東京オリンピック開催のニュースが駆け巡った直後、東京都庁・都市計画部の職員たちは、青ざめていた。
戦後の目覚ましい復興とともに東京には車が溢れていた。
毎年、3万台近くのペースで増加、都心の道路は、至るところで大渋滞が発生していた。
そこでオリンピック開催が決まる6年前、政府は慢性的な渋滞を解消するため、総延長およそ49kmに及ぶ高速道路を張り巡らせる計画を立案。
東京都と建設省に実行するよう勧告を行った。
しかし、用地買収に難航し、計画は一向に進んでいなかった。
そんな中、オリンピック開催が決定したのだ。
東京でオリンピックをやるとなれば、当然、開催期間中は世界中から選手や観光客が訪れる。
その数、実に4万人以上。
もちろん多くの日本国民も会場を訪れる。
連日、大渋滞が起きている東京にそれだけの人が1度に詰め掛ければ、都心の交通網は破綻。
オリンピックが失敗に終わるのは目に見えていた。
国民の悲願である東京オリンピックを絶対に成功させる…そのためには、高速道路を必ず完成させなければならかった。
しかし、実際問題、用地買収は一向に進んでいない。
計画は到底不可能に思えた。
だが…既存の道路や川の上に道路を造れば、用地を買収しなくて済む。
この時、建てられた計画…『空中作戦』!それは、日本初の試みだった。
こうして、本格的に始まった建設工事。
この時、作られることになった高速道路こそ『首都高速道路』、通称・首都高だった。
総延長は、立案時から更に増え、およそ71キロ。
しかし、これら全てをオリンピックまでに間に合わせるのは困難。
そのため、羽田に降り立つ観光客や選手を都市部へと運ぶ1号線。
更に、神宮の国立競技場と代々木の選手村とを繋ぐ3号線、そして、特に渋滞が激しい2号線と3号線の一部の区間、これらおよそ31キロを『オリンピック関連道路』と位置付け、開催日までに開通させる事を決めた。
こうして、オリンピック開催決定から、およそ20日後、特殊法人『首都高速道路公団』が発足。
いまだかつて前例のない『空中作戦』…その実現のため、公団は官民問わず、多くの技術者から志願者を集めた。
その中に、首都高建設に燃える男がいた…男の名は、仲田忠夫。
仲田は、1947年、都庁建設局に技官として就職。
すぐさま河川工事の現場に飛び込んだ。
当時、東京は大雨が降ると川が氾濫し、大きな被害をもたらしていた。
川の多くが自然のまま整備されていなかったのだ。
その解決策として、仲田は新しい『放水路』の建設に力を入れていた。
都民のより良い暮らしのため、尽力していた彼だったが…出世の道を捨て、首都公団に参加。
そして、そんな仲田と同じく熱い志を持って首都公団にやってきた男がいた…玉野治光。
この8年前、東京大学工学部を卒業し都庁建設局に入った彼が手がけたのは橋作りだった。
東京の橋は、戦争で壊滅的な被害を受けた。
橋がなければ物流も途絶える…復興のために橋は欠かせないものだった。
そんな橋作りの技術が首都高に活かせる、玉野はそう思っていた。
首都公団が発足して間もなく、設計部に配属された玉野は、高速道路の建設予定地を訪れたのだが…
そこは日本橋に程近い場所、計画ではここに3つの路線が立体的に交差する『江戸橋ジャンクション』を建設する予定だった。
3つの道路を支えるために必要となる橋脚は100本。
だが、それらを立てられる場所は、川幅わずか50mの『日本橋川』しかなかった。
もしそこに100本もの橋脚を立てようものなら…川を完全に塞ぐことになる。
もし、ここで流れを止めれば、水が溢れて都心に流れ込んでしまう。
さらに…羽田と都心を結ぶ路線でも、大きな問題が起きていた。
この路線の責任者となっていたのは、仲田だった。
東京湾内の埋め立て地にある羽田空港から都心へ向かうには、どこかで運河を渡る必要がある。
元々一般道路が2本通っていたのだが、慢性的な渋滞が起きており、オリンピック開催までに、何としてでも『新たな橋』が必要だった。
しかし、川沿いには鉄工所が建ち並び、鉄を運ぶ大型船の航路も確保しなければならない。
そこで、計画では滑走路のすぐ脇を流れる海老取川に、大型船が入ってきても通行できる、大きな橋を架ける予定だったのだが…
船が安全に航行できるようにその分 橋の高さを上げれば…今度は飛行機の離着陸に影響が出るとして、航空法に抵触する可能性があった。
実は、航空機の離発着に影響が出るとして、空港の半径4km以内には45mより高い建物を建てられないという制限が設けられていたのだ。
さらに、皇居のお堀の上に建設する予定だった高速道路にも、新たな問題が起きていた。
そこから『皇居が見下ろせたら、警備上問題がある』と、警察からストップがかかったのだ。
オリンピックの成否をかけた首都高計画。
しかし開始早々、3つの大きな問題が浮かび上がった。
1つ目は江戸橋ジャンクション。
川幅わずか50mの場所に、100本もの橋脚を立てれば、川をせき止めることになってしまう。
2つ目は、羽田から都心に繋がる路線。
飛行機の離着陸に影響があるとして、川に橋を架ける事が出来なかった。
3つ目は、三宅坂。
警備の関係上、皇居のお堀の上に高架道路を作る事は出来ない。
工事を進めるために、急遽、計画を練り直す必要があった。
毎日遅くまで、対策会議が開かれ、みんな必死に解決策を探った。
それにより、プロジェクトは新たな方向へと進みだそうとしていた。
まず、空中に建設できない皇居周辺の高速道路を地下に通すことにした。
その結果、三宅坂、平河町、半蔵門の3つの地点で車線が合流する、当時としては世界初、総延長7860mの地下トンネル…通称、三宅坂ジャンクションが作られることになった。
羽田と都心を結ぶ路線でも、同じく地下に高速道路を通すことにした。
もともとは海老取川に橋をかける計画だった羽田。
しかし空港からNGが出た以上、それは出来ない。
ならば、川の上ではなく、その下。
川底にトンネルを掘ろうと考えたのだ。
とはいえ上に川が流れている以上、トンネルを掘った時、地盤が崩れる可能性があったが、川を堰き止めて工事をすれば、2年で高速道路が出来る。
しかし、江戸橋ジャンクションは、この方法は使えなかった。
なぜなら、日本橋川の下には、当時すでに地下鉄が走っていたのだ。
そのため、江戸橋ジャンクションは当初の計画通り、『空中作戦』でいくことになった。
江戸橋ジャンクションでの問題は、橋脚の本数。
これを減らす方法さえ見つかれば、道路が作れるはず。
こうして3つの問題を解消すべく、3つの作戦が立てられた。
空中に道路を造る代わりに、地下にトンネルを掘る三宅坂の地中作戦。
橋の代わりに川底にトンネルを掘る、羽田の水中作戦。
そして最後は、橋脚を減らす方法を見つけ出す、江戸橋ジャンクションの空中作戦。
まずは、地下で路線が交差する、世界初の合流トンネル“三宅坂ジャンクション〟
チームを率いる玉野は、橋を作るスペシャリストでもトンネルは専門外。
何度も地下鉄の工事現場に出向き、トンネル設計の技術を一から教えて貰った。
オリンピック開催まであと4年と迫った頃…ついに、玉野率いる地中作戦が動き始めた!
しかもそれは画期的な方法だった。
一般的に、トンネル作りはシールドマシンを使い地中を掘り進める。
そのスピード、当時は一日およそ10m。
だが今回は、まず重機を使って地上に溝を造り、その上にコンクリートで蓋をしてトンネルにしていったのだ。
こうすることで、作業中の落盤事故を防ぎ、尚且つ、従来の約5倍、1日50mのスピードで掘り進める事ができる。
日本最初の地下鉄銀座線の工事で採用された工法を利用した、まさに最適な手段だった。
一方、仲田率いる水中作戦チームは、羽田空港そば海老取川の川底にトンネルを掘る計画を進めていた。
ところが…地元漁業組合の漁師たちからの猛反発を受けてしまった。
海老取川の河口で、代々海苔の養殖を行ってきた彼ら…トンネルを作るには、まず川を完全にせき止めた後、川底に道路となる溝を掘り、その上を覆う必要がある。
しかしその場合、最低でも数ヶ月、川が干上がることになる。
川からの栄養が断たれれば、河口付近にある養殖場は壊滅。
漁師たちの生活は成り立たなくなってしまう。
オリンピック開催まで、あと3年と5ヶ月。
羽田と都心を繋ぐ高速道路は、絶体絶命の状況に追い込まれていた。
空中作戦の『江戸橋ジャンクション』も玉野が率いていた。
3つの路線を合流、分岐させるには橋脚100本が必要。
しかし、道路の下は川幅が50メートルしかない日本橋川…そこに100本もの橋脚を建てれば、たちまち川はせき止められ、都心に水が溢れてしまう恐れがあった。
しかも、川の下は地下鉄が走っている。
トンネルを掘ることも出来ない。
その問題解決に連日 頭を悩ませていた時だった。
部下の前田邦夫から、梁を使った工法の提案があった。
梁とは、柱と柱の間を横に渡して、建物の重みを支える部分である。
当初、3つの路線が並ぶ江戸橋ジャンクションは、それぞれの道路に2本ずつ柱を置いて支える計画だった。
しかし、前田は3本の道路を梁で支えることで、大幅に柱を減らせると考えたのだ。
これは『立体ラーメン構造』と呼ばれる、日本初の橋梁技術だった。
その後、皆が一丸となって4ヶ月がかりで設計図を作成。
そして…ついに、新たな図面が完成!
これによって橋脚の数は、当初の3分の1に抑えることができた!
しかし、橋桁の問題がまだ残っていた。
橋脚の上に渡す橋桁は、基本的に直線に延びたものがほとんど。
しかし、3路線が立体的に交差する、複雑な江戸橋ジャンクションでは、曲線を描く特殊な橋桁が必要だった。
当時、そのような橋桁を作れる高い製作技術を持った鉄鋼所は少なかったのだ。
その頃…東京から遠く離れた北海道・室蘭で1人の男が苦しんでいた。
『日本製鋼所』の開発担当、鈴木晃。
日本製鋼所は、戦中、数々の軍艦の大砲を作ってきた。
しかし、戦後はGHQに操業を抑えられ、稼動はストップ。
代わりに、大砲の鋳造技術を活かして、鍋や窯といった日用品を製造し、何とか経営を繋いでいた。
しかし、鈴木はこの技術をもっと大きな事に活かしたいと考えていた。
その時だった、鈴木の元に1本の電話が掛かってきた。
その相手こそ…首都高建設を担っていた、玉野だった!
鈴木にとって、これは起死回生のチャンスだった。
こうして日本初の橋梁技術と、最高の鋳造技術によって、江戸橋の空中作戦は一気に完成に向けて、突き進んでいった!
一方、同じく玉野が率いていた皇居付近、三宅坂の地中作戦チームは、思わぬ事態に遭遇していた。
合流地点で、全く視界が確保できていなかったのだ。
現状では、合流してくる車がいつ現れるか分からない。
合流地点に至るまで、ある程度の距離、視界が確保できなければ、大事故につながる恐れがあった。
しかし、合流点の壁を外すと、トンネル全体の強度が落ち、もっと大変なことになる。
この問題を解決する案として浮上したのが、鋼鉄製の支柱だった。
合流点に至るまでの50mに、支柱を何本も並べることで、視界を確保しようと考えたのだ。
そのためには、出来るだけ細く、それでいてこれまでにない非常に強固な柱が求められたのだが…大阪に一件だけ『できる』と自信を持って答えてくれた会社があった。
水道管メーカーの『久保田鉄工所』だった。
明治時代から、都市のインフラを支える水道管を作るだけでなく、地下鉄構内の柱などにも使用される程の細く強固な柱を提供していた。
『久保田鉄工所』の協力で明るい兆しが見え始めた三宅坂の地中作戦。
地下鉄の建設方法を取り入れたことで、1日に50mという凄まじいペースでトンネルを掘っていった。
1962年1月、東京オリンピックまで2年9カ月と迫る中、4ヶ月以上も手付かずになっている現場があった。
川底にトンネルを掘る事を目指していた羽田である。
なぜなら…仲田が率いる水中作戦チームの事務所には、連日、漁師たちが詰め掛けていた。
トンネルを作れば、彼らの生活を奪う事になる。
それでも羽田と都心を結ぶ高速道路を作らなければならない。
仲田はどうする事も出来ずにいた。
そんな時、部下から電話が掛かってきた。
その電話を受け、仲田は漁業組合長・松原の家を訪ねた。
何度も組合長と話し合いを行ってきた仲田。
しかし、交渉は決裂…以降、組合長は仲田に全く会おうとはしなかった。
それでも、仲田は毎日、松原の家を訪れた。
すると…ある日、組合長が仲田を家に通してくれた。
しかし、組合長は工事を許したわけではなかった。
仲田は、組合長に、川は堰き止めず、さらに工事はたった1日で終わらせると言ったのだ。
それは、仲田たちが辿り着いた、大逆転のアイデアだった。
その頃、順調だったはずの玉野率いる三宅坂の地中作戦チームは、トンネル工事で予期せぬ問題に直面していた。
合流地点に、運搬車や重機の『排気ガス』が溜まる問題が起きていたのだ。
通常、トンネル内に溜まる排気ガスは、天井に取り付けた巨大な送風機によって出入り口へと送り出される。
しかし、ここは車線が合流するため、交通量も多い上に、その先に急カーブもある。
出入り口に風を送っても、ガスが溜まりやすくなっていたのだ。
このままでは、大事故になってしまう。
すると、プロジェクトの若手メンバーの山田が、調べたいことがあるから、少し時間を貰えないかと申し出てきた。
それから数日後…解決策が見つかったという。
交通量が多い上に、カーブしているトンネルではガスを抜くことは難しい。
そこで彼は、トンネルの側面に無数のダクトを設けて、そこから管を地上まで通し、ガスを抜くアイデアを提案したのだ。
実は、問題解決のために、彼は北海道から九州まで、全国、4000か所以上ものトンネルの換気装置を徹底的に調べ上げ、ヒントとなる1本のトンネルを見つけた。
それは、山口県と福岡県を結ぶ『関門トンネル』だった。
全長3.6キロの関門トンネルは長い上に曲がりくねっている。
三宅坂の地下トンネル同様、出入り口から排気ガスが抜け難い構造になっていた。
その内部に使われていた換気システムこそ、側面のダクトから地上へとガスを抜く方法だった。
その後、山田と玉野らは送風機のスペシャリストたちがいる『荏原製作所』に協力を依頼。
3ヶ月に及ぶ実験を繰り返し、ダクトから地上へと排気ガスを抜く換気システムを作り上げた。
そして3ヶ月後、換気ダクトが取り付けられた三宅坂の地下トンネルで、最終テストが行われた。
防火訓練を兼ねてのテストに、消防や警察も駆け付けていた。
煙がたかれ、実験が始まった。
もしこれに失敗すれば、トンネルを開通させるわけにはいかなくなる。
果たして…巨大送風機が唸りを上げると…側面に取り付けられたダクトがどんどん煙を吸い込んでいく!
トンネル内の煙は…消えていた。
安全性が証明されたのだ!
残す問題は、羽田の水中トンネルのみ。
組合長の松原を説得していた仲田は、とんでもないアイデアを口にしていた。
実は、部下らの電話で、オランダにたった1日でトンネルを作る方法があったと報告を受けていたのだ。
海外で行われていたトンネル造り、それは画期的なものだった。
まず工場で巨大な鋼鉄製のハコを作り、あらかじめ川岸までトンネルを掘り進めておいた場所へと運ぶ。
そして、ハコを川底に沈め、接合部を水に強い特殊なコンクリートで固めて繋げれば、川底を掘ることなく、トンネルが完成するというものだった。
その名も…『沈埋函工法』。
そして、ついに工事が認められた!
トンネルに必要な鋼鉄製のハコを作ることになったのは、日本の造船界を代表する『石川島播磨重工業』の技術者たちだった。
漏水実験を何度も繰り返し、ついにその姿を現した鉄の箱『沈埋函』、長さ56メートル、重さ720トン、圧倒的な大きさだった。
そして…東京オリンピックまであと2年と迫った時…巨大な沈埋函を沈める工事が始まった!
前例のない工事に、およそ200人の作業員が現場を見守っていた。
午後3時 巨大沈埋函が羽田の海老取川に到着。
3隻のクレーン船に吊られ、海の中へゆっくりと沈められていく。
海水の流れがあるため、位置を細かく修正しながら、1cmずつ慎重に沈めて行く。
設置作業が始まって、既に6時間が経過。
そして…巨大沈埋函は、1センチのずれもなく所定の位置に見事設置された!
空中作戦チームが川に立つ橋脚と戦った、江戸橋ジャンクション。
室蘭の鋼で作った橋桁が組み込まれ…完成したのは、オリンピック前年の1963年 12月21日。
そして、仲田らが率いた羽田の水中作戦チーム。
あの後、川底に沈めた沈埋函内部の壁を破り、トンネルが貫通。
そして自動車が走れるよう整備が行われ、羽田トンネルが開通したのはオリンピックの2ヶ月前、1964年8月2日のことだった。
更に、玉野たち地中作戦チームが何度もトラブルを乗り越え、完成させた、世界初の地下ジャンクション、三宅坂トンネル。
合流地点は、久保田製鉄所の細くて頑丈な柱のおかけで、トンネル内の視界は良好だった。
開通したのは3つのプロジェクトの中でも最も遅い、1964年 9月21日。
オリンピック開催まで1ヶ月を切っていた。
そして…開催の、わずか9日前の10月1日。
約31キロにわたるオリンピック関連道路の全線が開通!
羽田空港と都心、国立競技場と選手村が男たちの造った道路で1本に繋がったのだ!
そして、世界中から詰め掛けた多くの観客が首都高を利用。
そのおかげで、オリンピック期間中、大きな問題となる渋滞はひとつも起きなかったという。
オリンピックを観戦した者の中には、アメリカやドイツからきた道路技術者たちもいた。
彼らは、出来たばかりの首都高を見て、こう言ったという。
「これは私たちには絶対作れない、グレイトだ」と。