カルチャー
オスカー2部門受賞! でも『スリー・ビルボード』の評価が割れる理由|現場目線のハリウッド
Text by Kohei Obara & Kanehira Mitani
小原康平 @kohei_obara 映像企画プロデューサー。慶應義塾大学法学部政治学科卒、東映アニメーションの企画職を経て渡米。全米映画協会付属大学院でMFA取得。米ディズニー・デジタル部門で作品開発を担当。ロサンゼルス在住。
三谷匠衡 @mitanikanehira 映画プロデューサーの卵。東京大学文学部卒業後、USC大学院映画学部にてMFA取得。『沈黙-サイレンス-』等アメリカ映画の製作クルーを経て、日本原作のハリウッド映画化に取り組む。
クーリエ・ジャポンでしか読めないディープな映画激論連載、もちろんアカデミー賞受賞作についてもガッツリ話し込みます。
まずは日本公開された傑作『スリー・ビルボード』をどう観たらいいのか? 極力ネタバレを抑え気味でお届けします!
3枚の看板から展開する、トリッキーな映画?
三谷 賞レースもクライマックス。アカデミー賞もついに発表されたわけだけど、日本にいるとノミネート作品自体、なかなか事前には観られないんだよね。ロスにいる康平は、主だった候補作品は観られたかい?
小原 それが……。娘が生まれたこともあって、最近はどうしても映画館から足が遠のいてしまってます。残念。
日本での洋画の公開スケジュールは、アメリカのそれとシンクロするようにはなったよね。でも、賞レースにひっかかるような「クオリティ・フィルム」の公開日はどうしてもずれ込んでしまう。
日本での公開日が遅いことは、必ずしも日本の配給元たちのせいじゃない。
ハリウッド映画のなかでも質の高いドラマ作品は、アカデミー賞をはじめとした映画賞へのインパクトを意識して、年末公開に集中する傾向が定着してしまっているじゃない? 日本をはじめとした国際市場で、それらの良質な映画が充分に数字を稼げるよう等間隔に公開しようと努めれば、本国よりもスケジュールがずれてしまうのは当然のことだから。
ネットフリックスなどの配信サービスの登場で、「映画賞狙い」なマーケティングの効果自体が疑問視されはじめてもいるし、ハリウッド映画のビジネスは日に日に変化している……。
と、話がずれてしまった。今回は、アカデミー賞の発表前に日本公開された数少ないノミネート作品のひとつを取り上げるわけだ。
三谷 そう、というわけで、アカデミー賞気分を少しでも味わうためにも、6部門にノミネートされた『スリー・ビルボード』、観てきましたよ。
小原 どうだった?
三谷 ぼくは総じて好きな映画だったなぁ。「ムラ社会」ってなにも日本に限った話ではないこと、そこでのいじめの陰湿さ、そのなかにも最低限の倫理観があること、人の救い、などなど、アカデミー賞作品にふさわしい内容とクオリティの映画だった。
小原 ぼくも好きだった。でも、ちょっとトリッキーな映画だとも思う。物語のセッティングと、展開そのものが誤解を生みやすいというか。偏りのある映画だと思うんだよね。実際、そういった批判の目が向けられている作品でもあるし。
最近は、各映画賞で批評家に絶賛されたあと、反動が起きる映画って増えてきた気がする。思い返せば、ぼくらが去年の今ごろ取り上げた『ラ・ラ・ランド』にも通じるところがある。
三谷 そのトリッキーさって、アメリカの地方ごとの違いに必ずしも精通していない日本の観客では掬(すく)いきれないところかもしれない。
アメリカの田舎ってほんとうにああいうものなの? という描かれ方とか。ぼく自身、掬いとれている気がしない(笑)。
どこまでがステレオタイプで、どこまでがリアリティあるかという境目は、自分自身がミズーリ州とか両海岸じゃないところにいたことないから、メディアのイメージが頭のなかで先行しちゃってる感覚がある。
小原 土地柄の話というより、焦点になっているのは、「社会的・政治的な文脈で『スリー・ビルボード』がどんな立ち位置に立ちたいのか? あるいは無意識に立っているのか?」ということなんだと思う。
「メディアの映し出すイメージが本当か嘘か」という尺度よりも、「アメリカでの政治と文化のあり方を物差しにして、この映画をどう観るか」ということが問題になっているんだよね。
その論争の中心に位置しているのが、サム・ロックウェル演じるディクソン巡査のキャラクターと、そのアーク(登場人物の起承転結のこと)のあり方なわけだ。
三谷 完全に「ホワイトトラッシュ」な描かれ方をしていたサム・ロックウェル。
小原 あくどいアホキャラだったよね。この話については、物語を追いながらおいおい話していこうか。まずはどんな話で、何が光る映画だったのか、解きほぐしていこう。
不思議な蛇足感、際立つ主演陣
小原 冒頭から、シンプルで直線的な展開だったよね。
人気のない道を車が走ってきて、止まる。シワの深さが印象的なフランシス・マクドーマンドの鋭い目が、もう使われなくなったボロボロな看板を順々に見上げて、考える。と思ったら、次のシーンでは看板の持ち主に話をしに行っていて。すごくスムーズ。
三谷 看板3枚から始まる物語。いざ映像になるとなるほど納得するけれど、脚本としてはよくあれだけの設定であそこまで展開させられるよね。その点においては感激した。
小原 その「展開」という面では、極端に刺激優先で進んでいくね。ウディ・ハレルソン演じる警察署長ウィロビーの身に起きることとか、その下の警察官たちの言動だとか。
マクドーマンドが主人公として取る行動の多くは、強い女性像や母親像を痛快に描いているけど、一方で現実にやってしまったらどうなるのか……と思えるものも。
三谷 そういう意味では、唐突に思える展開もいくつかあったなぁ。
小原 そうなんだよね。プレミス(物語の下地と、発端のこと)が提示する、現実との親近感や社会性の濃さとは裏腹に、物語の展開そのものが突拍子もない。それが、この映画の評価を二分させる。
中盤、ミルドレッド(マクドーマンド)と、その息子のロビー(ルーカス・ヘッジズ)が通う高校の同級生たちとのシーンがあったでしょう。
ミルドレッドは、息子に冷たくあたる生意気な生徒たちに、問答無用で暴力の仕返しをする。ミルドレッドを応援する観客としては小気味良いシーンではあるけれど、あんなことをしたら、あっという間にPTAの吊し上げに遭って、彼女が避けたがっている警察の世話になるのが現実。
ウィロビーの奥さんであるアン(アビー・コーニッシュ)が、俳優本人のオーストラリア訛りを貫いているのも、移民の国アメリカとしては絶対ないとは言えない設定だけど……。
あれだけ閉ざされた田舎者の町であることを前提にした物語なのに、あえて国際色を盛り込んでいる点にはいっさい説明がないし、なによりプロット上の意味合いがまるでない。そういう「不思議な蛇足感」が多い。この映画。
それもこれも、ほとんどのキャストがマーティン・マクドナー監督の作品の常連だから、という背景が見え隠れするわけで。
三谷 ウィロビーの奥さんについての「蛇足感」は、日本にいるとなかなか実感が湧かないところかもしれないね。
そういう意味では、店を突然訪問して脅す男の人も、意味ありげなようでいてそうでもないという、不思議な違和感を感じさせるところはあったかも。
監督とキャストありきで進んでいった企画だったのかな。だとすると、その違和感の説明はきれいにつくね。