新型出生前検査が形成する未来
日本産科婦人科学会(日産婦)が、「母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査指針」、通称新型出生前検査(略称NIPT)を公表したのが平成25年3月9日。4日後の13日には、厚生労働省母子保健課課長が「『母体血を用いた新しい出生前遺伝学的検査』の指針等について(依頼)」(雇児発母0313第2号)を通知した。これにより、あくまで臨床研究として、指定機関に限定し、また35歳以上の妊婦に限定し、さらに検査疾患も三つの染色体異常に限定して、新型出生前診断が日本で開始され、5年が経過した。
新型出生前検査は、従来からある検査より優れている。従来からある羊水検査は精度(感度)はほぼ100%だが、子宮に針を刺すことから約300人に1人の割合で流産のリスクがある。他方、同様に従来からある血中ホルモン検査と超音波検査の組み合わせでは精度は80%から85%と言われていた。新型出生前診断では、採血したDNAによる診断で精度が約99%と高いうえ、超音波検査のような読み取りの難しさもない。
5年の臨床研究が終了し、日産婦は一般診療として実施する方針を決めた。具体的な実施だが、この検査には法的拘束力もないこともあり、急速に広く普及するようになるだろう。結果、どのような社会になるか。
参考となる、NIPTコンソーシアムの研究がNHKで報道された。「染色体異常確定で中絶が98% 新型出生前検査」(参照)より。
検査を実施する医療機関で作るグループがその結果をまとめたところ、去年9月までに新型出生前検査を受けた妊婦は、5万1000人余りで、このうち、胎児に染色体の異常がある可能性が高いことを示す「陽性」と判定されたのは、1.8%に当たる933人で、その後、さらに詳しい検査で異常が確定したのは700人だったということです。
異常が確定した人の中で、自然に流産した人を除く668人のケースをさらに分析すると、14人が妊娠を継続し、人工的に妊娠中絶を選択したのは654人だったということで、胎児の染色体の異常が確定し出産が可能だった人のうち人工妊娠中絶を選んだ人は、およそ98%となりました。
特に先入観なしにこの臨床研究の結果から推測することだが、新型出生前検査が広く実施され、同様にほぼ98%程度に人工妊娠中絶が行われるようになるだろう。
これをどのように考えたらよいのか。沖縄タイムスは1月31日に「[新出生前診断]当たり前の検査を懸念」という社説を「「命の決断」に向き合い、支える体制はできているのか。」として切り出した。そして、「慎重な議論を求めたい。」として、「一人一人の決断は重く、この問題に明快な答えはない。だからこそ産む決断を後押しできる「共生社会」をつくる努力を重ねなければならない。」と結語した。
他の例では、河北新報社の今日の社説「新出生前診断の拡大/生まれる子選ばぬ社会に」では、《診断結果を受け、妊娠を継続するかどうかは、あくまで「自己決定」だとされる。しかし、その背景に「生まれる子は健康でなければならない」、そのために「検査を受けなければならない」という無言の圧力がないだろうか。」とし、結語を「過去の世論調査で、出生前診断の容認派は79%。理由は「異常が分かれば出産後の準備に役立つから」が最多だった。重い結果を知らされたカップルを孤立させず、どんな子も、安心して産み育てられる社会でありたい。》とした。
朝日新聞は記事ではあるが「「命の選別」なのか 新型出生前診断、開始から5年」で踏み込んだ形で識者の言葉を伝えている。室月淳・宮城県立こども病院産科長はこう述べている。
検査に対して、「命の選別だ」という批判もあります。遺伝情報や障害、病気で人を差別するべきではないという意味で、命の選別をするべきではないとの主張には全面的に賛成です。国家などが検査や中絶を強制することも許されません。
しかし、あらゆる出生前診断が「命の選別」と批判されることには、違和感を感じます。第三者が夫婦に対し、検査を受けることや結果を受けて妊娠をあきらめることを一律に禁じられるのでしょうか。どれだけ支援があっても、最終的に子どもの面倒をみるのは夫婦ではないでしょうか。
それに、染色体の病気がわかって中絶を選ぶ夫婦は、必ずしもダウン症候群などを差別しているわけではありません。家庭の経済状況など様々な個別で複雑な事情があってのことです。個々の夫婦が置かれた状況はそれぞれ複雑で、異なります。夫婦も医療者も複雑な状況をどのように解決すればいいのか絶えず苦闘しています。そのような現場にいると、「命の選別を規制すべきだ」といった一刀両断の議論には、あまり意味がないと感じざるを得ません。
現状からの推測であって、理念を挟むものではないが、おそらく日本からダウン症が消えるという事態が生じるだろう。
また、「命の選択」という概念はひとまず置くとして、ダウン症の出産がなくなるまでの過渡期化もしれないが、検査後に中絶した親の先進的なケアは必要になるだろう。
それがおそらく現実だろう。あるいは、「日本」の現実になるだろう。
ここまで、この問題にできるだけ、理念をはさまずに書いてきたが、それでも、ここで現れる「ケア」の内容には、罪責感の一般的な対応を超えた部分が求められ、やはり倫理的な問題は浮上してくる。別の言い方をすれば、この地点で倫理の問題が問われるだろう。(なお、こうした問題に私自身が直面した経験ついては自著で書いたのでここでは触れない。)
この問題、つまり、出生前検査での中絶という問題で見るなら、日本に限定されない問題であり、すぐに連想が付くように、特に米国では、中絶そのものへの忌避感を持つ少なからぬ人々がいる。彼らは、単に中絶を排そうするのではなく、「最終的に子どもの面倒をみるのは夫婦ではないでしょうか」に対置したかたちで、ダウン症の子供の養子を推進しようとしている。団体も見つかる(参照)。
おそらく問題は、倫理的な命題を先行させるよりも、ダウン症の子供の養子の運動として展開したほうがよいのだろう。ただ、その場合、日本では、養子そのものが難しいということがある。
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