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2018-03-18

[]日大哲学WS「美的経験、再考!」Add Starkugyo

金曜日に行われていたワークショップだが、自分は行くことができなかった。

しかし、提題者の方々がみな配布資料をアップしてくださっていたので、それらを読んだ。

いずれも、日常的なことと関わるようなことを検討していて、美学の面白さが出ていると思う。

こういうこと確かにあるよな、ということについて整理される感じの面白さ

森功次「美的選択:伝統的美学理論からの逸脱とその影響」

松永伸司「スノッブのなにが悪いのか」

青田麻未「観光者・居住者の疎外――環境美学における美的経験論再考

高田敦史「美的価値と行為の理由」

2018/3/16(金)日本大学、ワークショップ「美的経験、再考!」(要旨つき告知) - 昆虫亀

森功次「美的選択:伝統的美学理論からの逸脱とその影響」

Dropbox - 日大ワークショップ、美的選択、森功次.docx

近年、伝統的な美学理論に対して、日常生活についての美学というのが登場しているらしい。

伝統的な美学は、芸術作品や自然を対象としていたが、それに対して、日常生活の美的経験をとりあげている。

前半では、日常生活の美学から、伝統的な美学理論への批判がどのようになされているか、ということについてまとめ、

後半では、その中で特に「美的選択」ということについて論じられている。

Kevin Melchionnによる論文美的選択

日常的にやっているささやかな選択(今日はなんの曲を聞くか、どんなアクセサリーをつけるかなど)

こうしたささやかな選択がどうして重要なのか、どうすると「美的選択となるのか

→積み重なって、その人の個性となるとき

少なくとも、個性顕示の意図をもってなされる選択は、美的選択ではないか、と。

さらに、美的プレッシャーというものがあるのではないか、という指摘もなされていて面白い。つまり、パーティなどでは、ちゃんと「美的選択」をしないと責められる、というようなプレッシャー


個性を示すための日常生活における様々な選択、というのは、結構よくみられるものだと思う

インターネットに限っても、プロフィールに自分の好きなものを羅列したり、インスタ映えを気にしてみたり、というあたりにこうした美的選択はありそう。

美学という学問から見れば、「美的判断」というのは芸術や自然美だけではなく、日常生活においても同様のものが見られるのではないか、と拡張する議論として

そうでない日常生活者の立場からは、自分たちの普段の行為についての説明や枠組みの提示として、読むことができると思う。

美的プレッシャーという話も面白くて、倫理的な非難と混じった美的非難というのがあるな、ということが整理できるのではないか、と。

松永伸司「スノッブのなにが悪いのか」

snob_20180316_resume.pdf - Google ドライブ

スノッブというと俗物などと訳されるが、対象の美的な価値が本当は分かっていないのに、他人に対する社会的な優越を理由に判断をするようなことである。

その作品だったり嗜好品だったりのよさは全然分かっていのに、「通」ぶりたいために「いいよね」というような奴のことである。

基本的に、そういうスノッブな態度というのは、よくないものだとされている。

ここでは、そのことについて改めて検討がなされている。

そうはいっても、正当な美的判断とスノッブ美的判断って区別できないのではないか、ということを論じ、

スノッブかどうか、ではなくて、害のあるスノッブと害のないスノッブとを区別する方法を提案し、害のないスノッブを擁護している。

「知ったかぶり」というのは嫌われるけれど、まだそのジャンルで新参の人が、「知ったかぶり」をすることを通して次第に成長して、実際に分かっていくようになるのであれば、それは問題ないのではないか、というような話

ここらへんも日常の中でありそうな話である

青田麻未「観光者・居住者の疎外――環境美学における美的経験論再考

Dropbox - 20180316日大WS原稿.pdf

環境美学において、観光者や居住者の美的経験はほとんど考慮されてこなかった、あるいは言及されても否定的なものだったことを受けて、そうした批判に反論するというもの

居住者の話の中で、日常生活の美学における、Irvinの「かゆいところをかく」という事例や、Saitoの「洗濯」の事例など、これまで美学では扱われてこなかった事例に、美的経験を拡張する議論が紹介されている。

高田敦史「美的価値と行為の理由」

aesthetic-reason.pdf - Google ドライブ

価値に関する主張は、理由を含む。

例えば

「この森林は美しいから保存すべきだ」

「とてもスリリングな映画だから見に行こう」

「あの作家の作品はつまらないから読まない」

森林や映画や作品の美的価値が、保存すべき、見に行く、読まないことの理由となっている。

逆に「面白い」と口では言いつつ、その作品を全く見に行こうとしない場合、本当は「面白い」とは思っていないということになる。

美的価値とはいったい何なのかということについて、従来は「美的快楽説」という説が支配的であった。つまり、美的価値とは快の経験をもたらすものだ、と。

ところが、この発表では、この美的快楽説では、破壊の事例に対してうまく応答できない、と批判している

例えば、「軍事政権文化財を破壊した」という事例に対して、その破壊に反対したり、怒りを感じたりする。

これは、単に快となる経験を失ったから、では説明できないのではないか、と

というのも、例えば、「作品を保存するために一般公開されなくなる」「高い美的価値をもつ料理も食べるとなくなってしまう」というような事例の場合、やはり、快となる経験を失うが、反対したり怒ったりということはない。

どちらも同じ破壊であるが、美的価値に敬意を払っているか否かという違いがあり、敬意が払われていない場合に、反対や怒りの理由が生じているのだ、と

美的価値を認めているというのは、行為の理由になるので、本発表では例えば以下のような例を挙げている

つまり、「あるマンガに高い美的価値を認めていると言う人が、一方で、そのマンガを違法ダウンロードサイトでしか見ていない」というケース。価値判断と行為がちぐはぐなのでは、と言える。

で、これを説明するために、「美的快楽説」ではなく、ロペスによる「ネットワーク説」というものが紹介されている。

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