明治維新から150年が経つ。NHKの大河ドラマで西郷隆盛が取り上げられるなど、薩摩・長州の側から維新を描く番組・特集が目立つ。しかし、負けた側である徳川方にも歴史がある。
会津の松平容保は最後まで将軍家に尽くした悲劇の宰相として有名。その弟である松平定敬(桑名藩主)も容保と行動をともにした。それゆえ、桑名藩を飛び出すことになる。
一方、彼らの実の兄である徳川慶勝(尾張藩主)は藩内の親幕派を抑え、新政府につく。兄弟ではないが、越前・福井の松平春嶽もキーパーソン。当初は、最後の将軍・徳川慶喜も参加する“連立政権”の実現を図るが頓挫。その後は新政府に人材を供給した。
維新に翻弄された、尾張・会津・桑名の3兄弟と、春嶽の歴史をひもとく。現代のビジネスに通じる要素がいくつもある。
明治維新とは、徳川家中心の幕府から薩摩・長州藩を中核とする明治政府への政権交代劇であったが、維新を境に徳川家が完全に排除されたわけではない。排除された徳川一門もいたが、明治政府入りした徳川一門もいた。徳川一門が分裂して一枚岩になれなかったことが、維新が実現できた理由の一つでもあった。
一口に徳川一門の大名(親藩大名)と言っても、徳川姓を名乗ることが許された御三家・御三卿から、藩主が松平姓を名乗る会津藩、福井藩まで様々だ。それぞれ、将軍職を継いだ徳川宗家との関係は一筋縄ではいかなかった。各大名家の複雑なお家事情も背景にあった。葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、本社と系列会社との関係は必ずしも良好ではなかったのである。
そこで台風の目となったのが、尾張藩徳川家や福井藩松平家だった。こうした徳川家内部の足並みの乱れを突く形で、薩摩・長州藩は徳川一門の尾張藩や福井藩を引き入れて明治新政府を樹立し、さらに戊辰戦争を経ることで維新回天を実現する。
本連載では明治維新150年の節目の年に際し、維新の過程で翻弄された徳川一門の殿様4名に注目する。尾張藩主徳川慶勝、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、福井藩主松平春嶽の4名である。
将軍家以外の徳川家は激動の時代をどう生きたのか。維新を境に敵味方に分かれた4名の殿様の生き様を追うことで、徳川一門の殿様からみた明治維新の知られざる実情に迫る。
冷戦状態だった幕府と尾張藩
初回は尾張藩主徳川慶勝を取り上げる。慶勝は文政7年(1824)の生まれで、後に部下となる西郷隆盛よりも3才年上であった。
尾張藩の石高は62万石で、戦国の雄だった加賀藩前田家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家にこそ及ばないが、家格は徳川宗家(将軍家)に次いだ。徳川宗家に継嗣がいない時は、ナンバー2の大名として将軍の座に最も近い立場にあったが、尾張藩主が将軍の座に就くことは一度もなかった。
6代将軍徳川家宣がいまわの時、尾張藩主の吉通が継嗣に擬せられたことはあったが、家宣の嫡男家継がわずか4才で将軍の座を継いだことで、その機会を失う。7代将軍家継が8才で夭折した時も、紀州藩主の吉宗に8代将軍の座を奪われた。
家格では尾張藩の次に位置した紀州藩から将軍職を継いだ吉宗に対し、その後尾張藩主となった宗春は御三家筆頭としてのライバル心を剥き出しにするような政治を行う。質素倹約を旨とする吉宗のデフレ路線に対し、尾張藩主の宗春は規制緩和による積極経済の路線で対抗した。そのため、不景気に苦しむ江戸城下とは対照的に名古屋城下は大いに賑わう。
しかし、こうした宗春の施政は吉宗から目を付けられざるを得ない。隠居・謹慎を命じられ、藩主の座を追われることになった。筆頭の系列会社のトップ人事にグループの総帥が介入した格好だ。おのずから、尾張藩では紀州藩が牛耳る幕府への反発が高まる。
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