第3話 彼の名前はシューティングスター

 小鳥が向かったのは、配属先である第11飛行隊の、飛行隊隊舎と専用の格納庫ハンガーが置かれている区画だ。飛行隊隊舎には、ブリーフィングルーム・救命装備室・整備員待機室・整備統制室・総括班などのほか、一階にはブルーインパルスの歴史を展示物で知ることができる、ブルーミュージアムがある。飛行隊隊舎は、会社でいうオフィスのようなもので、パイロットをはじめとする、四十名以上の隊員が、飛行隊隊舎を拠点に活動しているのだ。


 隊舎に入った小鳥は、正面の階段で隊舎の二階に上がり、左に曲がって陽光が差す廊下を進む。飛行前と飛行後に集合して、飛行計画を打ち合わせるプリブリーフィングや、フライトの評価や反省をするデブリーフィングを行う、ブリーフィングルームの隣にあるのが隊長室だ。小鳥は隊長室の前でいったん足を止めると、緊張しながら大きく息を吸い込んだ。


「桜木小鳥2等空尉、入ります!」


 中から「入れ」と、低い声が返ってきたのを確認した小鳥は、ドアを開けて隊長室に入った。正面に仕事机、左側に二脚のソファーとテーブルが置かれている。第11飛行隊の飛行隊長は机に向かっていて、積まれた書類の整理をしていた。室内を進んだ小鳥は、背筋を伸ばして机の正面に立つ。まとめた書類を引き出しにしまうと、飛行隊長は小鳥に視線を当てた。


「桜木小鳥2等空尉。聞いていた時刻よりも遅い到着だな」


 細められた双眸が小鳥を捉えた。厳しい表情と眼差しに、小鳥の背筋を冷や汗が滑り落ちていく。自衛隊はいかなる場合でも、時間厳守・命令厳守が求められるのだ。


「申し訳ありません! ブルーインパルスの飛行訓練に見惚れてしまって、到着が遅れました!」


 小鳥が正直に申告したそのときだ。なんと飛行隊長は豪快に破顔一笑したのである。大爆笑されるようなことをした覚えはないのだが――。狐につままれたように、小鳥はきょとんとしていた。


「すまんすまん。べつにおまえを笑っているわけじゃないんだ。おまえの親父さんのことを、思い出してしまってな。思い出し笑いっていうやつさ」


「父さんのことを、ですか……?」


 小鳥が訊くと隊長は笑顔のまま頷いた。


「おまえの親父さん――桜木勇樹2等空佐もな、配属初日に大遅刻したんだよ。それで当時の飛行隊長が、遅刻した理由を訊いてみたら、彼は『ブルーインパルスの飛行訓練に見惚れてしまって遅れてしまった!』って言ったんだ。娘のおまえも、まったく同じことを言ったから、思わず笑ってしまったんだよ」


 まさか勇樹もブルーインパルスに見惚れて遅刻したとは――。血は争えないというのは、まさにこのことを言うのだろう。嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な心境である。椅子から立ち上がった隊長は、机を回りこんでこちらに来ると、小鳥に大きな右手を差し出した。


「第11飛行隊隊長、タックネームはイーグルの鷲尾武之わしおたけゆき2等空佐だ。今回だけ大目にみるが、二度目の遅刻は絶対にするんじゃないぞ」


「はっ、はいっ! よろしくお願いします!」


 小鳥は差し出された右手と握手した。年齢は40代後半の筋骨逞しい男性だ。生命力がみなぎる強い男の顔は、パイロットらしく真冬でも綺麗な小麦色に焼けている。自己紹介が終わると、鷲尾2佐は右腕のパイロットウオッチを見やった。


「そろそろ訓練が終わる頃だな。みんなに挨拶しにいくか」


 鷲尾2佐のあとに続いた小鳥は隊舎を出ると、専用の格納庫が置かれている駐機場に向かった。到着した駐機場エプロンには、T‐4の帰りを待っている整備員たちがいた。鷲尾2佐が冬の淡い青空を見上げる。小鳥も空を見上げてみると、海の方から飛んできた六機のT‐4が、鷲のように大きく旋回しながら、滑走路の端に近づいていくのが見えた。


 独特の高いエンジン音を響かせながら、六機は一定の間隔を保ったまま滑走路に着陸した。誘導路上で再度隊形を整えた六機は、整備員たちが待つエプロン地区までタキシングする。地上滑走中でもブルーインパルスは、最後までその編隊を崩すことは許されない。空でも地上でも、常に編隊精神という強い絆で、結ばれているからである。


 整備員の誘導で停止した、T‐4のキャノピーが開き、全国の部隊から選びに選び抜かれた、大空の精鋭たちが降りてくる。フェンスの向こうに集まっている、カメラを構えた見物客たちに手を振りながら、パイロットたちはこちらのほうに歩いてきた。


「隊長! もしかしてもしかして、その子がブルーに新しく配属された子っスか!?」


 小鳥を見て目の色を変えたのは、最後に着陸した6番機から降りてきた青年だ。鷲尾2佐が「そうだ」と頷き返すと、青年は闘牛のように鼻息荒く近づいてきて、がっしりとした両手で小鳥の手を握り締めた。


「初めまして! タックネームはレッドの、6番機パイロットの赤峰健児あかみねけんじ1等空尉です! いやーこんなに可愛い子が俺の弟子だなんて、超マジ半端ねぇ――あいたっ!」


 石が落ちたような硬い音が響いたかと思うと、赤峰健児1等空尉は呻きながら頭を押さえて蹲った。いつの間にか赤峰1尉の後ろにパイロットが立っている。恐らく彼が興奮しすぎた赤峰1尉に鉄拳制裁したのだろう。年齢は30代後半に見える。やや垂れ目がちな双眸と、片方の頬に浮かぶ笑窪が魅力的な男性だ。


「初対面なのにいきなり手を握るなんて、セクハラで訴えられたいのか? 赤峰が迷惑をかけてすまないね。赤峰には1週間のトイレ掃除と草むしりをさせるから、ここはひとつ許してやってくれないか?」


「ええっ!? モーニングさん! それは勘弁してくださいよ~!」


 涙目の赤峰1尉が情けない声を上げると、エプロンに大爆笑の渦が一気に湧き起こった。だがそのなかで一人だけ笑っていない者がいた。彼らから少し離れた所に立っている長身の青年だ。その彼がサングラス越しに小鳥をじっと見つめているのが分かる。気づいた小鳥と目が合いそうになると、青年は素早く視線を逸らした。


「みっともないところを見せてすまんな。自己紹介、簡単によろしく頼む」


 鷲尾2佐に頷いた小鳥は、踵を合わせて背筋を伸ばすと、右手をこめかみに当てて敬礼した。


「築城基地第8飛行隊から着隊しました、桜木小鳥2等空尉であります! よろしくお願いします!」


 小鳥の着隊の挨拶が終わると、パイロットたちは順番に自己紹介していった。飛行班長の朝倉友哉あさくらともや2等空佐。2番機レフトウイング鷹瀬真由人たかせまゆと1等空尉。3番機ライトウイング藤森晃祐ふじもりこうすけ2等空尉。4番機スロット飯島聡志いいじまさとし1等空尉。そして赤峰1尉が改めて自己紹介をしたけれど、例の青年はその場からまったく動こうとしなかった。


「おい、なにボケッと突っ立っているんだよ! おまえもちゃんと挨拶しろ!」


 後ろを向いた赤峰1尉に呼ばわれた青年は、渋々といった様子で小鳥のほうに歩いてきた。バイザーカバーの左側に、「SHOOTING STAR」のタックネームが描かれた、メタリックブルーのヘルメットを右手に提げている。


 タックネームの「シューティングスター」は流星の英語名だ。であれば彼こそが勇樹が自慢していたパイロットに違いないだろう。「失礼だぞ」と赤峰1尉に注意されて、青年はかけていたサングラスを外した。


 思わず目を見張るような端正な顔立ちをした20代後半の青年。藍色が混じった黒髪は、宙に浮くように逆立っていて、長い睫毛に彩られた、涼やかな切れ長の双眸は、色素が薄いのか青みがかった灰色だ。引き締まった細身の姿態に、贅肉はほとんど一欠片もなく、すべての筋肉が念入りに鍛え上げられているのが分かる。綺麗な線を描く切れ長の眦が、彼の放つ独特の眼差しを感じさせた。


「……5番機パイロットの天羽流星てんばりゅうせい1等空尉だ」


「桜木小鳥2等空尉です! よろしくお願いします!」


 みんなと同じように、小鳥は握手を求めたが、天羽流星1等空尉は彼女の横を通り抜けると、格納庫の中に入っていった。少し遅れて、赤峰1尉たちも格納庫の中に入っていき、小鳥と鷲尾2佐だけがエプロンに残された。


 小鳥は流星の素っ気ない態度に戸惑った。自分で気づかないうちに、流星の機嫌を損ねるようなことを、してしまったのだろうか? 勇樹からヒーローのように聞かされていただけに、小鳥が心に受けた衝撃は大きかった。不意に軽く肩を叩かれる。小鳥が横を見てみると、隣に立つ鷲尾2佐は、困ったように眉尻を下げていた。


「悪いな。天羽はいつもあんな感じだから、あまり気にしないでくれ」


「いえ、わたしは気にしていませんから……」


「そうか、それならいいんだ。宿舎に案内するからついて来てくれ」


 居住区の一角にある、女性用の独身幹部宿舎の玄関で、小鳥は鷲尾2佐と別れた。三階の廊下の突き当たりに、鷲尾2佐から教えられた部屋はあった。まずは窓を開けて空気を入れ換える。


 次にカーテンを開けて、暗かった室内を明るくした。ダンボール箱を順番に開けて、きちんと中身が揃っているか確認した小鳥は、中から銀製の写真立てを取り出した。写真立てに飾られている写真は、小鳥が休暇を利用して、松島基地を訪れたときに撮ってもらった、思い出の一枚である。


 写っている風景は1年前の松島基地のエプロンだ。ブルーインパルス仕様のT‐4を背後に置いた、小鳥と男性が肩を並べて立っている。男性はダークブルーのパイロットスーツを身に着けており、小鳥は繊細なレース模様が織り込まれた、ホワイトブラウスの上に、淡い桃色のジャケットを羽織り、ライトブラウンのキュロットスカートを穿いている。


 男性は闊達な笑みを満面に浮かべているけれど、彼に肩を組まれた小鳥は、どことなく照れくさそうな微笑みを浮かべていた。言わずもがなパイロットスーツ姿の男性は小鳥の父親の勇樹だ。


「……父さん、やっと同じ空を飛べるね」


 小鳥は愛情と悲哀が入り混じった眼差しで写真を眺めると、机の上に写真立てを置いて息を吐いた。あれから1年が経ち、小鳥は再び松島の大地に舞い戻った。前にいた第8飛行隊では、ARパイロットとして飛んでいたけれど、ここでは訓練可能態勢のTRパイロットとして扱われる。もしかしたら小鳥がTRパイロットだから、天羽流星1等空尉は、あんな態度を取ったのかもしれない。


 不意に流星の姿が小鳥の脳裡に思い出される。確か流星とは初対面のはずなのに、なぜか彼と初めて会った気がしない。いつか遠い以前に、どこかで一度出会ったような気がするのだ。だが小鳥がいくら考えても思い出せず、脳裡に浮かんだ流星の姿は、記憶の海の奥底に沈んでいったのだった。

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IMPULSE BLUE -大空の軌跡- 蒼井青空 @TsukiUsagi

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