2018年03月19日
昨晩、以下のようなツイートを落としました。
今日はこのツイート時及びそれ以降、この件についてぼんやり考えていて、とりあえず「ひとりブレインストーミング」のようなことを開催した経過を記録しただけ。
以下に並ぶのは論としての整合性とかはとりあえず横に置いての思いつきの羅列であり、自分もこれが正しい思考なのか判断できてません。何か最近こういう投げっぱなしばっかだな。思考を詰める時間がないの。
- アイドル云々以前に通常の生活において、姓で呼ぶより名を呼ぶ方が近しい関係性である、ということは前提。
- 日本の「ミュージシャン」の場合、マドンナとかビヨンセとか欧米の女性ソロ歌手の名乗りに影響を受けている結果と推測。
- これらは、近しさを印象付けるためだけでなく、ミュージシャンとしてのパーソナルと個人としてのパーソナルは別であるということを示す「標識」として、そしてこういう業界で名乗りを上げるための「屋号」として捉えることができる。
- 一方、日本の「アイドル」の方については少なくとも現状では、「恋愛禁止」的なところに顕著ですが、アイドル活動のパーソナルと個人のパーソナルが極めて近しいというかほぼ同一として扱われることが多い。少なくとも敢えて分割するという意識は発生しない。
- このパターンで姓の方を呼ばれた初めてのアイドルは恐らくおニャン子クラブのメンバー。とんねるずのいじりの結果でもあるが、彼女たちは日本初の「アイドル活動のパーソナルと個人のパーソナルが極めて近しい」ことを売りにしたアイドルでもある。
- WACK勢アイドルグループのメンバーが名乗るけったいな芸名は、本来おニャン子以降、現在に至る日本のアイドルのノリではどうしても地続きになってしまう公と私を分け隔てるための「壁」として機能している。
- 日本のアイドルで姓で呼ばれた最初は小泉今日子であり、もう1人の代表例である森高千里と一緒に考えた場合、この「小泉」「森高」という呼称は今のアイドルの「姓で呼ぶことを許容する文化」とは別物。
- 普通のアイドルとしてデビューして以降徐々にメタアイドル化というか「アイコン」化していくプロセスで生じたものであり、これはむしろ「ビヨンセ」パターンに近い。
- ただ、名でなく姓を押し出すのは、通常最初からその気であればデビュー時に「名のみ」を選択するのが、最初はフルネームでデビューしてそれ以降のプロセスとして差別化が行われるという流れになると、むしろ姓の方が使われがち、ということか。ここよくわからない。
- 元々アイドルが疑似恋愛の対象だとすると、「小泉」「森高」と姓で呼ばれることでその枠から脱することができ、それによってアイコンとして機能することができるということ、かも。
- 元ももクロの有安杏果が名と同程度に姓でも呼ばれていたのは、自己紹介で姓を名乗っていたという点が大きいが、表に出る「ももクロ」メンバーとしてのカラーと実際の個人パーソナルに5人の中で一番乖離があったのは彼女だというのは、ある程度ももクロを知っている人であれば共通認識であり、これは姓を自分から敢えて名乗ることで、それをいわばペルソナ的に使用していた可能性。
- ももクロの場合、逆にあーりんのソロ曲「あーりんは反抗期!」で歌われる「佐々木って言うな」という歌詞は、作詞者ヒャダインによる彼女の「脱メタアイドル宣言」として捉えることができる、というのはいくらなんでも考えすぎ。