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IQが20違うと話が通じない?

作者:鈴木美脳
■序論

 IQが20違うと話が通じない、との俗説がある。
 つまり、知性の程度に差があると、互いを理解しがたい、との議論がある。
 そこにおいて興味深い論点は、愚かな人が賢い人を当然に理解しがたいのと同様に、賢い人が愚かな人を理解することも難しいのか、という点だろう。
 なぜなら、賢い人が知っていることを愚かな人が知らないとしても、愚かな人が知っていることは賢い人は知っているとも考えられるからである。
 これらの点について、いくつか議論を展開してみたい。

 愚かな人ほど、証明を記憶したり参照したりする。
 賢い人ほど、必要に応じて証明する。
 愚かな人ほど、言語による断片的な記憶によって、世界を見る。
 賢い人ほど、観念による体系的な推論によって、世界を見る。
 愚かな人ほど、他者に考えてもらう。
 賢い人ほど、自ら考える。
 愚かな人ほど、与えられた価値観で人生を生きる。
 賢い人ほど、自分自身の価値観で人生を生きる。
 愚かな人ほど、権威主義に立つ。
 賢い人ほど、実力主義に立つ。

■短所の指摘について

 人々の多くは、相手の短所を指摘しない。
 人々の多くは、相手に楽観させるよりも悲観させる材料を指摘することを、ためらう。
 それらは時として、相手の心に苦しみを与えないためである。
 しかしほとんどの場合には、下手に反感をかって自分が損をすることを避けるためである。
 しばしば、相手の短所を指摘してやることが、本当の優しさである。
 しばしば、相手の見通しの甘さを指摘してやることが、本当の優しさである。
 しかしそのような行動は多く、深い反感と残酷な攻撃によって報いられる。
 すなわち、他者に手を差し伸べてはならないということが、重要な処世術である。
 相手を助けることは、相手の理解に沿ってのみ、可能なのだと言える。
 相手の理解を正そうとすることは、不毛である。
 精神の鎧に触れようとした者は、その棘によって血を流すことになる。
 人間は各々の自己欺瞞の鎧にこもって生きる生き物なのであり、自己欺瞞を互いに侵害しない形で社会を組み立ててきたのだ。

 しかし常に、当然に正当とされる処世術の中に、不合理と邪悪の核心は隠されている。
 処世術によって礼儀は堕落し、内面の礼儀は虚ろに、外面の礼儀が体系化される。
 お世辞、お為ごかし、綺麗事、当たり障りのない議論で、世間は溢れる。
 本当に不都合な事実は、いつの時代も、言論から省かれる。
 上っ面のコミュニケーションがはびこる。
 上っ面の関係は、常に裏切りの可能性を含んでいるから、人々の間の信頼関係は低下する。
 人々が利己的になり、幸福の社会的な生産性が損なわれる。

 誰もが常に完全ではあれない。
 絶対に失敗をしない人は存在せず、失敗は必ず、確率的には起こる。
 ゆえに、互いに補完することは、エラーを予防するために大切である。
 しかし、無闇に手助けをすれば、得をすることは少なく、損をすることが多い。
 他人であるのに、服装の乱れを指摘してくれる人は、心優しい。
 善良な人は、失敗を指摘し、しかし知った弱味を他言しない。
 多くの人が、失敗を指摘せずして、しかし他言して嘲る。

 出世術の原則は、昇格される人と共に昇格されるようにして、降格される人と共には降格されないようにすることだ。
 すなわち、勝利する派閥に帰属して、敗北する派閥に帰属しないことだ。
 すなわち、長いものには巻かれる、日和見主義だ。
 強い者との縁を結び、弱い者とは縁を切ることが合理的である。
 ゆえに、他者の短所を指摘してやる義理はない。
 しかし、器の小さい人ほど、頻繁に手のひらを返す。器の大きい人ほど、稀に手のひらを返す。
 器の大きい人ほど、派閥を超越している。
 ゆえに、小さな人の言う愛情は、大きな人から見れば、愛情と呼ぶに値しない。

 愚かな人にとっては、相手の短所を指摘しないことは、当然の処世術である。
 賢い人にとっては、その処世術は、社会的な全体最適に対する部分最適からの妥協である。
 愚かな人にとっては、人々のあり方は、普遍的なものである。
 賢い人にとっては、人々のあり方は、時代の条件によって与えられた局所的なものである。
 愚かな人は、短所を指摘されることを、陰で笑えばよいものを公然と行う侮辱である、と受け止めやすい。
 賢い人は、短所を指摘されることを、リスクを踏まえた社会への投資である、と受け止めやすい。
 ゆえに、愚かな人は、自らへの批判を平然と拒絶する。
 一方で、賢い人は、自らへの批判に、常に一抹の真理を考える。

■知識の披露について

 愚かな人ほど、努力すれば賢くなれると思っている。
 賢い人ほど、努力によって賢くなることはできないと思っている。
 愚かな人ほど、知識が知性だと思う。
 賢い人ほど、知性は知識ではないと思う。
 愚かな人ほど、ものを知っているほど偉いと思う。
 賢い人ほど、ものを知っていることによって貴賎を見ない。
 愚かな人は、知識を誇り、知識で見栄を張る。無知を恥じる。
 賢い人は、知識を誇らず、知識で見栄を張らない。無知を恥じない。
 愚かな人ほど、知識の量で他者の知性を計る。
 賢い人ほど、推論の力で他者の知性を計る。

■学歴への愛情について

 愚かな人ほど、他者を自ら眺めることによっては、その人の知性の程度を知ることができない。
 賢い人ほど、他者を自ら眺めることによって、その人の知性の程度を知ることができる。
 愚かな人ほど、ブランドと世間体とを信仰する。
 賢い人ほど、自分の舌で料理を味わう。
 愚かな人にとってほど、名門の学歴は、理解しえない天上の世界を意味する。
 賢い人ほど、名門の学歴がいかに実力を示唆しないか知っている。
 愚かな人ほど、高度な教育によって天才が生産されると思っている。
 賢い人ほど、天才は幼少にしてすでに天才であると思っている。
 愚かな人ほど、学歴で知性を計る。
 賢い人ほど、学歴で知性を計らない。
 愚かな人ほど、学歴を愛する。
 賢い人ほど、学歴を愛さない。
 愚かな人にとってほど、既存の体制の価値観は絶対的なものである。
 賢い人ほど、既存の体制の価値観を顧慮しない。

■嘘について

 現実逃避は、当面にこそ利益があれども、長期的には不合理である。
 虚言は、社会の部分においてこそ利益があれども、全体最適性を抑制する。
 愚かな人ほど、自らの日常における処世術に、普遍的な価値を見る。
 賢い人ほど、妥協を強いられるにしろ、全体最適と部分最適の矛盾を知っている。
 ゆえに、愚かな人は、嘘が蔑まれるべきことを知らない。
 一方で、賢い人は、嘘が蔑まれるべきことを知っている。
 愚かな人にとって、嘘をついてでも利益を求めることは、自然なことであって恥じるに値しない。
 賢い人にとって、嘘をついてでも利益を求めることは、紳士協定に違反する恥辱である。
 愚かな人々にとっては、賢い人々が嘘を憎むことがわかりにくい。
 賢い人々にとっては、愚かな人が嘘を許されると思っていることがわかりにくい。

■嫌味について

 嘘は、言葉に裏の実態を持たせることだが、賢い人々はこれを好まない。
 嫌味は、言葉に二つの意味を持たせることだが、賢い人々はこれを好まない。
 批判する際に、一見当たり障りなく行うことは、世俗の利益のために有益な処世術である。
 しかしそこにはやはり、部分最適と全体最適の相克が絡む。
 京都人やイギリス人を見れば、社会の高度化が嫌味の高度化をもたらすことは言えるだろう。
 しかしやはり、嫌味そのものは、理想的な愛情に反する下品なものとして、蔑まれるべきものである。
 嫌味や心にないお世辞が世間に溢れれば、人々は互いに疑心暗鬼になって、幸福の社会的な生産性が損なわれるからである。
 賢い人ほど、言葉に二重の意味を持たせることを避ける。
 賢い人ほど、言葉を、文字通りの意味で使う。
 賢い人ほど、嫌味を蔑む。
 愚かな人ほど、嫌味が憎まれることに鈍感である。

■ごまかしについて

 人々は、自らの利益をより多くするために、社会生活において様々なごまかしを行う。
 例えば、女性が化粧をすることも、オシャレを楽しむ云々という自認はどうあれ、自らをより若くより健康に見せるためのごまかしである。
 野良猫が喧嘩に際して毛を逆立てるように、ごまかしは自然界においてすら普遍的である。
 嘘はごまかしの一種である。
 平均的な人々にとってごまかしは、文化的に体系化された日常の一部ですらあって、意識もされない。
 実際に、普通の人々の多くのごまかしは、普通の人々からは見抜かれずに奏功している。
 しかしそれらごまかしは、より賢い人々からは大いに見抜かれている。
 見抜いたごまかしを一々指摘しないことが、文化的なごまかしを生存させているのだとも言える。

 愚かな人が自分の利益に少し有利なように少しだけ嘘をついた時、それは賢い人から正確に見抜かれている。
 愚かな人が自分にとって都合よく少しだけ自己欺瞞した時、その姑息な認知は正確に見抜かれている。
 愚かな人が自分の能力を身の丈より少し大きく見せようとした時、それは正確に見抜かれている。
 しかし普通、見抜いたとまで指摘してはくれない。
 稚拙なごまかしは、それが見抜かれないと直感するほどにその人自身が愚かであることを、かえって強く示唆する。
 そう認識した人は普通、そう認識したとは言ってくれない。

 ゆえに、ごまかしは、それによって利益の拡大に成功したとしても、もしどこかから賢い人に見られていれば、社会的には極めて無様だ。
 そして、賢い人々は知性を才能だと思っているから、経歴に傷のある人に名誉挽回を許さない。
 賢い人に見られていないかどうか合理的に判断してからごまかしを行うことは、人目のないことを確認してから泥棒に入るようなものだ。
 それを徹底すれば計算量は無限大であるし、先端技術は常に想像を超えるから、証拠を残さずに犯罪が行えると確証することは、常に不可能である。
 ゆえに、ごまかしを行わないことが、安易に無難な戦略である。

 もちろんそれは、世俗的な生存のためには有利な戦略ではない。
 しかし、賢い人の立場から多数の愚かな人を眺めることは、自分の背後により賢い人々がいることを考えさせて、そのような戦略への強い誘惑を生じる。
 特に、世俗的な価値の追求に満足できなくなれば、そうである。
 そうして知性はしばしば、真理と正義への信仰へと至る。
 ゆえに、人にも自分にも決してごまかさない人というのは、ネジが飛んでいるか、あるいは何かを知っている人だろう。

■独創性について

 推論の方法は一通りだと思うことが妥当である。
 複雑な問題を解いても、回答を持ち寄れば推論が等しいことはしばしばだ。
 愚かな人々が、自らの非常な発明であると感じることは、賢い人々から見れば、全く陳腐である。
 愚かな人々の試行錯誤による前進は、賢い人々から見れば、典型的なミスによる停滞である。
 愚かな人々が、自らの思考だと思うことのほとんどは、賢い人々から見れば、流通する言論の受け売りである。
 愚かな人々にとって自明でないことが、賢い人々から見れば自明である。
 愚かな人々にとって複雑な意識を持ち興味深い自分自身は、賢い人々から見れば単純で退屈である。
 愚かな人々が人生を通して推論する難問は、賢い人々が幼少に数秒で解く典型問題である。
 愚かな人々の議論において興味を集める哲学的論点は、賢い人々においては自明に解けていて興味を誘わない。
 愚かな人々が難問に対して行う思考は、賢い人々から見ればしばしば、決して解決しないループに嵌っている。
 愚かな人々が生産的だと自認する議論はしばしば、賢い人々にとっては生産性がない。
 愚かな人々が日常に行う対話は、賢い人々には平凡であって退屈である。
 平凡な言葉に平凡な言葉を返すことは、不毛であるのみならず、愚かな脳を愚かなロジックに閉じ込める罪であるとすら考えられる。
 ゆえに、賢い人は、文脈を外れて見える奇異なことを言うことがある。
 愚かな人々が真面目な議論を味わっているさなかに、賢い人は、無意味に見える冗談を挟む。
 愚かな人々から見ればそれは、真面目な思考をあざ笑う侮辱であるとも感じられる。
 ゆえに、議論を生産的にしようとして口を挟むことが、反感と攻撃によって報われることもある。
 そして、いかに賢い人についても、ずっと賢い人がいる。
 ゆえに、超越的な視点から見れば、独創性なるものはありえない。

■わかりにくさのわかりにくさ

 愚かな人と賢い人とは、ほとんど別の生き物である。
 食事において好む味が、生物学的に全く異なるようなものであって、感覚的な相互理解がありえない。
 すなわち、何を喜びとして何を苦しみとするかすらが、隔たって異なることがありえるのであって、特定の価値観を前提として建設された議論が噛み合わないことは、必然的だろう。
 賢い人にとっては、愚かな人が、何をなぜわからないのか、全くわかりにくい。
 愚かな人々が無限に愚かであるとすれば簡単だが、現実はそうではないことも確かである。
 自分と遠く離れた人が、どの程度賢くてどの程度愚かなのかは、わかりにくい。
 だから、賢い人は、言葉を選ぶ。自分の言葉によってではなく、相手の言葉によって語る。
 相手の言葉によって、論理的に話すことによって、愚かな人でも理解でき、さほど愚かでなくても退屈を感じるが理解できるようにする。
 しかし実際には、愚かな人々は、想像を絶して、論理的な思考力を持っていない。
 ゆえに、論理的な説明を与えてやろうとすることは、多く、感情的な暴力によって報われる。
 賢い人々は、生涯を通じて、愚かな人々の愚かさに驚きつづける。
 過度の期待を繰り返す。

■テリトリーの侵害について

 強い戦士と強い戦士は、すれ違って互いを察する。
 喧嘩を売ってはいけない相手に、喧嘩を売らない。
 互いのテリトリーを侵さない。

 弱い戦士ほど、相手の力を悟るところが少なく、身の丈を知らずに戦いを挑む。
 相手が寛容によって譲歩していることを悟らず、相手のテリトリーを荒らしていく。
 愚かな人は、背中で手本を示されるまで、理解しない。
 もっと愚かな人は、一言指摘されなければ、理解しない。
 もっと愚かな人は、論理的に説明されて文脈を示されるのでなければ、理解しない。
 もっと愚かな人は、怒鳴られて怒りの感情を見るのでなければ、理解しない。
 もっと愚かな人は、暴力を振るわれて痛みを感じるのでなければ、理解しない。
 もっと愚かな人は、殺されて死という結果を見るのでなければ、理解しない。

 しかし、自らに隔たって強い者について、その力を察することは難しい。
 ゆえに、卓越して強力な戦士は、すれ違う老婆までもを僅かに恐れる。
 その意味で、才能は謙虚さをもたらす。

■自己宣伝について

 賢い人は、賢い人を見て賢い人だと悟る。
 賢い人は、愚かな人がわからないことがわかりにくい。
 賢い人にとって、自己宣伝は不毛に思える。
 自己宣伝をしなければ自分を評価できない者など、遠ざけたほうが合理的に思える。
 しかし実際には、自己宣伝をするのでなければ、世俗で妥当な評価を得ることは難しい。

 歴史的な発見などによって名前を残す人々も、競争相手を姑息に失脚させることは普通である。
 地位を得る過程で、目上に媚びることは普通である。
 ごまかすところのない人々、へつらうところのない人々が、現代を生きることは難しい。
 ゆえに才能は、隠棲へと誘う。
 あるいはさらに、厭世をもたらす。

■専門について

 いかなる専門家も、自身の畑について一流なのであって、その外に出れば凡人以下である。
 なぜなら、凡人が趣味や芸能について考えながら眠る日に、彼や彼女は専門について考えながら眠っているからである。
 優秀な人々はたいてい、偏って好む趣味に夢中で熱中し没頭することによって、卓越するにまで至ったのであって、膨大な機会費用が投資されている。
 彼ら彼女らは、専門でないからわからない、と言って、一流の専門家であることを誇りすらする。
 専門領域への興味の深さは、その外への興味の薄さだ。
 専門家は、常識的な議論に興味を持たない。

 賢い人々が賢い人々について専門家であるなら、愚かな人々は愚かな人々について専門家である。
 賢い人々にとって無視すべく見える現代的な処世術の体系は、愚かな人々が日夜研究するところである。
 よって、言わば善良な意味で賢い人々が、常識的な処世術にひどく疎いことは、不思議であるよりは自然だろう。

■結論

 愚かな人は愚かにしか生きられず、賢い人は賢くしか生きられない。
 そして、それぞれが認知する世界は、隔たって異なる。
 言語以前のレベルで、普段の思考に用いている概念が異なるのである。
 ゆえに、内面的な文脈を共有する量が、同じ知性の人と対話する場合より少ない。
 極端に言えば、利己的な動機を前提する生物と利他的な動機を前提する生物が出会ったならば、単に「パン」と言ったことの意味が、「パンをよこせ」という意味であったり、逆に、「パンを受け取れ」という意味であったりする。
 ゆえに、誤解は繰り返されて、コミュニケーションの非効率によって精神的なフラストレーションが生じる。
 つまり、対話の成立が困難である。

 だから、「IQが20違うと話が通じない」という意味のことは、当然にありうるだろう。

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