初めは理由があったわけだけど、いまとなっては「ある物理学者の友達への手紙」というタイトルは、ダサイが、話が続いているわけだし、もうこのままでいいや、と考えた。
ほんとうは、「オダキンへの手紙」とすべきなんだろうけど。
初めてオダキンと邂逅したのは、多分、ツイッタ上で、経緯から考えて、2011年の春か夏であったはず。
そう。あの福島第一事故で、いまとなっては科学者としての立場を悪用した安普請の政治活動にすぎなかったのがあきらかな、その頃は、「大阪大学の先生が、あんな事故はたいしたことないと言ってるぞ」で、たいへんな勢威だった菊池誠と放射能安全合唱隊に、そりゃ、あんたがおかしいんだ、と盾ついているヘンな奴がいて、あまつさえ、よく読んでみると、この人は京都大学の教員で、勇気があるというか、無茶苦茶というか、「よく判らないものは、とりあえず危ないと考えるほうが妥当なんじゃないですかね」と、当時の日本の人には珍しく、あたりまえのことを述べているので、おもしろいね、この人、と思ったのが初めだった。
言うと照れるだろうから、あんまり言わないが、ものすごい勇気がいることなんだよ。
職場だからね。
「オダキンという匿名で」と書いている腰が抜けるほどバカな人がいたが、オダキンが書いたものを見れば、そこいらじゅうに本名が書いてあって、それどころか、でっかい二次元絵が胸に書いてあるTシャツを着て、教壇に立っている写真まで出ている。
あのちょっとあとで、「自分は、大半が福島事故で漏出した放射能は危険だという同僚や上司に逆らって、あれはそれほど危険な量ではない、と勇気をふるって主張したが、精神的に大変でした」と書いている、一瞬、頭がくらくらするほど卑劣な人間がいたが、そういうオオウソツキ人間が大手をふって歩いていて、しかも、それに「ご苦労様でした」「たいへんでしたね」と労うコメントがつくほど、モラルの程度のわるい世界に取り囲まれていて、ふつうのことをふつうのこととして述べるのは、やはり、たいへんであったろうと思います。
オダキンに判っていることでも、勘弁してもらって、この記事を読んでいるお友達のためにお温習いしておくと、チェルノブル(チェルノブイリ)と、福島第一事故の違いは、いっぺんに放射性物質が空中高く拡散されてしまった事故と、メルトダウンを起こして地中にもぐっていってしまった事故の違いで、チェルノブルよりも福島第一事故のほうが遙かに深刻だが、チェルノブルの事故が参考にならないのはだから当たり前で、困ったことに、空中に一挙に拡散された場合に較べて、影響は長期的なものなので、当事者側、つまり東電や政府が嘘で塗り固めようとした場合、被害側、つまり国民は、反駁するのに、たいへん難しい立場に置かれてしまう。
科学の初歩でもかじっていれば、すぐに判ることで、科学の方法は既知の観測データを使って仮説を立てて、実証するのだけれども、前例がないものにはデータがなくて、「科学的な反駁」ができるころには、手後れで、犠牲者がごろごろしていることになる。
宇宙的な力、という言葉を使えばいいだろうか。
ドイツ人が、それまでは、もともと物理学者のメルケルを先頭に、クリーンエネルギー政策にかなうとして推し進めていた核発電計画を、あわてて取り止めて、巨額のオカネを費消して政策の転換をおこなったのは、多分、科学的感受性とでもいうべきものが発達しているお国柄のドイツ人たちは、核の力が、宇宙の原初的な力に属していて、とても人間の手に負えるような力ではない、と福島の大惨事を見て、直観的に理解したからでしょう。
日本の場合は、極めて不幸なことに、そもそもメルトダウンしているまっさいちゅうに、メルトダウンしているかいないかという、バカみたいな議論を延々と続けてしまったという不幸もあって、あっというまに手の施しようがなくなってしまった。
凍土壁も、なにも、世界に向かって公約した福島事故を「コントロール」する約束は全部ダメで、結果的に世界に対して国を挙げてウソをついて、大量の汚染水がいまだに太平洋に垂れ流しになっている。
もっとも被害にあっている太平洋岸諸国の人間も、なにしろ核発電所の事故なんて経験がないので、いいかげんなもので、太平洋の膨大な量の水の稀釈力で、影響が出るのが遅いのがわかったことをいいことに、あんまり考えないことにしたもののようです。
いまぼくがいるニュージーランドでいえば、汚染水がこの国の北端、プアナイトアイランドにとどくのが、だいたい40年後で、なあーんだ、40年後ならば、おれはもうジジイではないか、それじゃ娘たちに怒ってもらえばいいや、ということになっている。
しかし、すべてのことにはconsequenceというものが伴うのは、あたりまえで、それが30年後でも50年後でも、福島事故の影響がどこかで強くでてこないと考えるのは、シアワセに過ぎる考え方で、そんなことは絶対に起こらないが、地にもぐった核物質の影響が出るのは、いわば慢性病で、それが誰のめにもあきらかになるのは、多分、オダキンが死んでしまったあとで、もしかしたら、案外、「このくらいの放射能は安全だ、愚か者たちめ」の悪人どもは、それを計算したうえで、自分が生きてるあいだにはばれやしねーよ、とタカをくくって、遮二無二安心したがってるひとびとの心の弱さにつけこんでいるのかもしれない。
気が付いたでしょうけど、ツイッタ上のボスキャラがあってだね、
自分が重ねた悪事に気が付かないで浮かれているぶんには、いいのだけど、ツイッタのDMをつかって話しかけてきて、はてなトロルの犠牲になっていて同情する、というようなことを述べてあって、まあ、移民でたいへんだったんだろうなあ、とおもって見ていたら、わしにしてみれば、そこは譲れるわけがないという一線をこえて、自分の悪事を誇るような傲慢なことを言い出したので、不愉快なので、述べたら、おおさわぎしだした。
いつものように、こっちがヘンな人にされていくわけだけど、日本語友達たちは、、見慣れていて、いつものことなので、人間っつーのは、怒ったりしたときに本性がでるんだね、お互いに自戒しなければ、などと言い合いながら、案外、静かにしている。
あれはツイッタの世界でのことなので、フォロワーというバロメーターがあって、テレビの視聴率みたいなものなんだろうけど、日本の人がどういうふうに考えているかをみるのには便利なところもある。
300くらい減るかなあーとおもっていたら、案外すくなくて、100人くらい減った。
よく考えて見ると、そのうち60人くらいは自分でブロックしているので、40人くらいかな。
その過程で、決まり文句というか、ニセガイジンとか信者とか、これはちょっとおもしろいな、とおもったのは「ツイッタで自分の帝国をつくろうとしているのでしょう」というのがあって、これは独創的だな、とおもって吹きだしてしまったのだけど、信者信者といわれているのは自分のことでなくて、友達たちのことなので、オダキンをだしに説明しておくことにした。(いま見ると、言葉が悪いね。お下品である)
あのときは、さ。
ぼくはもう完全に頭にきていたんだよ。
見てればすぐ判るが、わしが突然猛烈に怒り出すのは、期待していた人間が、志操の低さを露呈したと感じるときです。
どうも考えてやっているわけではないので、こういう癖はとまらない。
実生活では、もうあんまりやらないけど、顔色ひとつ変えずに、ボッカアアアーンとぶん殴ってしまったりするので、むかしはシロクマという渾名がついていた。
シロクマは、怒っていても判らないので、サーカスの調教師の死亡率が最も高いのね。
ツイッタは不自由で、ぶんなぐっちまうわけにはいかないので、外国語で怒る、という曲芸みたいなことをしなくてはならなくて、たいへん難儀である。
むかし、はてなトロルがニセガイジンと騒いで、そのときはめんどくさくなってきたので母語でののしりたおしたら、英語人がおもしろがってぞろぞろ集まってきてしまって閉口したことがあったが、日本語だと、うまく怒れないね。
なんだか芝居がかってしまって、歌舞伎役者かよ、な日本語になってしまうようです。
棚上げにしたでしょう?
尖閣方式だ、なんちて、いくら派手に喧嘩して、絶交していても、オダキンはオダキンなので、人間性を疑うわけにはいかなかった。
ところが、そのあいだに、オダキンが喧嘩のもとになった二次元絵文化について、ずっと考えているようなのがわかりました。
英語人たちはバカだから、どれもこれも未成年ポルノのようにいうが、そうじゃないんだ、とオダキンやタメさん@Tamejirouたちは考えているわけだけど、外国人という他人の目を考えて自粛、というのではなくて、なるほど野放図にいくと、こういう誤解が生まれるわけだな、と考えているのがわかった。
ま、案外、なかば無意識な作業なのかもしれないけど、見ていて、言葉で説明されるよりも感じていることがわかりやすかった。
このブログや、ツイッタ、実を言ってしまえば、皆には内緒にしている英語の文章にも
「聴き取りにくい声を聴く」
「言っていることを聞かずに、やっていることを見る」
という言葉は何度も出てくる。
「おばあさんの知恵袋」というか、もともとは投資家というショーバイから来た生活の知恵です。
例えば、細部にあたることでいうと、きみは、なんでもないことのように大阪の職場と東京の家庭とを往復しているが、ふたつの都市は、500kmだっけ?離れていて、実行するのはたいへんなことです。
ぼくはね、むかし、300km離れている町に週一回、3日の滞在で通ったことがあるが、2ヶ月でストレス負けした。
だから、ほんの少しだけ、判るような気がするの。
それと、息子さんと娘さんに、ユークリッド幾何やなんかを教えていたでしょう?
ユークリッド幾何は、まったく何の役にも立たなくなった体系で、ぼくは大好きで偏愛していたので子供のときに、ひとりで5つの公理から、最後まで、ひとりで証明していって遊んでいたけれど、スコラ学みたいなもので、娘さんたちが嫌がるのを見るたびにハラハラしてしまったよ。
でも、大阪から帰ってきて、くたびれてるとーちゃんは、辛抱強く教えていました。
見ていて、やっぱりオダキンは、オダキンなのだ、と嬉しかった。
ご承知のとおり、もっか、英語世界はボロボロで、伝えられてるのと違って、2007年を挟んだバブル景気が長すぎて、ぐらぐらしているが、生活実感上は、人心が驕慢になって銀行や不動産屋のバカなやつが威張りだしたことのほうが鬱陶しい。
日本だと、こういう状態は、えーと、80年代半ば、かな?
40年近いむかしだから、いま60歳くらいの人は、若いときにマジメな人間であったならば、あまりのことにゲンナリした記憶があるのではなかろうか。
この辺りでいうと、なにしろオーストラリアで26年目、ニュージーランドで17年目のバブル景気なので、40代くらいの人間でもバブル景気をふつうの経済だと勘違いしているので、異常な経済しか知らなくて、もっと早くに金融バブルで頭がおかしくなっていたアメリカ人やイギリス人たちとおなじことで、常識に狂いが生じてきていて、例の、復活した、おおっぴらな人種差別も、その狂気の一環といえなくもない。
時間があれば、趣味なので、日本語は必ずやるのだけど、別にたいへんなわけでなくても、だんだん英語社会でのお呼びが増えて、なかには断れないものもあって、めんどくさい。
どんなに遠ざけても、先を歩いている人をみていると、40代になると、公用という名の雑用地獄で、さぼるならいまのうちだな、と考えています。
なんだか、いつにましてヘンテコな手紙になっちゃったけど、また書きます。
いろいろ言ってるけど、まさか自分が二次元絵愛好家の日本のおっさんを大親友と考えるようになるとはおもわなかった。
あらためて、人間の一生は不思議なものであるな、とおもってる。
よくめちゃ食い写真を載せているが、もう歳なんだから、暴飲暴食をつつしんで、自愛を心がけてください。
ぼくはオダキンがよくツイッタに載せている食べたものの写真を見るのが好きなんだけど、傍から見てると、まほ亭がだす食べ物は、とても健康に配慮されているように見えますね。
コンビニは、忙しいからしょうがないのだろうけど、やっぱりダメだよ。
添加物表にあるのは、あれは法定リストにひっかかってしまうものを、やむをえず載せているわけだけど、ああいうものを使うコンジョがある食品会社は、法定リストに載らない、もっとものすごいものも使っていると想像するのが普通であるとおもう。
でわ