「なんで高知なの?」
こちらへ来ることを決めた半年間、いろんな人から言われ続けた。
私には、それを一言で説明するのは難しい。
そうやって先週、ついに引越してきてしまった。
"なんで"なんて、事前の考えはあてにならない。だって大切なのは、これからなのに!
お家でご飯を作り、食べて、お家で仕事をする。
今まで移動にかけていた時間がぐっと減った。だからその分毎日本を読む時間をとることにした。
引越しの荷物の、たくさんの本の段ボールの中から一番はじめに出てきたのが、よしもとばななさんの「海のふた」だった。
東京で暮らしていた女の子が、ふるさとの西伊豆に帰ってかき氷屋さんをやるお話。
主人公のお母さんの、印象的な台詞がある。
「時間を割いてあげること、それだけがほんとうのおもてなしでしょう。
この町のいいところをたくさん案内してあげなさい。心細いことのない夏にしてあげなさい。この町の役に立つってそういうことでもあると思うわよ。むだなことに思えても、ひとりの人にこの町のよさを刻めたら、それはあとで何倍にもなってあなた自身に意外な形で戻ってきます。」
親戚の女の子が一夏だけ主人公の町に療養にくるのを、どうか気にかけてあげなさいという言葉だ。
これを見て、妙に納得した。
私は去年の夏、縁もゆかりもない高知にふらりとやってきて、心細いことのない夏をもらったんだ。
たくさんの場所で暮らしてきたから、元々住む場所にこだわりはなかった。
やりたいことがあったからどうしても東京に行きたくて地元から出てきたけど、ちゃんとそこで基盤を作ってどこにいても働ける仕事になったから、どうしても東京に住まなきゃいけない訳でもなかった。
たまたま次の場所を、と考えていた時に、決定打をくれたのがここだったのだ。
そしてそれはたぶん、ここの人たちがこの場所のために自然と私にしてくれた親切のおかげだ。
「海のふた」を読んで海のことを想った時、いちばんに浮かんだのは高知の山奥の、近所のおじいちゃんが連れてってくれた桂浜。
「今度はいつ遊びにくるの?」と、東京に戻ってもいつでも電話をくれた。
なんだか本当に家族みたいだな、と嬉しかった。私は本当の家族とはもう疎遠になってしまっていたから。
今年はもういつでも行けるんだなあ、桂浜も。
私のペンネームがひらがなであることの理由の一つは、よしもとばななさんが(当時)ひらがなのペンネームだったから。
彼女の小説には、様々な土地で自分の暮らしを作っている女性たちがたくさん登場する。ずっとそれを読んで育った私のいちばんの優先順位は、場所がどこであれそんな"自分の暮らし"を作っていくことに他ならなかった。
だから今はひたすらに、暮らしていくことがとても楽しみ。毎日の中に小さな喜びを見つけていくことが、なによりの楽しみ。
私が行くから、と一緒に高知まで来てくれた友達がいた。
私がいるから高知に会いに行くね、と言ってくれる人たちがたくさんいる。
私は病的に車が運転できないので、あちこち連れていってあげることはできないかも知れないけど、時間を割いて案内して、一緒に楽しく過ごすことはきっとできるだろう。
そして、その分、この場所のいいところを、文章や、広告や、そういう飛び道具みたいな形にして、全然ここを知らない人たちに見せていってあげたりすることも、自分にだからできるだろう。そう思ってる。
初心に戻りたい時は、いつもよしもとばななさんの本を読む。それがいつもスイッチになる。
私に書く才があるかは、きっとこれからの努力が決めるはず。でも、朝も昼も夜もたくさん本を読んでここまで生きてきたから、読む才だけは絶対にある。
「海のふた」のあとがきはこう終わる。
「どうか若い人が希望を失わずに日本の自然を愛していけますように。」
自分を若いと思うこと、希望を失わないこと、自然を愛していくこと、どれも難しい世の中だ。両立するなんてもっと難しい世の中だ。
だからこそ私がまず示したい。やれるはずだし、できるはず。
理由じゃなくて、結果を見てね。今あえて言うならば、日本のどこかで私が形にしていくことを見せられるかもしれないという希望が、その理由です。
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