対話の外部部屋のⅠが50を超えますので、次のページを作成しました。
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ブログ&コメント義…元記事です。この記事のコメントから始まりました。
対話の外部部屋…外部コメント用
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『日韓の歴史』
恐ろしい本を読んでしまった。
「戦前の日本の朝鮮への統治は正しかった…」。韓国人が聞いたら「韓日戦争だ!!」と叫んでしまうような、そんな突拍子もない内容です。
しかし読んでみると、ビックリする程の整然としたアジアの歴史から導き出された上述の結論。日本の維新の成功の本質、アジアでの資本主義の日本以外の失敗。それらを論理的に綴り、結局の処、南北朝鮮がまともな国として発展できなかった原因は、戦前日本からの文明受け入れに失敗したから、という、そんな話。
この本を著した人は、日本語を全く読むことも話す事も出来ない韓国人のジャーナリスト…。
…これをどう見るか。非常に示唆に富み過ぎる書籍でした。
創価学会の様々な想いを綴っています。
気を付けていることは、「現実の活動」を理論付けて、そこから再度現実に応用出来る話を書こうと努めていることです。普通はアンチ系のような「理論の為の理論」がほとんどです。まあ、そういうのも面白いにしても、「現実無視」のお話は個人的な趣味には合いません。で、かなり泥臭い話も出てきますけど、どこまで行っても「現実」を中心にした話を書こうと努めています。
これを読んで、若し、創価学会に対する偏見が少しでも薄まることが出来れば、嬉しい限りです。
monlingen管理人さんが「対話の外野部屋2」を作られる前から「外野部屋」のほうで
コメントを書き込んでいたようで、葛西さんへのコメントを書き込ませていただいたことをこちらにも記しておきます。
他者の信心を否定できるほどの信仰生活がmonlingen管理人さんにあるのか?
という趣旨の葛西さんの問いに対し、
学会活動を羅列したうえで、中傷めいた愚癡を公然と書いて相手の様子をみているのでしょうかね。
葛西さんはなにもmonlingen管理人さんが活動をしていないなどという腹積もりなど
ないでしょうし、アンチさんに対して「信心のありかた」を説くという行為を責める
つもりもないと思います。
monlingen管理人さんは、自己を正当化するために
>>(御本尊)を求める自分自身の「生命」の根源の場所には、
>>「信仰体験」 が隠されているのです。
>>貴方はこの事実を完全に見落としています。
と正論を述べることができるのに、なぜ批判的な学会員に対しても
「信仰体験」が隠されているとは感じられないのかと言いたいのでは。
前ページで
あべひ様の慧眼素晴らしいですね
について聞かれていたので一言。
あべひ様 >拙にはmonlingenさんと現役法華講員とのやりとりについて“破折が不十分ではないか?”とか“法華講員に言われっぱなしではないか”いったような葛西さん抱かれた御不満が根底にあるのではないかと感じました。>
これ法華講員への破折に不満があるのは学会寄りですよね。それに対し葛西様の返答が
>①アンチから馬鹿にされる
「感得、感得」と言っていますが、
しっかり勉強をし自らの考えを言語化する努力をした上で、
「それでも理よりも体験が大事だ」と言うならよいですが、
管理人さんはそもそも論理的に話そうとされず、すぐに「感得」を持ち出します。
こんな主張をすれば、
「学会員は馬鹿だ」といわれるのは当たり前。
私も学会員ですが、管理人さんのロジックは意味不明です。>
とあったので、やはりあべひ様の言う通り葛西様は学会寄りというより学会員だったのだ、あべひ様の慧眼素晴らしいと言った次第です。
このブログの感想というより管理人様への感想は前回の何となくの近況に家庭訪問行った先のお宅の子供たちにエサまいて手なずけるってありましたが酷いなと。いやまぁ現実にはこんなのばかりかもなと。こんなのでも暖かく包括してもらえて向上できるんだから有り難い組織だなと思いました。以上
すみません、失礼過ぎるので訂正します。
>いやまぁ現実にはこんなのばかりかもなと。
>いやまぁ現実にはこんな人もいるよなと。
匿名さんへ
>法華講員への破折に不満があるのは学会寄りですよね
ご指摘の通りです。
単なるアンチなら、いちいちmonlingenさん本人の言質を細かくとりにこない
でしょう。
>いやまぁ現実にはこんな人もいるよなと。
子どもさんになにかを与える行為は同じでも「心根」がちがえば金とウンコですね。
それと同じで、破折という行為は同じでも「心根」次第で金にもウンコにもなっています。
あべひさん
ありがとうございます。
「宗門を独善的に攻撃する人間は、
その矛先を容易に同志に向ける」とは、
非常に考えさせられました。
私も血気盛んだったころ、法論とやらをやりましたが、
当時が一番攻撃的な時期だったように思います。
また、管理人さまの「ミカツ」批判や、
コメントをする会員さんへの異常な攻撃も、
アンチへの攻撃と地続きのようです。
議論はやや漂流気味で、
「感得」というテーマから逸れてしまいましたが、
引き続き管理人様と対話させていただければと考えます。
また、「感得」については、
うるとらまん氏の見解もお伺いしたいところです。
とはいえ氏もまた、「感得」や「サンプル数の少ない経験的命題」を基に主張されることの多い方のようなので、
議論は難しいと思いますが。
池田先生は常々「子供に対して一人の人格として尊重すること」と言われていました。
不軽菩薩の礼拝行じゃないけど家庭訪問に行かれるのならば、せめてそれくらいは頭に入れて欲しいですね。(人妻の家で話すのは危険な香りがするとかも書いてましたがどう思おうと勝手ですけどちょっと情けないなと)
他人の子供にエサをまくと言って憚らない管理人様は他人の仏界を冒涜して平気なのでは?
一体管理人様は何を信じているのか?感得って何だ?己心の妙法ではないのか?自分の仏性は信じても他人の仏性は信じられないのか?他人の仏性が信じられないのは何故か?等々の疑問が生じますね。
先程、葛西氏との対話部屋での管理人のコメントを読みましたが、
この人、本気でこんな馬鹿なこと書いてるんでしょうか‥
もし本気だとしたら、
本当に馬鹿、というか、彼が言うところの生来持っているはずの思考力を持っていない人ですね。
他のスレで、管理人の言動で学会を嫌いになる人が出たらという質問がありましたが、
この管理人の馬鹿さ加減はとても折伏をしてる友人には見せられない恥部ですね。
管理人はコメント主が活動してるかを気にする方のようなので記載しておくと
私は現在台湾在住の学会員。
言語の壁から現地人への折伏はなかなかうまく行きませんが、
台湾に新しく来た駐在員の奥さんを現在折伏中で、2日前一緒に三唱しました。もちろん折伏するのだから、ここ最近は毎日5時間の題目をあげています。まぁ、仕事が遅くなるときは周一程度で3時間になりますが。
日本って大変なんですか?
私には葛西さんより、管理人さんのほうが必死でおかしく見えます。
こういう人間は、少なくとも台湾sgiではお目にか買ったことがありません。久々にブログ村を見て、こういう人のブログがアウトランキングで一位なのを見てビックリしました
あらー、とうとう言われてしまいましたねぇ。
皆さん、こういう場所では
プライベートな内容は書かないようにしましょう。
生贄にされますよ。
先日も多くの学会員さんが粛清されました。
前にも言いましたけど、
反応しないのも反応のひとつですよ。(*^-^*)
台湾から さんへ
今は地震による被害で大変なことと思います。
私の方からは何もできませんが、心は国境を越えて
どうか一日も早い復興と御健闘を
と祈りつつお題目を送らせていただきます。
葛西さんへ
>議論はやや漂流気味で、「感得」というテーマから逸れてしまいました。
台湾からの来訪とおっしゃる方が指摘されていましたが、現在、葛西さんとmonlingenさんの「感得」についての対話よりも、こちら外野部屋2のほうがブログ村ユーザーから注目されている状態ですね。
昨日はmonlingen管理人さんも本幹同時放映に参加されたそうですが、その帰宅後に
「小さな話に右往左往する」などという書き込みですから、関西の人間としてはちょっと悲しいです。
ちょうど原田会長に指導に「感得」にかかる非常に示唆に富んだ内容がありました。
折伏と個人指導は両輪だというテーマでした。
“折伏の成果は、すぐに見える形で現れるので周囲の同志から賞賛もされます。それによって慢心になり、信心が崩れていってしまった人もいました”と指摘されていましたね。
monlingen管理人さんふうにいえば成果という「感得」があったのに信心が崩れる場合があると警告されているわけです。
monlingenさんは
『折伏が出来る人が、どうしてアンチなどと言う組織体に所属し続けるのか、理解不能です。そんな事実は一切存在しません。』 断言していますがそれは
彼の考える学会活動家とは単純に 唱題 と 折伏 ができているか否かで天秤に掛けられているからでしょうね。
簡単に言えば「成果重用主義者」です。ダメ幹部の典型。
仮に彼が幹部として現場でもおなじようなことをやっているなら
部員さんは可哀想です。
——-
>コメントをする会員さんへの異常な攻撃も、アンチへの攻撃と地続き・・
monlingen管理人の
「貴方は,今,現在は何をしています?お題目は?折伏は?
折伏、題目を現時点で苦労しながらもやり続けている人間は、
決してアンチ系の思想は持ちません。」 と主張してます。
では アンチ“系の思想” とはなにかというと
「アンチとは何?」と言う,どうでもいい話を「対話」の主要論点に持って来る
こと自体が、チンケすぎます。」
と反論する程度ですから、自分でも説明できない概念なのでしょう。
monlingen管理人さんは「創価学会に対するアンチテーゼ」と
「自分の主張に対するアンチテーゼ」が等価値、もしくは同じだと考えているらしいので、自分に対するアンチテーゼは即、創価学会全体への批判とみなしているのです。
ですが彼自身、論理展開がやや強引すぎることを自覚しているので「信心の話」とやらにもっていきたいのではないでしょうか。
ここでいう「信心の話」とは 唱題の功徳について だったようですが
困った事にmonlingenさん自身が
「彼等アンチやミカツ、宗門系の個々の信心状態など、私にとっては何の興味もありません」などと否定していますから、彼の主張に反論を試みる「アンチ系」の人間は信心の話ですら門前払いで聞いて貰えそうにありませんね。
粛清って何でしょうか?
当方、本部批判したこともするつもりもありません。
普通に活動している一会員です。
さりげなく仲間扱いされても困るで念の為。
匿名さんへ
管理人さんの
「貴方がたの発するゴミのような意見など、ここには入る隙間もない」発言(2018年2月5日 9:25 AM)
のことです。本部を批判していようが批判していまいが、
自分の気に入らないコメント者をことごとくまとめて追放処分する彼の
独裁的なやり方を指して「粛清」と表現しました。
わかりました。
大変に失礼いたしました。コメントとはいえ一方的になってしまったことお詫びいたします。返信いただいてありがとうございました。
こんばんは
monligenさんとコメントのやり取りをされてる方や創価批判をしてる方々の全員がmonligenさんの文章は整合性がとれてないと言う趣旨の発言をなさってるように感じます。
どの場面で発言したかは調べるのに時間かかりますから調べません
すべてmonligengenさんの文章です。
ケース1
A 私に、ゆっくりやりましょう
と書いてます。
B 創価批判をしてる方や創価を破門した宗門を激しく厳しく攻撃してますよね
monligengenさんは唱題が好きなようで、10時間唱題をしたことがあるのかと他の学会員によく質問されてます。
ケース2
A 個々の信心の状態など興味ない
つまり創価組織を批判することが許せない趣旨の発言
B 創価を途中で辞める人に創価を批判してほしくない
内部アンチは学会員のくせに組織否定は許せない発言
文章の内容ではなく批判してる人間の人格否定発言
ケース3
私の友達からメールで聞いた話です。
創価を静かに去ると言うブログにコメントをなさったとか?
そのブログの管理人は1~2日、monligengenさんの文章を公開しましたが削除なさったようで私は見てません。
A 私の友達の話では
monligengenさんは毎日勤行唱題、会合は月1回の座談会と同中のみ、新聞推進、折伏なしで現在未活動と自己紹介
B 退会者や非活に今の創価の事はわからないはずと発言
静かに創価を去るブログのコメント者の方々から、そのブログにコメントしてる人々は元地区部長支部長、元白ゆり長地区婦人部長で
未活のおっちゃんより、私達の方が比べものにならないほど組織の事をわかってる、組織の為に時間お金、精神力、忍耐力ストレスを味わってきたとmonligengenさんを激しく攻撃されている
間違っていたらごめんなさい
間違ってますと書いて下さい
AとBは正反対で矛盾してます。
私にはその時思った事を書いてるだけのような印象を受けます。
誤解なら誤解を解いて下さらないと、訳わからない、意味不明と言われて全てがお互いに徒労に終わるように思います。
いつも楽しく拝見しております。
過去に本尊義について管理人様に
ご教授を頂きました創価アンチの輩です。
随分、管理様への
厳しいコメントが、
御座いますね、、。
そもそも麗しき創価の庭では、
自由闊達な意見があれば健全。
凡夫同士で在る事を
忘れてはいけないと。
感得でも、何でも、良いです。
創価学会に入信して
私は、
これだけ幸せに成りました!
池田先生のお陰です!と、
幸せ自慢(現証)をされたら?
良質なブログを目指していた
ブログ主様の当初の目的が
達成されないのは悲しい事です。
駄文コメント失礼致します。
単純化してお話しします。
揚げ足取り…文章の根本的な意味を理解もせずに、途中にある気になる言葉に激しく反応すること。
この意味に於いて全員とは勿論言いません、ある種の人々はどうでもいい、またこちらの意図の逆を取り込んで必死に攻撃するものの、本当の論点に対しては完全に黙秘する事って、対話に対する冒涜のような気がしますが、どうでしょう?
言い訳では無く、当ブログの一つひとつは自分の作品と考えています。それらに対しての「意見」であればともかく単なる中傷ばかりするのは,余り健康的な人間のする行為とは言えません。それに対する真正面の、賛否は問いませんが、批判をして行くべきだと考えます。そんな「意見」に対して私は頑否定したことは,一度もありません。
その意味で考えてくれる人はいると思っています。中心を探る話がしたいのです。
ここでの私の「提案」、誰一人としての回答はありません。これは不思議の現象と言えますね…。
monlingen管理人さんへ
葛西さんとの対話にも共通していることですが、貴殿が造った「抽象的な概念」
をもちいて物事を説明しようとしたり、特定の人物をささず「抽象的な三人称」を
もちいて葛西さんとの対話と無関係の提案をもちかけ回答を求めるような進め方こそ、
葛西さんとの対話に対する冒涜のような気がしますが、どうでしょう?
それともこちら(外野スレ)に書き込みのされたことのないどこかのブログの誰かに
「提案」されているのでしょうか。
拙は基本的に、特定の誰かに対する返答であることを意識してコメントを書くように
しています。
理由は、第三者が読んだ場合でも「自分のこと」を指して批評をしているのではない
と理解しやすいようにするためです。
monlingenさんは、あえて特定の誰かを明示せずに呆れてみせたり嘆いてみせたりすることで批判責任を回避したいようですが、逆効果です。
突っ込まれた時に「あなたのことではありませんよ」とか「そう感じたのならあなたのことでしょう」などと逃げれるとお考えなのかもしれませんが、そういった逃げ道を造っておくこと自体、対話に積極的ではない証拠でしょう。
“誰一人として回答がない”のは不思議でもなんでもありませんよ。
葛西さんとの対話の行く末を見守る方にとって、突然降ってわいた関係のない
「提案」ですからね。
「誰一人」の中に含まれれるであろう、monlingenさんファンの「うるとらまん氏」や「ちよ」さんからも回答がないのは不思議には感じないのでしょうか。
monlingenさんが、批判的意見を書き込む連中がいかに不誠実で不健康であるのかを印象つけるための伏線があの「提案」であったことは、ちょっと討論慣れしている方ならわかりそうなものです。
だから、あれだけ援護をしてくれる「うるとらまん」さんも「ちよ」さんも示し
合わせたようにスルーされているのだと愚考してます。
まぁmonlingen管理人さんが学会アンチではなく「アンチ系」の思考をもつ学会員
にたいする「新説」をまとめあげて記事にでもされた折には、ホトボリが覚めた頃に
しかこない彼や彼女らが提灯コメントをいれて祝いでくださることは容易に想像ができます。
ともかく、管理人さんは葛西さんとの対話で粗相がないように真面目に「作品」に
とりくむことを優先なさってください。
管理人さん
お二人が集中するためにこちらは閉鎖した方が良いと思います。
管理人さんの提案は絶対に回答する人はいません。
「提案」とやらですが、拝見しました。下記に反論してみろ、ってやつですよね?
___________________________________________
〇「謗法厳戒の日蓮正宗の不思議」…アンチや宗門系からの「反論」が一切ありません。明確な、誰にでも納得出来る「反論」を期待します。
〇「本当の師弟不二の話」…師弟の在り方を中心にアンチ側(皆さん)に立った反論、そして私の記事の間違いを正して頂けると、有難いですね。
〇「学会と宗門の信心の相違」…古い記事なんですけど、未だに宗門系(含アンチ)からの反論のない記事です。皆さんにこの記事の瑕疵を正して欲しいと思っています。
〇「【対談集について】のお話」…アンチ系は兎にも角にも先生の対話に対して難癖を付けます。どうしてなんでしょうか?これも大きな疑問点ですので、宜しくお願いします。
___________________________________________
上記に反論する人がいない理由は、
「宗門寄りの人間がコメント欄にいないから」ではないでしょうか。
(恐らく空伽羅おじさんくらいでは)
管理人さんは、コメント欄の反応が自分に不利になったのを見るにつけ、
「ここはアンチだらけだ!」と決めつけたようです。
しかし、自分に不利なコメントを書く人=アンチではありません。
またあらゆるアンチが宗門にシンパシーを覚えているわけでもありません。
さらに付け加えるならば、宗門のHPをちょこちょこっと見ただけの記事に、
わざわざ真剣に反論する法華講員も少ないと考えられます。
まぁ要するに、そもそもこのコメント欄にいる人間を宗門寄りだと断定した時点で、
的外れなのはあなただと思います。
この「自分に敵対した人間は、宗門の人間だ」「信心のある人なら、俺の主張をわかってくれる」という自信がどこから来るのか大変興味がありますね。
台湾からさんへ
無視出来ないコメントです。「正規の反論」としては、ここで、ほぼ初めて見るもののように感じます。
非常に示唆に富むものだと思いますので、以下に自分の考えを記します。
貴方の私への批判として指摘されたことは、非常に正しいと思います。これは別に茶化している言い方ではありません。そう思っているのです。
コメント最後に記した貴方の言葉、「自分に敵対した人間は、宗門の人間だ」の決め付けは、確かに私が反省すべきものです。
もう少し言葉の内容を変えねばならなかったですね。
私がどうしてこんなコメントをしていたか、若干の時間を頂いて考えて貰うと有難いと思います。以下は、今回の「外部部屋」に送られてきたコメント群の一部です。
これをどう受け取るべきでしょうか?
『管理人さんは重要な点を感得でごまかす。
この指摘は正しいと思います。質問に対して合気道の例を出したりで大事なところは言葉で語らない。ごまかす。』
『全く無価値な対話ですね、こりゃ。
閣下の勇気ある発言に、アンチではありますが拍手を御送り致します。
(実は我が家には、古美術商で買った身延の本尊が押入れの中にしまってあります。大きくて立派ですよ~)』
「誤魔化す」云々は、「理由」が全く記載されていません。これは,単なる中傷だと判断出来ます。私が何故色々な「方便・例え話」を費やしながら,言葉を換えながら説明しているのか,コメント者は一切考えていません。
「身延の御本尊が押し入れ」のフレーズは、どう考えてもアンチ創価学会だと判断せざるを得ません。こんな文章を平気でコメントしてくる、そのいい加減さに腹が立つわけです。
私は真剣な批判であれば真剣に返しています。でも、上記のコメントに対しては,果たしてどう返せばいいのでしょうか…?
この手のコメントが非常に多いのです。
これに対しては、多分無視すべきだったんだろうとも,今は思っています。しかし反論を書こうとすると、(まあ、もっと考えるべきだとも思っていますが)アンチ系で括ってしまうのが、一番楽だったと言う事も確かでしたので、瞬間的な反応としてその様なコメントを書いてきた,そんな事情があります。それが結果的にはこんな形になったんでしょうね。
反論者への学会・非学会の二者択一の対応は、やはりやるべきではありませんでした。
反省すべきですね。それは、はっきり謝ります。
申し訳ありませんでした。
※以下の話は、上述のものとは全く別物として読んで下さい。
若し純粋なアンチ学会、宗門系がいるのであれば,やはり個々の記事に対してはしっかりした「反論」は書いて然るべきだと,個人的には思っています。何故小手先だけの情け無い文章をよこすのか,非常に疑問に感じてはいます。
貴方の意見にはとても感謝しています。
まあ、御都合主義的ですけど、又何かありましたら御意見頂けると,有難いと思っています。
ここは「ガス抜き」として設定した部屋ですが、かなりねじ曲がった方向の意見部屋になっている様な気もしています。かなりな個人攻撃用、小手先だけの中傷等々…。
アンチ系のブログの「ご意見箱」をよく読みます。かなり雑多なコメントの類従の数々で、何を言っているのか,何が主題なのかさっぱり理解不能の状態が手一杯存在しているのを見ながら、何とか「整理」出来ないものだろうかといつも考えていました。まあ、彼等がそう言う状態のものが好きなんだと考えると、そんなものかなとも思いますが、あの世界の落ち着きの無さは個人的にはいつまで経っても馴れることはなかった想いがあります。
それでこんな部屋を作っているのですが、余り役に立っていないようですね。
ここでのコメントを,気になるものを中心に整理して見ます。個人的なものですので、一般化は出来ないにしても…。
誤魔化している
中傷、為にする批判
閣下がどうのこうの
古物商から買った御本尊
俯瞰中毒者のよく理解不能の文言
以下同類……
何故はっきり記事へのコメントとして書かないのかも、気になる所でもあります。ここは自由なコメントを可能にしています。削除も一切していませんし、制御もしていません。下らないな…と思う文章も,そのまま掲載しています。これが悪いのかどうなのか…。
どなたか、私の話が「的外れな方向云々」という話も載せています。確かにとも思いますが、ではどうしてこんな雑談部屋「のみ」にしかコメント寄せないのかは、理解不能の部分です。
ある人の「提案」で、ここは閉鎖した方がいいのでは,と言う意見。読んでみて,成る程と思いました。気持ち的にはこの部屋は大事だと思っています。でも、ひとつの大事な方向でもある様な思いにもなってきます。
「外部部屋」は、数日程「メニュー」に設置はしておきます。その後ここから外したいと考えています。コメント数がどんなに増えても放置しておきます。完全削除はしない方がいいと思いますので、そのまま浮遊はさせておきます。
見る人や書く人はいるでしょうけど、あとは好き好きにお願いします。
コメントいただき、感謝申し上げます
合気道云々は、あなたのこのコメントでしょうか?
「…信心は「感得」が大きなウエイトを占めています。
他の例を出しますね。合気武道で「合気」と言うものが存在します。この事実は経験者でないと決して理解出来ない技になります。この技を身に付けるには、武道のセンスと、武術の「感得」の高さが必要となります。感得という意味は非常に重要なものなんです。
題目の功徳も「感得」です。御本尊への信心の深化も、当に「感得」と言えます。
この「感得」は一般化出来るでしょうが、しかし、感得するには、全ての人が学会の話す通りの活動をしないと「感得」は決して出来ません。信心は方程式だと言われます。だとしても「数式を解く努力」をしないと、いつまで経っても何も変わらないのです。
その典型が、彼等というわけです。故に、話は続けられなかったわけです。」
「事実、「合気武道」の話を貴方達は理解しようと努力すらもしていません。これが貴方達の現実のすがたなのです。
若し言葉で理解しようとすると、それこそ膨大な書籍を読む羽目になりますよ。しかし、それだとしても、多分無理だと思います。」
これについて私なりの見解を示すと、
・合気道を持ち出す理由が不明
ここで合気道を持ち出す理由は、「信心というわかりづらいものをわかりやすく説明するために、より人々によく知られた合気道を持ち出す」かと思います
ですが、合気道の合気なるマニアックなものを出されても、
貴殿の主張がわかりやすく理解されるのかわかりません。
なぜ合気なるものを出されたのですか?
・自分の主張が理解されなかったときの態度
あなたの主張は、「おれはこんなにがんばって表現しているのに、なんでわかってもらえないんだ・・・!」ということかと思いますが、
これは甘えだと思います。
貴殿のほかの記事でのコメントを見ても、
「読解力をつけろ云々」というのがありました。
もちろんひどい誤読はあるのでしょうけど、
「自分の表現が伝わりやすいものだったのか」という反省はするべきでは。
少なくとも私には、上の合気のたとえ、意味不明です。
・質問への回答法
魔の定義という質問に対して、
「感得でわかる」という回答は、「誤魔化し」といわれてもしょうがないと思います。
少なくとも貴殿の回答が説得力が無かったことは認めるべきでは。
以上です
台湾からさんへ
合気武道、そして「魔」の定義等の説明に関しては、理解出来ない人も多々いるだろう、と言う事も含めて、こう言う話にしています。
何故なら、
「信心の在り方」「三障四魔」はネット上の学会系記事で,それこそ頭がパンクするのでは,と言うぐらいの情報が氾濫しています。アンチ系もその情報は読んでいるはずです。読んでいて、尚且つ未だにアンチは増え続けています。じゃあ、彼等の様な人間に対してどうすれば良いのでしょう。
…同じ種類の話は、無駄以外に何も残りません。
このブログは私のブログです。そして学会のあれこれを説明するのには自分自身の「経験上」の話をしようと考えて運用しています。つまり,想像上の事項を持ち込んで「例え話」から導く「方便話」とはしたくないのです。「感得」とは「体験」だとコメント上でも再三再四、話していますが、その実際上の在り方がこの「合気武道」等の云い方になっているのです。
はっきり言って、信心のあれこれや疑問の話は、ネットを開けば星の数程存在するブログや説明記事を読んで,判る人は判ります。判らない人は,どう頑張っても理解出来ないようです。その人達に理解して貰おうとすると、切り口を変えねばなりません。云い方や表現方法を変えて書いていくべきなのです。
私は,そもそも論になりますけど、他の多々ある表現方法は使いたくないのです。特に、聖教新聞系のお話の仕方は…今更,と言う気持ちもあるし、自分の頭で,自分の考えで,そして自分独自の表現方法で,自分の信心を自分の言葉で表現したいのです。
その結果が,当ブログの記事の数々なのです。
で、問題は私のその記事を読んで理解出来ない人は、仕方ないと思っています。結構かみ砕いているのに,との不満も出てきますが、これだけ変化を付けた信心の記事に触れても駄目なら、結局もう駄目なんだろうとも…。
しかしその中にでも、理解しようとする人が一人でも出てくれば,それでいいのです。そう言う人が現れれば、このブログの使命は終了したと,そう思ってもいます。(名前は勿論出しませんけど、それに近い数人からのコメントを頂いています)
他の学会系ブログから比べると,かなり変化球や、また異常にねじ曲がった変な切り口記事がこのブログには数々存在しています。でも、世の中は十人十色,百人百色、万人万色…です。こんな変なブログの記事を読んで,若しかして一人か二人でも何か感じてくれれば,私は全然満足ですね。
と言う管理人の、貴方への答えです。
葛西さんへ
どうもmonlingen管理人さんは「仕切り直し」がしたいようですね。
2/9付のPM9:45分付けのコメントは
“寝不足で、何を書いているのか,どうも途中で分別出来なくなっていました。”
ということで無効にしたいようですので、葛西さんの質問を『小さな話』とスルーしたのも『「アンチとは何?」と言う,どうでもいい話』も無効ということなのでしょう。
再度、monlingen管理人さんに対する葛西さんの 2018年2月9日 7:05 PM の3つの質問に答えていただくということでよろしいのではないでしょうか。
台湾からさんへ
せっかくの対話に水をさすようで、申し訳ないのですが
monlingen管理人さんの「感得」について。
一般的には「感得」といいますと
1 感じ取ること。深遠な道理などをさとること。
2 神仏に信心が通じ、望みがかなえられること。
3 思いがけず手に入れること。
の3例の意味がweblio辞書などで確認できます。
monlingenさんのお話では「感得」とは信仰上での「体験」のことを指すようなので
「2」が該当するかとおもわれますが、退転者の論評話の筋としては「1」を指しておられるようにも思えます。
つまり、退転者は「深淵な道理を悟っていない」というのがmonlingen管理人さんの持論なのでしょうが、退転した人は「功徳(または活動)の経験が“ない”」と断定されているようにしか読めないところに違和感を感じられているのではないでしょうか。
深遠な道理を悟っている・・との説明として「合気」という武道における説明し難い概念を持ち出されたのでしょう。
ちなみに、あるサイトでは「相手と一つにつながる技術」、あるいは「相手の力に自分の力を合わせる技術」と「合気」を説明されています。
monlingenさんは説明的表現もいっさいなしで「「合気武道」の話を貴方達は理解しようと努力すらもしていません」などと突っぱねていますが、その時点で「合気の概念」からズレているようにも感じますけれどね。
また、なぜか台湾さんとの対話においても「貴方達」という“集団”として話をまとめようとしていることからみても、非常に不誠実なものを感じます。
幸い、葛西さんはそういった感情に訴えかける挑発には乗らず、相手が発した言葉の
「意味」を探ろうとされる方なので、もうすこし対話の行く末を見守ってまいりましょう。
お話しした通り、この部屋をメニューから削除しました(2018年2月14日 16:06)
コメント削除はしませんが、これ以後ここには一切のメンテは入れません。
MonLinGen管理人より
>かなりな個人攻撃用、小手先だけの中傷等々…
ブログのメニューから外してもブログ村の人気記事ランキングから飛んでくる方は
多数おられるでしょうね。
うるとらまん氏の提案では「葛西さんとの対話部屋」に管理人さんが
集中できるようにとの配慮でしたが、メンテナンスをしないことで
葛西さんとの対話がすすむのであれば放置されればよろしいのではないでしょうか。
monlingenさんのステレオタイプな対話法に興味深いもの感じる拙としては、かなりの資料もそろったことですし、ありがたい限りです。
かつてmonlingenさんは拙を分析してこのように述べておられました。
>>私は対話の冒頭で、信心の対話をしましょう。
>>題目をあげる人は、言葉に空回りは出て来ない、とあべひ氏、ちよさんにそう宣言しました・・・・
10時間唱題を推奨し題目をあげている管理人さんの言葉に『空回りは出てこない』はずはありませんね。貴殿の言葉ですから。
ところが実際にはどうでしょう?
葛西さんがお尋ねのかなりシンプルな質問に対してですら論点をずらしたり矮小化しようとしているのはmonlingen管理人さんではありませんでしょうか。
あべひ某さんへ
かなり時間をおいて見てきました。そろそろいい頃だと思います。
これ以上中に入って野干の如きな吠えざまを晒すのは止めましょう。読んでいる人もいるでしょうけど,しかし私は一切見てもいません。何を書いているのかも知らないし、何の興味もありませんが、これ以上コメント欄にどうでもいい落書きをするのであれば、ここでの記載コメントを過去に渡って全て削除します。
この言葉をどう取って頂いても特に気にしません。
理由は、唯うるさいだけです。
管理人さま
僭越ながら申し上げますと、
貴殿のそういった言動が、「本当の創価学会を知ってください」と銘打たれたブログに記載されることに反感を覚えている方が多いことに気づくべきではないでしょうか。
なぜ「見てもいない」コメントが「うるさい」のか?
せめて論理的な反論を求めます。
台湾からさんへ
これに関しては、一切の説明はしません。
何故なら、理解しようがないからです。若し本気でこの話の「根源」を知りたいのであれば、「あべひ」氏のコメント投稿の記事類を全て読んで,それから貴方の判断を待ちます。
理解の難解な「事実」に関しては,どんなに言葉を変化させて説明を試みても何も進まないと言う事は,それこそ嫌と言う程の「経験」済みです。
あと追記ですが、
貴殿の私に対するコメントは「わかる人がわかればいい、というスタンスでブログをやっている」というものでした。
しかし、ネット上で勝手に独自の感性に基づいた文章を垂れ流すのは自由ですが、
相手がいる対話においてそんな言語を発する理由は、理解に苦しみます。
削除、という手段しかないならば、ご自由にどうぞ。
それが「本当の創価学会」なのでしょうか・・・悲しいです。
台湾からさんへ
「体験」とは非常に個人的な部分を中心に出来ているものだと,私は理解しています。
その「体験」「理解」は、自分自身の個人的「知識」の積み重ねだとも言えます。誰のものでもありません。自分自身のものです。それを説明する為に自分の出来るあらゆる事をここで試みています。
多分一番抵抗の少ない形は、聖教新聞的に記していくのがいいのでしょうけど、これは自分の「意見」にはなかなかなり得ないことです。「思い」が入りづらいとも言えます。しかし、思いを入れるとどうしても「個人感情」が表に出てきやすいことも事実。
そのバランスは,確かに難しいとも言えます。この事は確かにブログ開設当時から悩んでいた事でもあります…。
monlingen管理人さんへ
>これ以上コメント欄にどうでもいい落書きをするのであれば、ここでの記載コメント>を過去に渡って全て削除します。
>この言葉をどう取って頂いても特に気にしません
monlingenさんが見切ったとされる「俯瞰中毒者」に対し返答などされないのかと
思いましたが、わざわざ読んでいただいていたようで恐縮です。
(たぶん、コメントを書き込むと通知が管理人さんに行くシステムでしょうか)
管理人さんは、短気なところがあってそれで誤解を受けやすい事を自分で覚知されていますね。
表面的には「読んでいない」「気にならない」などと書き込まれていますが
本気でガン無視決め込むのなら、拙以外の方に向けて体裁を整える言辞を
わざわざ残さないでしょうし、「俯瞰中読者」への対応として推奨されていた
『あとからコメントを消してしまう』処置もとうの昔にされていたことでしょう。
でも実際には拙のコメントなどは多数のこったままです。
もちろんそれに対してのmonlingen管理人さんのレスコメントも残されたままになっています。
あのような警告を書き込まれたのは、他の方からもご自分が批判されることも見越した上であえて悪者になろうとされているのやもしれません。
ただ、葛西さんにしても台湾さんにしても匿名さんにしても、「本当の創価学会を知ってください」とサブタイトルをつけて学会アンチ諸氏のブログを論評されているmonlingen管理人さんに対して、それ相応の期待(もちろん良い方の)をもっておられ、その理想像とのギャップが貴殿に対する批判になっていることが考えられます。
勝手な理想像を押し付けられても困るとおっしゃるかもしれませんが、人が違えば表現もちがうように貴殿の考えている「創価学会」と他の方の考えている「創価学会」は当然違います。
「わかる人がわかれば良い」というのは聞こえがよいですが、それは説明を放棄するのと同じことです。むしろ、「学会員ならオレの表現で解って当然だろ?」という押し付けにほかなりません。
サブタイトルにある『本当の創価学会』とやらをだれに知らしめたいのでしょう。
批判的な人間をすべて「アンチ」で一括りして耳を貸そうとしない姿を世間に晒す
ことが「本当の創価学会」なのでしょうか。
いまいちど目的を明確にしなおすべきでしょう。
>アンチ系の人間の定義
私もそれは最初から引っかかっているカタカナ3文字です。
管理人さんにとっては使い慣れた専門用語のようではありますが、
私は聞き慣れない言葉です。
座談会や本幹映像など会合で幹部指導の中でも、
そのカタカナ3文字が登場する場面は今までに一度も見たことがありません。
ネットで飛び回っているのは見かけますけど、
リアルでは飛び回っていませんよね?
普通の学会員にとっては日常生活で馴染みの無い言葉です。
ですから、「アンチとは何か」という質問が出るのは当然のことだと思います。
ここでは「アンチ」の3文字は学会員どうしに対しても濫用されて、
差別用語と化しているようにも見受けられました。
むやみな使用の結果は内部どうしの亀裂・分断しか無いのでは?
学会を巡るネットでの現象を描いた「作品」の表現方法の一つとして使用されるのは構いませんが、
同士討ちを招くのであれば、
この言葉の使用じたいを最初から避けるべきだと私は思います。
声さんへ
私にとってはかなりインパクトのある疑問・質問です。
数日(又はそれ以上)ほど整理をさせて下さい。必ず、何らかの形で自分の答え又は,考え方を出します。一応「葛西さんとの対話部屋」に簡易ですが声さんの答えに近いものを記しておきました。参考にして下さい。
長文になるかどうか、少々整理しながら納得の出来る(多分)ものを出したいと考えています。
Monlingen:
「ど・・・どうも、こんにちは。Monlingenと言います。ええ、どうしてこんな所に来させられているのかわかりませんけど、一応自己紹介をさせていただきます。私は創価学会の会員で、趣味はアンチ創価学会の人間が書いたブログを読むことです。彼らは所詮学会活動が嫌で逃げただけの悲しい人間で、地獄行きは間違いありません。また、生きている間に仏罰が落ちるのは当然の理で、 想像も付かない様な陰惨な結果が必ず顕れます。私はそれが楽しみで仕方ありません。日蓮仏法には即時公開処刑制度もありますが、数年やそこらで結果が出るようなチンケなものではないのです。5年、7年、15年・・・人生の幸福絶頂期に起こる、素敵過ぎる破滅のアクシデント。楽しみではありませんか。嬉し過ぎる出来事は、後で起こる方がいいですしね。」
精神科医:
「・・・・・なるほど。」
Monlingen:
「そうそう、私は自分のブログも運営しているのですよ。哀れな退転者になるような同志の出現を防止するという使命を果たすために、アンチブログの分析をしています。そうですね、大体アンチブログ関連の記事は、約50件に及んでいます。退転者どもは馬鹿で、人間に普通備わっている論理的思考力も備わっていないので、全く反論できません。アンチブログに書き込みをしたことも何度もありますが、どこも糞尿の溜り場で、理性のある人間は一人もいませんでした。」
精神科医:
「(ナースを呼ぶ)措置入院の準備をお願いします」
静かに創価学会を去るのブログの常連コメンテイター様でしょうか?
3名ほど、monligengenさんと対論なさりたい方がおありのようで
学会員は活動が忙しくてコメントのやり取りを長々やりたくないです
学会員は超生真面目で、創価のブログとアンチ創価のブログを毎日きちんと両方見て、ロム専ですから、ぜひ両者の違いをはっきりさせて下さい。
匿名さんへ
少々理解出来ない内容があるので,勘違いがあったら申し訳ありません。
匿名さんは、「静かに創価学会を去る」ブログから来られた方ですか?
で、MonLinGen(つまりこのブログの管理人・私)に対して、上記のコメントを発されたのでしょうか?
「静かに~」ブログへの私の記事は、彼の管理人さんにお届けしたもので、ブログの常連の方に対しての意見は入れましたけど、返答を求めたものではありません。
「学会員は活動が云々…」とお書きですけど、私も創価学会員として活動しています。生活も勿論持っています。「長々…」とやりたくないことは,私も同感です。今現在のここでの「対話」もそんな気持ちでいます。
若し、「両者の違い」を理解したいのであれば、ウチのブログの記事でもいいし、また他の学会員さんのブログでもいいですからしっかり読んでいただいて,そしてその知識を元に「疑問」を出していただけると,お互いにやり易いような気がします。
実を言うと、アンチ系と言われる人々に対しては、「対話」という形では余り関わりたく無いというのが私の正直な気持ちです。
何故なら、彼等は、創価学会の「事実」を一切見ようとしない人々の集まりだと理解していますので、こちらがいくら学会の「事実」を記してみても、一切その事に関しては触ろうともしません。そんな人々に対して一体「何」が出来るのでしょうか?
私のアンチ学会系の人々に興味を持つのは、彼等が期待するようなものではありません。全く別な所に,私は視点を置いて当ブログの記事を書いています。
若し興味がおありなら、当ブログの何本かを読んで頂くという手も、無い事はありません。
でも、コメント頂いたことに対しては、とても感謝しています。ありがとうございます。
すみません、対話の外部部屋I、IIの上部で匿名で書いていた者です。
2018年2月17日10:32AMの匿名様とは違いますのでお知らせします。
追記です。私はこれを最後にここには匿名で書き込みしません。
了解しました。
多分,誰かの落書きなのかもしれませんね。放置しておきます。
葛西氏との対話と画竜不点睛の記事を元にした
monlingenさんの「学会アンチの定義」
◎創価学会の様々な活動に対して、全て又は複数の反発・批判等を持っている人間のこと
monlingenさんが「学会アンチ」の行動について問題だとする事例
◎創価学会に対する道理なき(筋の通らない)批判・中傷をネットで配信していること
>>葛西さんへ
となると、葛西さんが例示された「学会員系」のブログ・サイトのケースも
立派な「学会アンチ」として指弾されるはずだとおもいますね。
また、monlingen管理人さんは
「意見が「反対」だから彼等を「アンチ」呼ばわりしているわけではありません」
と述べています。
謝罪をされたとはいえ、葛西さんは当初から上記「学会アンチ」の話題も
問題行動を起こされていたこともないのに「アンチ系」と決めつけていました。
葛西さんは“意見に反対”ではなく、粘り強く管理人さんの意見についての説明を
求めておられたことは論をまたないでしょう。
また、葛西さんが問題とされていた、学会アンチ批判の論拠となっていた「感得」についてですが「学会アンチに感得がない」という主張の根拠について明確に示されたものはありません。(葛西さんは学会アンチに感得がないとは言い切れないというスタンス)
どういうことなのか説明を求められたことに対しても「そんなことも解らないの?」的な発言が目立ちました。
さらに言うならば、葛西さんへのアンチ系認定についてmonlingen管理人さんは
“アンチ系の人間は、学会の思考方法とは別の次元でモノを考える様なので、道理・理論説得等の人間本来に具わる論理的な理解力が、ほぼ欠けているようだ”と
2月9日に明示されています。
monlingenさんの「アンチ認定(判断)」に重要なのは「学会の思考方法」という
管理人さんの新たな概念が出てきていたのがポイントになるはずなのですが、上記「学会アンチ」の定義には絡んでいません。
また、葛西さんとの対話に対し
“どう考えても信心の対話の話の文言ではないですね。
私は兎に角「信心」の話をしようと必死でした。
方便も,信心に繋げようと頑張りました。でも、全て無駄でしたね。
言葉尻だけの「応答」を読みながら、ぐったり疲れましたよ。
繰り返しますが、これがアンチ系の思想なんですね。 ”
と2月9日の時点で述べています。
「学会の思考方法」と違うのが“アンチ系”の論拠であるとされていますが
実際には「monlingenさんの思考(説得)」具体的には管理人さんの方便に
納得しない姿勢こそが「アンチ系」の論拠にされているようにしか見えません。
また管理人さんは
「葛西さんとの初期の話の流れが、上記の自分自身の定義にマッチしたような気がした」と理由ものべています
初期の話の流れ・・とはいったい、どの部分を指すのでしょう。
葛西さんは丁寧にmonlingen管理人さんの発言を提示して「質問」や感想を書いておられただけですが、これが「アンチ系」の判断基準になっているとされているの
ですから、「謝罪」を理由に説明責任を免じられることにはならないように思います。
葛西さんが「(管理人さんの)アンチの定義を教えてください」と質問すると
>非常に個人的な定義でしかないので定かには言う事は出来ません。
と書かれていました。
いままでのやりとりの中でmonlingen管理人さんは何度か「アンチの定義」を書かれていますよね。
在る記事には書きましたが・・とも言われていますが正直どの記事なのかも不明瞭な
ため確認のしようもありません。
おそらくは「画竜不点睛」の記事かとおもいますが、その記事内でも「個人的な定義」と前置きした上でアンチの定義をかかれています。
でも葛西さんとの対話では明示したくないようです。
おそらく葛西さんは次にmonlingen管理人さんの今までの発言から「引用」を
されて確認をとられるとおもいますが、ここにきて、なぜ管理人さんが「アンチ」の定義を葛西さんの対話の中で書かないのでしょう。
そして、またmonlingen管理人さんは「自己の体験(感得)」が判断基準であることを示唆しそれが“人間の感覚や体験として理解出来る様な”といったようなだれもが共有し得る一般論と同等であるかのように伏線を打っていますね。
葛西さんが
『 道理のある批判の明確な言語化 』 を求められているのも頷けます。
アンチさんらが「道理のない批判・中傷をネットでしている」ことを問題にするのなら、少なくともmonlingen管理人さんは「道理」を示さなければならないでしょう。
ですが、管理人さんは「オレがそのように感じた」というだけの理由で批判をしたり病人であるかのように中傷しているわけです。
アンチさんらは「自分の経験」を元にネットで創価学会を批判し学会員を中傷する。
これは『問題』として提起できる。
でも
monlingen管理人さんが「自分の経験」を元にネットでアンチサイトを批判し関係者を中傷するのは『問題』として提起すべきではないという意識が働いているからこそ
(葛西さんの対話の中で自己の矛盾点に気がついている可能性も大いにある)煙に巻いたような言辞を返すしかないのでしょう。
もし宗教的な「道理」を重んじて指弾されておられるのなら、学会員の「愚癡」サイトも批判してしかるべきでしょう。
なぜなら、元学会員の「アンチサイト」も「愚癡」にすぎないのですから。
(愚癡= )①言ってもしかたがないことを言って嘆くこと。
②(仏)三毒の一。物事を正しく認識したり判断したりできないこと。
(コトバンクより引用)
拙は、一見してわかりやすい退転者の愚癡ブログよりも、内の愚癡ブログのほうが危険であり(獅子身中の虫だから)そういった劣情に基づいたネット上での「改革」なり「新活動」というムーブメントは看過できないのです。
上記コメント内での「劣情」は「いやしい心情」を指すものであり、性的な欲望などを意図したものではありませんので念のため追記しておきます。
monlingen管理人さん曰く
>上記の様な、学会員であれば誰でも持っている信心体験話を、体験を
> 持っていない人間に対して何をどのように話したとしても、決して
> 理解は出来ません。
これじゃ信仰体験(感得)のない、外の方には決して理解できないと
言っているのと同じですね。
葛西さんが求められた「学会アンチの定義」説明するのに、なぜ個人的な「感得」を持ち出してくるのでしょう。
葛西さんをはじめ、こちらの誰もmonlingen管理人さんが「信仰体験がない」などと断定している人などいないのに。
ところが、monlingen管理人さんは「理解が出来ない」=「感得がない」の主張の繰り返しです。
結局管理人さんは、自分が説明できないことを「信心していれば解るだろう?」と相手の信仰心にすり替えた上で説明に変えようとしているのでしょう。
管理人殿へ
ここは浮遊放置の部屋とのことですが
現在までほぼあべひ氏のひとり舞台となっています
いっそのこと完全閉鎖するか
あべひ氏のコメント投稿を禁止したらどうでしょうか
なんのために浮遊放置させているのかも理解できません
管理人殿に一考いただきたいです
一連の対話、ずっとウォッチさせていただきましたが、
MONLINGENさんの思考停止がひどいと思います
他人をアンチ認定しておきながら、それを自分の体験や感得で理由づける・・・・よほど自分の信心に自信ある方なのでしょうが、
そんな方が「本当の創価学会を知ってください」というブログを運営したり
アンチブログに乗り込んで醜態を晒すのは、
同じ学会員として恥ずかしいです
わたしは、葛西さんは冷たい人だと思いますが、
少なくともこの対話とやらでは、MONLINGENさんが明らかに間違っていると思います。
あべひさんも、ここで言っていることは正しいと思いますが、ネットでの執着行動はおかしいと思います。
わたしは、
管理人さんは自分の傲慢さを反省して意見を改め、
葛西さんには人間らしい信仰の話をしてほしいと思います。
そしてあべひさんには、
このまま意見を記載してほしいです。
ネット上での行動はどうあれ、
今のところ正論を言っているからです
もしおかしなことを言ったら、わたしも反論を書きたいです
一夜あけてあべひ氏の投稿は正論であるのでこのまま継続を希望している方も見えましたが
自分はやはり外野部屋は不要だと考えています
あべひ氏の糞尿を放出させる便所のような部屋を管理人殿が維持する意味が見いだせないからです
あべひ氏は複数の自身のブログを所有しているのだからそちらで思う存分書けばよいでしょう
管理人殿には葛西氏と対話部屋で駒を進めていただきたい
この部屋の浮遊放置はあべひ氏を歓喜させるだけですよ
興味深いですね。
monlingen管理人さんは「葛西氏との対話」の外野部屋としてこのスレッドを設定されました。
いまは50投稿を超えれば新スレに移るとか管理人さん自身が外野の面々と直接対話をされるといった「管理」をされないことを宣言されています。
にもかかわらずなぜか「外野部屋の有用性」について論じようとする方が出てきますね。
>この部屋の浮遊放置はあべひ氏を歓喜させるだけですよ
拙だけが「葛西氏との対話」について言及していると批判されるわけですが、そもそもこの外野部屋の設置のテーマに合わせて言及しているものがわずか「1人だけ」だから閉鎖せよなどする意図がわかりませんね。
あと、そのHNは愉快犯丸出しです(失笑)
ファンならファンらしくそのHNであちらにも出没して応援するならともかく、暗に「ちよ」さんの関係者を匂わせることを意図してのHNでしょう。
管理人さんを応援したいのなら葛西さんの対話のやり方についてでも批判的に
論じてみればいかがですか?
たぶんmonlingenさんは、「ちよ」さんとの対話の「外野部屋」の時のように
自分の意見をフォローをしてくれる方が何人か来てくれると期待されていたのかも
しれません。
春さんへ
大変に恐縮です。
>アンチブログに乗り込んで醜態を晒すのは、
アンチさんがよく取る手法は、乗り込んできた相手(学会員)を複数人で挑発し感情的な発言を誘導したうえで「やっぱり学会は・・・」と呆れてみせるという古典的な「演芸」です。
これはアンチさん慣れしていないと難しいです。
拙は「のんかつ」さんがmonlingenさんであったことを、あちらでの論争が終わってから気づきました。
ほとんどの学会員系ブログが自己の利益だけを喧伝する風潮となっている中
あえてアンチさんに“チャレンジされたこと”に対しては評価をさせていただいてます。
ただ、あのような結果になったことに対し、なぜそうなったのかを葛西さんは
管理人さんに考えてもらおうとされているのだと思います。
>>ネットでの執着行動はおかしいと思います。
たとえば拙のようにネットで「ある事柄に執着している」のがおかしいと思われる
のなら、毎日記事を更新して名もしらない学会員さんに媚(こび)を売るために他人のプライバシーを漏らしまくっているかたもおかしいはずですし、複数の学会員さんを巻き込んで「ネット御書」という個人のサイトコンテンツの完成にのみ執着している方もおかしいですよね。
でも、そうとは思われないでしょう(笑)
なぜなら、彼等は一見すると「他意がない」ように見えますし「好意的」に映るからではないでしょうか。
逆に拙のように「他(悪)意がある」ように見えて「批判的」に映る人間は
どんな正論を述べていようが基本「執着的」に見える。
ようは人間は、おなじような事をしていても「自分が持った印象」で判断が
歪められてしまうということです。
理解してくださいとは言いませんが、特定の人物に対し粘り強く観察しているのは
相手のことが「大嫌い」だからではありません。
私も春さんと同じ意見です。以前、管理人さんの記事にコメントさせて頂き、当時は内容にも共感出来、管理人さんに対しファンですとコメントし、その後も記事を拝見させて頂いています。あべひさんちよさんの対話について、あべひさんに対しての管理人さんの対応に違和感を覚えながらも、管理人さんを信じて、私自身の理解力が足りないのだろうと思っていましたが、葛西さんとの対話での管理人さん残念です…駄文失礼しました。
「想像力」を言葉で説明する,こんな難しいことはありません。多分無理でしょうね…。
一般では余り取り上げられないものですけど、学会での「体験」や他の活動の裏にはこの「想像力」を前提にした話が非常に多いのでは,と私は個人的に考えています。
全く赤の他人の「体験」や「感得」に対して、自分自身の信心活動を通して培(つちか)った「体験」を通して,その他人の体験を現実のことのように考えるわけですから…。非常に難しいし、非常な努力も必要になってくるようです。
想像力を外した赤の他人の体験を、自分の事のように「考える」事は全く不可能だと思います。「五十展転の功徳」は、前提にその想像力を置いています。想像力を無視して,そもそも「仏法の在り方」はあり得ないのではないでしょうか…?
学会は他人の「病気の辛さ」「貧乏での苦しさ」,更には病苦を克服した「喜び」を,当に自分の事のように受け止めて、自分も苦しみそして喜ぶ訳です。それが一般的には「非常識」に見えても、他人への「慈悲」を常に貫いていく事が、創価学会の「活動」だと言える事は間違いありません。
この外部部屋はその「話」をどう見るか,どう考えるべきかの試金石だと,私は考えています。
非常に好意的なアドバイスは有難いし,とても感謝していますけど、この部屋での様々な意見はそのまま放置するのがいいと私は考えています。理解出来る人は,はっきり理解出来ます。でも、悲しいことですが、出来ない人は何百年経っても駄目のようです。
私はこのブログを、一人の人に分かって貰えればいい、とそう思って運営しています。そして、この部屋も同じです。
他人への想像力、常識への想像力、信心そのものへの想像力等々…その事が分かって貰えると、この部屋の使命は全うしているという話なんだと思います…。
管理人殿へ
管理人殿の考えのもとで<外野部屋 公衆便所>はこのまま設置ということ了解しました
この先汚物が<便器>からあふれ出さないことを願うばかりです
葛西氏との対話は引き続き楽しみにしています
ではロム者に戻ります
アンチ(反)学会を味方にするのが折伏なわけで、ただネットでアンチ(反)学会の主張をするのは退転者が多いようです。
普通、学会員なら退転者に対してよく思ってない。
退転しただけならかわいそうだけだけど、邪見偏見にまかせて誹謗中傷しているのを見ると怒りが沸いてくる。
だがそれを世間で主張しても受け入れられない。同レベルと見られるのがいいところ。
あと同志に対して個人的に好き嫌いはあるとは思うが公になる場で中傷するのも世間では受け入れられない。以上感想でした。
管理人さんに反発している人が増えているように思いますが、
それは「あなた自分のこと何様だとおもってるの?」というものでは。
「理解できない人には何百年経ってもわからない」「1人にわかってもらえばいい」・・・云々。
これらは全て、
「俺はわかってるけど、わからない馬鹿が多い」「俺のいってることがわからないなんて努力不足だ」などという
極めて傲慢な考えを持っている方でなければ、いえない台詞でしょう。
自らの思考の甘さや文章の下手さを反省せず、
全てを他人のせいにするメンタリティには、非常に驚かされますネ・・・・
「想像力」云々の話も、
それで何が言いたいんでしょう?
「俺の気持ちを想像力で察してくれ!」ということでしょうか。
相手にわかりやすく伝える努力を放棄して、
相手に「想像力を働かせろ!!」というなんて、
よほどの天才でなければ許されない態度でしょう、それともご自分を天才と思っておられるのでしょうか。
とりあえず私は、
管理人さんの文章はわかりづらい、比ゆもわかりづらいですし、主張もめちゃくちゃだと思います
monlingen管理人さんへ
>「想像力」を言葉で説明する,こんな難しいことはありません。多分無理でしょうね…。
そうでしょうか?
クリエーターであるmonlingen管理人さんの「想像力」は遺憾無く言葉で表現されていましたよ。
たとえば、
『全く赤の他人の「体験」や「感得」に対して、自分自身の信心活動を通して
培(つ ちか)った「体験」を通して,その他人の体験を現実のことのように考える』
これはよく言われる「共感・感情移入」ですよね。
この感覚と心理学でいうところの「自己投影」はオモテとウラの関係です。
(自己投影:自らの内にあるが認めたくない性質や感情を、自分ではなく他の人あるいは物にあるかのように無意識に感じてしまうこと。)
基本的に、他者に対して好意的であると、自分の体験を通じて「共感」でき
嫌悪的であると、“自分のネガティブな基準”で相手をおし測ろうとするものです。
monlingen管理人さんが学会アンチブログを見て論評をすると企画された時に
コメントで応援したのは、管理人さんが非活(または未活)の状態から学会活動の
必要性を見直し信心を再構築した・・といったような体験を得ておられることを
以前書かれていたからです。
信仰に対するネガティブな感情をすでに克服しているということは、アンチさんの学会に対するネガティブな感情にも一応「共感」できる部分があるはずです。
ならば、ネガティブな感情をポジティブに切り替えられた経験から、アンチさんらに
対して「信仰のあり方」を説かれるものだと思っていました。
また、そういった「善導」をされる姿をもって“本当の創価学会”を示されるのかな?との期待感があったのも事実です。
ところが、残念なことにmonlingen管理人さんは、負けん気が強すぎるところがあり
自分に対して批判的な人間を自己投影したうえで敵視するところから始めてしまわれました。
拙や葛西さんのように管理人さんに対し批判的な人を、学会(もしくは学会員)に対し批判的であった頃の自分 に重ねて抽象化し、それを叩いてみせることで正当化させネガティブな感情を抑えようとした。
結果的に歩み寄ろうと努力されている対話の相手(本人)を抽象化し軽視したうえで、受ける側であった管理人さんも歩み寄る努力(共感できる箇所を探す努力)さえ放棄しようとしているのではありませんでしょうか。
>私はこのブログを、一人の人に分かって貰えればいい・・
などという発言は今対話をされている人物を軽視して同情を買おうとしている心理を如実に現しています。
もし私が狡猾なアンチなら捨てハンドルでコメントを残すでしょうね。
「管理人さん、もうこんな人物に関わらないほうが良いです。貴重な時間を無駄にされるよりも次の話題に・・・」
そして、アンチブログでは「また学会員がいがみ合って仲違いしているよ」と書く。
アンチさんらにとってネットで「思考停止に陥って自己保身にはしるリアル学会員」をイジれることこそがネタでしょう。
他人にだけ「想像力」を求める前に、管理人さんの「想像力」も磨いていきませんか?
さて葛西さんとの対話も2スレにすすんだのはよかったのですが
monlingen管理人さんは、たしか煩雑になることを避ける為
一問一答を提案されたのではなかったでしたっけ。
>一つひとつ疑問の質疑応答をして欲しい。何故なら,一度に多くの質問等はまとま>りが付きません。結局全ていい加減になる事が多いのです。
>一つに絞って下さい。
(2018/2/14付の管理人さんの提案)
それともYES・NOの二択質問なら一度に多くの質問をしてもかまわない
のでしょうか。
管理者の一存で突然ルールが変わったりするのも、よくあるケースですが
相手を知るために設定された質問すべてを YES で答えた葛西さんに対し
どうまとめるつもりでしょう。
せっかくですので葛西さんもYES・NO形式で質問をされてみてはいかがでしょう。
こんにちは。
ある異常なコメント送付者に対して,私の態度の緩さを、とても好意的に見て下さっている人の御意見、非常に有難いと思っています。
この外部部屋の削除云々に関して、気付いている人は多いような気もしますけど、いまだ未削除状態に対しては、これにははっきりした「理由」があります。その話をここでする積もりもありませんが、理解されている方々には、暫(しばら)く静観して頂けると有難いと思っています。
これは当に「感得」「体験」、又は「想像力」の問題なのです。
出来る人は何の説明も不要です。でも、出来ない人もままおられます。そう言う人には「その現実」が見えていても、決して理解出来ないことなのです。(不思議と言えば不思議ですが…)
しかし、そうだとしても、この部屋の「資料」としての価値は、厳として存在しているのではないかとは思っています。
何年後かに何となく分かって貰えると、嬉しいですね…。
多分、そうだと思っていました。
俯瞰中毒者は絶対に来ると私は思っていました。管理人さんは、まさか来ることはないと思っていたようです。
しかし、管理人さんが、「目障りだ。出て行け」と言われても俯瞰中毒者は涼しい顔をしてやって来ます。これには私が驚きました。そこまで馬鹿にされても、す涼しい顔をしてくるとは思いませんでした。
管理人さんは、このような展開になることを熟知しながらも放置してきたのは何らかの意図があると思っていました。
もう少し、様子を見ようと思います。
私は、俯瞰中毒者…認定は、管理人さんと葛西さんの対話の中で破綻しているように思えるのですが、、私の理解力の無さでしょうか? なんか、モヤモヤするのでコメントしました。申し訳ありません。
暴言吐かれて、涼しい顔でノコトコ来るのは俯瞰中毒者ぐらいです。
どうせ、やってくるので、わかると思います。
いずれにしろ、貴重な資料になります。
うるとらまんさん。傑作ですね
>暴言吐かれて、涼しい顔でノコトコ来るのは
管理人さんが暴言を吐いていることを認識したうえで応援している訳ですから。
そういうのを 与同 というのですよ。
なんでもリアルでは地区部長さんが交代されたとか。
頑張って実証しめしてくださいね。
monlingen管理人さんへ
>しかし、そうだとしても、この部屋の「資料」としての価値は・・・
この点については拙も全く同感です。
いつ削除されても良いようにログはとっていますけれども
monlingen管理人さんの価値判断や数少ない援助者は、貴殿が目の敵にしている「アンチ学会の連中」の思考と基本的には変わらないことだけはハッキリしてきたようにおもいます。
拙が現在注目しているポイントは「説明不能な感情」(印象)だけで相手の信心を
天秤にかけたり人格を推し量ろうとするクセが、どのようにリアルの信心に影響を
及ぼしているのかです。
管理人さんは「かなり前の事、私が地区部長をさせて頂いていた頃の・・」
( 2017年4月25日付け記事)
と書かれていますので、現在は“それ以上の役職”であることは拙には疑いようが
ありません。
そんな支部(もしかすると本部)幹部の方が、個人的な「感得」に基づいた
「アンチ批判」しかできないことを世界的に配信されて証明されているのです。
池田先生はこのように指導されていますね。
“きょうからは自信をもったぞ,オレの信心がスゴイぞ”(笑い)
などというのは本当の自信ではありません。
そんなのは慢心だ。
(指導集 質問に答えて 146ページ)
よく日顕宗門徒のアンチさんが、
“きょうから門徒になったぞ、オレの信心がスゴイぞ!”的なプロパガンダを
ネットで実践していますが、見る人が見れば「満たされない思いがあるんだな」と
分析されますよ。
葛西さんへ
>私は「感得さえあれば何でもOK、それ以外は重要ではない」とは思わない。
>論争は緻密に行うべき。
—
1つの論点として、管理人さんがどのような感得を得て「他者の信心」を推し量ることができたのかという質問もできるかとおもいます。
しかし、monlingen管理人さんは、自身が得られた「感得」(体験)についてネットで語られるようなことはないでしょうし、本人以外のプライバシーにも深く関わることでしょうから感得(体験)の“詳しい内容”については、ネットで公表できないことだとおもいます。
となれば、視点を変えて
“感得を得た人間”に対し、他者からどのように評価されるべきかを確認してみたほうが話題が進むかもしれませんね。
管理人さんは昨年10月に「功徳の感受性」という記事内で興味深い発言をされています。
ちょうど、拙とちよさんが組織外組織活動について対話をはじめる少し前のことでしたから、管理人さんの考え方(感得の受け止め方で信心を測る)を推察するにはちょうどよい資料ではないかと思います。
ここまできました。
この状態をどう考えるか…。多分それぞれなんでしょうけど、若し、前回の「対話」の状態と同じ「意見」の方がおられましたらその人々は,はっきり言います,貴方方は「一闡提」の感覚しか持っていない人々です。以後ここには決して足を踏み入れないようにして下さい。そう言う人々の集まりは、ネット上には腐る程存在しています。そこでワイワイ楽しんで下さい。
上述の意味が理解出来ない方は,前回の「対話」及び「外部部屋」,そして今回の「対話部屋」をもう一度読んで下さい。しっかりと…。
あべひさんのコメントは、これ以降全て削除します。
管理人さんにがっかりし続けているのは、私だけでしょうか。
葛西さんの意見に、言論の自由だからごちゃごちゃ言うな、とか言うのは不誠実だと思います。
失礼な言い方になりますが、管理人さんは、生命の基底部が修羅だと思います。
なんだか勝他の念が強くて、ほかの人の言うことを聞かず、
他人に勝とう、自分の正しさを疑いたくないという感じに見えます
わたしは、管理人さんのように、
他人の信仰を簡単に評価する男性は苦手です。
組織でもたまにそういう人がいます。
わたしは、管理人さんに謙虚になってもらい、
葛西さんに葛西さんの信心の話をしてほしいです。
春さんへ
葛西さんとは、ブログの在り方を話しています。信心の在り方とは別物だと言う事を、先ず念頭に置いて頂けると,有難いです。
私は、葛西さんの私への批判方法は,かなりズレていると思っています。
ブログの記事に対しての批判をすべきだと思います。ブログでの性格批判は別の話です。今までの答えの数々は、私が葛西さんの質問に対して,自分なりの経験や知識でもって,彼に答えているだけのものです。一番分かり易い,自分なりの在り方で答えています。
ブログは「記事」が中心です。そこに「何が」書かれているか,それが大事だと思います。その「何が」の起承転結の方法は,それぞれのブログの在り方、個性だと言えます。その「個性」を否定する考えは,やはり間違っているような気がしますが,どう思われますか?
何の個性も何の突飛さもないブログ…そんなお話の詰まったものを、春さんは読みたいと思いますか?
様々に存在するネット上のブログの個性、大事にすべきはその希少な「個性」だと,私は考えています。
春さんへ
管理人さんは個性が独特ですね。
私のまわりには、管理人さんのような個性ある人は皆無に近いです。
管理人さんの個性、思いが反映されたのが、このブログです。
その個性あるブログを読む読まないは読者の自由です。
カレーライスを食べたい人はカレーライス屋さんに、ラーメンが好きな人は
ラーメン屋さんにいきます。
どちらを選ぶかは本人の自由です。当たり前の話ですね。
ブログも同じとおもいます。こちらが嫌とか、価値がないと思えば来なければ
良いのです。管理人さんには、価値がないと判断した人を引き留めることは
できません。読む読まないは、私達の自由です。
無数にあるブログで、どれを選ぶかは私達の自由です。
読むに値すると思うブログを読み、そうでなければ読まないで良いと思います。
問題は、葛西氏の質問よりも、管理人さんの論法でしょう。
性格批判ではなく、特定の行動を挙げて、それを批判しているのですから。
「傲岸」というワードが出ただけで、「俺は個性を大事にしたい」という反応はあまりに幼稚ではと思います。
私も、管理人さんの他人の信心に対する断定に疑問を持っていますが、
それを「個性」というマジックワードで解決しようとするのは、かなり乱暴ですね。
>葛西さん
見ておられるかわかりませんが、もうやめたほうが良いのでは。
あなたはかなり頭のいい人ですが、
管理人さんは議論の出来ない人だと思います(相手の批判に「個性が大事」「感得でわかる」と答えるような方なので)。
おそらく貴殿はちゃんと仕事もされている方でしょうから、
そちらに専念したほうがよいと思います。
時間の無駄ですよ。
>葛西さん
続き・・・・
あと、管理人さんは、葛西さんの主張を理解していないんじゃないかな・・・・
毎回とんちんかんな返信を書いておられますので。
結論は一緒ですが、時間の無駄だと思います。
「1人に届けばいい」・・・・
このブログを見て、創価学会に魅力を感じる人とお話してみたい・・・・
私は、お二人の話にき興味を持ち始めました。
葛西さんは、どうしても、管理人さんの性格に固守しますね。
それが話が進まない要因と思いますが、それは葛西さんの性格でしょう。
お互い個性的です。これからの話し合いが楽しみです。
葛西さんもよくやりますね・・・・。
ここまで愚かな人間に「資料収集」だの何だの言われて黙ってるんですからね。
思うに、「俯瞰中毒」「資料収集」という言葉を発するのは、
自分を「観察者」という立場に置くことによって、相手より優位に経とうとする行為に見えます。
結局、管理人さんもうるとらまんさんも、
あべひや葛西さんに反論が出来ていない。
相手の主張に対して、まるで「分析者」や「診断者」のように、
発達障害だの、中毒だのと診断を下す。
そうした診断とやらは、斬新さも欠けており、知的水準も低いが、
自分を観察者という立場におく、その1点において相手より優位に立っていると実感できる・・・・・
ここまで書くと、結局「俯瞰中毒者」とやらが誰のことなのかわからなくなります。
知らない事は仕方ありません。それに対しては一切批判しません。
でも、知りもしないことを知らないまま、おまけに知ろうと努力もせずに、どうしてこの問題に対しての非難が出来るのでしょうか…?
『これこれの理由で,だから誰それが中毒者ではない』と言う話が一切ありません。
不思議というか、奇妙な人間です、貴方は……。
『題目を一度もあげたことのない人に、題目の凄さや功徳を、葛西さんは一体どう説明出来ますか?』
やっと、聞きたかったことがきました。
体験感得なしに説明できる人は私のまわりにはいません。
どのような展開になるか期待しています。
ずっと見てきましたが、一言だけ言わせていただきます。
この対話、ひど過ぎ。
管理人さんが傲慢すぎる。
管理人さんは、もっと真摯に対話すべき。
こんなブログが、創価ブログ村のOUTランキング第1位なのが恥ずかしい。
現役壮年部です。
普段はネットはあまり見ないのですが、このブログは現場でちょっと話題になり、拝見しました。
ぶしつけながら、1つ要望です。
「このブログにおける見解は、管理人の所属する宗教団体とは無関係です。
また、管理人は特異な意見を持っており、所属する宗教団体の中でも管理人と同意見の方は皆無に等しいです」
とブログに記載して欲しいです。
Monlingenさまは、個性の発露・自己実現としてこのブログをやっておられるのでしょうが、
「本当の創価学会を知ってください」と題する以上、あなた個人の領域は超えています。
Monlingenさまの言動が創価学会の評判につながります。
ですがこのブログの意見は、かなりひどいです。
たとえば、「胸躍る仏罰」という記事。
私も功徳の反対には罰があると思いますが、
「仏罰が楽しみ」という記事は、創価学会の評判をおとすものでしかありません。
また、葛西さんとの対話も、
Monlingenさんの主張の論理破綻がひどいです。
もちろん、どんな意見を持つかは自由ですし、それを発信するのは自由です。
ですが、それによって学会の評判を下げること、
このブログによって現場で困る学会員がいること(詳細は書きませんが私は折伏現場で困りました)、
を心に留めて欲しいです。
失礼なことを申し上げ、すみません。
面白い,そして意外な落ちが付きました。
葛西さんに感情移入していた人も多々おられましたけど、この結果はどう写るのでしょうか?…少々興味のある処でもあります。
こう言う面白い展開・結果って、あまりないですね。そう言う意味で葛西さんの「だまし」は,ある意味爽快さを感じます。
これに類似する話はネット上では意外に多いのでは,と想像しています。今回はギャグとして受け止められますけど、俯瞰中毒者の関わり方は,こんなものでは無いはずです。
まあ、お互い気を付けましょう。
やっと核心部分の話し合いになると期待していましたが
逃避飛行ですね。
葛西さんに説明できるとは思いませんでしたが逃避飛行するとは思いませんでした。
ま、そんなもんでしょ。
終わってしまえば笑い転げてしまいますね。
管理人さん、お疲れさま。
皆さん、お疲れさま。
これは、1級の資料ですね。
葛西さんに同調した方々、本当に葛西さんを信じていたのか疑問に思います。
活動している人なら怪しいと、分かります。
どうやら、葛西さんを利用しての、何らかの意図があってのことだと
断定できます。
俯瞰中毒者についても、同じことが言えます。
俯瞰中毒者とわかりながらの、管理人への嫌がらせです。
とてもメチャクチャスッキリしました。
外部部屋の総括
少々長い対話にお付き合いして頂き,ありがとうございました。「対話全体の総括」は「対話部屋」の最後にしていますので参考にして下さい。
色々書き,そして書かれました。これがネットでの「対話」の在り方なんでしょうね…。
とは思いつつ、しかし、そうであっては駄目だと思っています。
私は対話に当たっては、全力で自分の「真実」を語ってきました。勿論、言葉足らずや間違った用法もあったでしょうけど、しかし,「自分の言葉,思い」を一生懸命に綴ってきたことは,対話部屋を読んで頂けると理解出来るかと(希望的観測ですが)思っています。
相手がどんなことを言おうとどうしようとも,こちらは「自分の真実を自分の言葉」で語っていくのが、多分「折伏」と言うものの一つの在り方なんだと思います。ムッと来ることもあるでしょうけど,諦めずにやって行くこと,それが「信心」の一つの道なんだろうと,今回本当に理解させられました。そう言う意味では葛西氏、そして「慢心」放言の人達には感謝しています。
本当にありがとうございました。
葛西さんは見切りを付けたんだと思います。
「非常に不快で悲しい」という言葉が出るまで
彼のやりとりが適当だったとはとても思えない
というのが私の感想です。
管理人さんの最後の「葛西氏は嘘八百の権化」発言は、
学会理解を広げる絶好のチャンスを見事に台無しにしていますね。
あれほど創価学会に興味を示してくださっている非学会員が
あなたのリアル友人でいらっしゃるでしょうか?
ただ平身低頭に
「学会に対し興味を示してくださりありがとうございました。」
とだけ言っておけば、
「ああ、MonLinGen管理人さんは何と寛大な人なんだろう。
こんな器の大きい人が創価学会にいらっしゃるのであれば、
私も創価学会に入ろうかな」
そう思える読者さんも出てきたでしょうに。
去る者を後ろから槍で刺すような発言は、
これを読んでいる非会員の読者に学会のイメージを低下させ
間接的に池田先生に弓を引く行為につながると思います。
葛西さん、長時間の対話をお疲れ様でした。
もし良ければ、いつでも私のブログに遊びに来てください。
あべひさんも来ておられますよ。(*^-^*)
石の上にも3年、気長にお待ちしております。
2018.3.11. 声
すみません、間違えて対話部屋に投稿してしまいました。
こっちに再掲しておきます。