桑名町名誉助役となり、地元の行政に携わ るようになった。9年4月に桑名町長に推薦されたが、「前後四回にわたって(略)お断りをした訳ですが、聞入れないので、つひに私 の方が根気負けし」(『朝日新聞』三重版 1934年5月15日)て桑名町長となった。そして12年には西桑名町と合併して成立した桑名市 の初代市長となった。以後、戦中の激動期を市長として激務をこなした 栄之助は2女・2男に恵まれ、長女の美代は昭和8年4月3日に京都の都ホテルで、京都帝国 大学(現京都大学)教授の小川茂樹 と結婚式を挙げた。戦時も末期近くの19年に貝塚家は連続して不幸に見舞われた。4月4日に次男の悟郎は病気のため逝去。享年22歳 だった。6月19日に長男の嗣郎がマリアナ海戦で戦死した。享年27歳。11月13日に栄之助の母・みつが逝去した。享年88歳。2人の息子 を亡くして、跡継ぎが居なくなったため、長女と結婚していた小川茂樹を20年3月に貝塚家の養子とした。小川茂樹から貝塚茂樹となった が、家業を継ぐことはなく、学者として研究活動を続けることを許され、生活費も栄之助から援助された。 栄之助は20年6月に桑名市長を退任した。同年7月にはアメリカ軍の空襲で船馬町の自宅も内堀の別邸も焼失してしまった。そして 敗戦後は財産税と農地解放で大きな打撃を受けた。22年に栄之助は永眠した。茂樹は「太平洋戦争が起こっていなければ、義弟の嗣郎が 戦死するはずもないから、私が貝塚の本家を相続することはありえない。太平洋戦の敗戦の結果、財産税ができ、そのショックが義父の 死を早めた」(『わが歳月』)と書いている。 内堀の別邸は戦災で焼失したが、戦災復興事業の記念として昭和44年に桑名市の公園となり、「貝塚公園」と命名された。 参考資料 「貝塚家墓碑」(浄土寺) 「貝塚の家系」(貝塚侊編 1995年) 『侊傘録』(貝塚侊編 1997年) 『大桑名に輝く人々』(田中宗太郎編 1938年) 『わが歳月』(貝塚茂樹著 1983年) 『朝日新聞』三重版(1934年5月15日、1944年4月6日、同年11月17日) 「中部のエネルギーを築いた人々」(一般社団法人 日本電気協会中部支部WEB 2014年12月号)