しかし彼は、4種類目、5種類目の4回転をシーズン早々披露した宇野やチェンに火をつけられてしまったのだろう。オフシーズンには「チャレンジしないつもり」と公言していたルッツに、シーズンイン後、躍起になって挑むようになる。4回転が当たり前になった現在でも、ルッツとフリップは、他の3種類とはけた違いの迫力で、人々を圧倒する。彼がどうしてもそれを手に入れたかった気持ちも、よくわかるのだ。
しかし、ただでさえケガをしやすい身体での、この年齢でのチャレンジは、どう見てもリスクが大きい。彼は常に新しいジャンプに挑むことでモチベーションを保っている、とも言われているが、その代わりに新しいプログラムに挑む方向になぜいかなかったのか。新プログラムをブラッシュアップすることで気持ちを高められれば、跳んでばかりの練習にならずに済んだのではないか。
そんな挑戦をメディアは大きく称え、NHK杯でも「4回転ルッツでファイナル進出!」などと煽り立てた。ルッツなど跳ばなくとも、2、3本ジャンプを失敗したとしても、楽々ファイナル進出が決まる試合だったにも関わらず。
それはもちろん、「4回転ルッツ」が、連呼して人々の注意を引き付けるのにぴったりの技だったからだ。もはや4回転は当たり前になってしまった昨今だが、並ではない4回転、最難度の4回転を見られるかもしれないぞ、と。かつて浅田真央をトリプルアクセルという代名詞でがんじがらめにしたのと、全く同じことだ。
そしてNHK杯、彼らが何をしていたかといえば、羽生のいなくなった試合には目もくれず、彼の宿泊しているホテルでずっと張り込みをしていたのだ。あるいは会場にいたとしても、記者席で試合を見ることもなく、漫然とプレスルームに溜っていた。それが、現在の日本のフィギュアスケート報道だ。羽生結弦が引退し、新たなスターが現れなければ、あっという間に彼らはここを去っていくだろう。
五輪以降についた羽生の一部ファンもまた、同じだ。フィギュアスケートではなく、羽生結弦だけのファンは、彼の欠場が決まると試合会場に現れさえしなかった。今回のNHK杯、実は男子、女子、ペア、アイスダンスと、4カテゴリーすべてで世界チャンピオンが集ったとても贅沢な試合だ。6戦あるグランプリシリーズのうち、日本のNHK杯はもっとも多くの観客を動員する。そんな場だからこそ、羽生以外の3組のチャンピオンも揃ったのだろう。
しかし、こんな素晴らしいパフォーマンスを日本で見られるなんて奇跡、と言われるほどの、テッサ・ヴァ―チュー&スコット・モイヤ組(アイスダンス)の演技時、客席は半分しか埋まっていなかった。切符はすべて売り切れのはずなのに、である。これが、今の日本のフィギュアスケートファンの姿なのだろうか?
いや、彼らの演技を見たくとも、チケットが手に入らず涙をのんだファンはたくさんいる。ひとりの選手だけではなく、フィギュアスケートそのものを楽しもうという人々だ。しかしチケットを手にした特定選手のファンは、彼が出ないだけで貴重な客席を空けてしまう。彼らにとって最後のグランプリになるだろう一戦で、渾身の演技を見せてくれたチャンピオンに、ほんとうに失礼な事態だった。