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東日流外三郡誌 朝日左衛門尉物語の形成過程

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2018-03-16 20:29:56
2018-03-16 21:01:14

東日流外三郡誌に収録されている朝日左衛門尉の物語はどう形成され、またそれが出来る以前がどうなっていたのかを考察してます。

 北奥羽戦国史の偽伝といえるもののひとつに、『朝日左衛門尉行安による、飯詰高楯城攻防戦』というものがある。
これは、天正6(1578)年に大浦為信(のち津軽為信)が津軽領主のひとつ・波岡北畠家を滅亡させた後、近隣の五所川原飯詰を領する朝日太郎左衛門尉行安の領地に攻め込むが敗北、朝日左衛門尉は蝦夷の酋長八重・佐助の協力も得て10年に渡り激闘を繰り広げ、天正16年ついに敗北した、というもの。
 が、この話は稀代の偽作者・和田喜八郎の偽書『東日流外三郡誌』とそれの影響を受けた本でしか確認できない記述である。
 東日流外三郡誌は既に完全否定されており史料価値は皆無であるが、この高楯城に関する記述はその後も一人歩きを続け、さらには『この飯詰高楯城が陥落した事をもって、津軽為信の津軽統一が完成した』とする言説が誕生し、あたかも史実であるかのようにネットやムック本などの一般雑誌などでいまだに再生産されている。マイナーな地方史であるが故に、誰も否定をする者もおらずに現状が続いている状態と言える。

 戦国期津軽地方の年代を巡る研究はいまだに議論がある。それは、戦国期のメインプレイヤーである南部氏と津軽氏の歴史叙述が食い違っていることに起因する。
 すごくおおざっぱに言えば、津軽為信の挙兵が、津軽正史では元亀3(1571)年であり、南部正史では天正18(1590)年とされており、この点を巡り様々な説が出て確定していない。津軽の統一時期についても、天正13年に油川を中心とした外ヶ浜地方を征服したとするのが津軽正史の記述で、南部正史は天正18年。天正16年説は見当たらない。基本的には津軽正史のほうが正しいとされてきたけれども、ここ最近では、一次史料の書状の再検討によって、南部正史も正しい可能性が出ている。(ついでにいうと、天正17年に前田利家の書状で津軽氏が南部に対する軍事行動を取っているのが明白なので、少なくともまだこの時点で津軽統一運動は終わっていない、と考えることが出来る)
 かように混沌とした研究状況なのに、更に偽史まで混ぜられたら大変迷惑で、東日流外三郡誌が出る以前の飯詰は実際どうなっていたのかを明らかにすることで、この偽史とそれに付随する言説をふっ飛ばしたい、と思って調べ始めたのだけれども、そうしたらこの偽伝の形成過程がおぼろげに見えてきた。


まず、朝日左衛門尉とは何者か。
実を言えば、この人物は江戸期の史料には一度しか出てこない。津軽編覧日記という寛政5(1793)年に編纂された津軽藩の官選史書の『古城古館之覚』という項に、

『一、飯詰村ニ山城有、館主朝日左衛門尉と云(割書)一説朝日佐殿共有』

としか書かれていない。至ってシンプル。津軽為信と戦った、とか、天正16年に滅んだ、とかも一切書かれていない。

では視点を変え、天正頃の飯詰地方はどう書かれているのか。
江戸後期に津軽藩士の由緒をまとめた『由緒書抜』に収録されている阿部勇蔵由緒書抜をちょっと長いけど引用すると、

『天正十三年奥瀬善九郎御征伐之砌は別而手配仕、御添心共申上候、其頃下之切之内飯積は南部領之事故、土民公之御下知を不相守事共御座候ニ付、同所可被遊御伐取御手配之処、喜良市と申所ニ八重・左助迚狄之首長両人罷在、色々之術を以御手配を相妨思召、御成就之程難計ニ付路地之案内等も能存可罷在儀故、新城白旗野之館より山越ニ牛之介罷越、先ツ右之状両人を討取可申旨被仰出、侍弐拾騎被差添同所江相向ひ、右両狄を討取、其段早速注進差立、夫より相馬沢脇道高鼻川と申難所を瀬踏仕、西口尻なしと申所より御馬入御先立申上、暫時ニ飯積領喜良市沢目迄無残所被御掌握に付、(略)同十六年先領所西浜城下并新城より農工商業之者引移し、弥以飯積御派成就之形申上候所(以下略)』

 という記述になる。ここで注目できるのは

・八重・左助という狄(蝦夷人・アイヌ)は出てきても、朝日氏の名前は一文字も出てこない。
・飯詰“地方”が切り取られた事は書いてあっても、”飯詰高楯城が陥落した”とは一文字とも書いていない。

 この点はかなり重要なので特に指摘しておく。
 また、同じ由緒書抜の対馬園太由緒書抜にも同様の記述があるが、そちらにも朝日氏の名前は出てこない。また、方々由緒書という対馬氏に関する由緒書も、もうひとつの対馬氏の由緒書である津島家由緒書にも、朝日氏は出てこない。江戸期の史料では、飯詰高楯城主朝日左衛門尉と、天正13年頃の飯詰切取とは結び付けて語られていないのだ。


対馬園太由緒書抜
『右先祖津島衛門太郎と申候而瑞松院様御代下之切金木ニ而御派仕度旨願之通被仰付候江共、往来難相成、其上喜良市ニ狄両人罷在近所江寄せ不申候ニ付、相馬之沢脇道たかはなと申所より川舟ニ而罷越、両狄ニも約束相究、金木ニ罷在候申上候処、弥御派可仕旨被仰付、且又右たかはな難所之旨申上候得は、何分飯詰御伐取可被遊候間、御案内可申上旨仰付、右衛門太郎御先立仕、飯詰西口尻無と申所より御馬入御伐取被遊候(以下略)』


津島家由緒書
『一、拙者三代以前の親右衛門太郎と申者
 相馬の沢に罷在候処、下之切の内金木と申所御派仕度と願い申候へ共、飯詰は南部の領分に御座候へば、道通し申義難申候その上忌良市と申し候所に佐助、おとなと申ゑぞ弐名罷在近所に寄申もの出いはりい申候に付、相馬の沢よりわき道たかはなと申し川を舟にて廻り金木へ志のび罷在右のえぞを色々にだまし、酒をのませ、けいやくに罷成、即ち金木に有付申候而其段右京様江両ゑぞだまし申由まで申上候へば一段の義仕候間御派可仕と被仰付候
 天正十六年右の古村へ人を遣し、めんめん引越申候後川道之たかはな難所に御座候由申上候へば、何とぞ仕飯詰を切取可申候間、案内可仕候由被仰付候に付、三代以前の親右エ門太郎御先立仕り、飯詰西口に志りなしと申所へ御馬を入御切取被為成候(以下略)』


(方々由緒書は津島家由緒書とほぼ同じ内容なので省略する)

阿部勇蔵由緒書抜との違いといえば、阿部~が天正13年に切取が行われて天正16年に移住が行われた、とされるのに対して、津島家由緒書では年号は分からないが蝦夷の首長2人を『約束相極』『色々にだまし』た後に天正16年に切取が行われていることだろうか。だがいずれにしても、飯詰高楯城の戦いなど見当たらない。

 では戦った記録はないのか、というと、一例だけ存在する。
 郷土史家である小友叔雄氏が昭和13年に出した著作、『津軽封内城址考』の飯詰城址の項では、後述する陸奥史談第四輯をほぼ引用した後、飯詰村沿革なる書物を引用して『一ノ坪城主に攻められ更に天正年間為信公に攻落されたとある、一ノ坪は飯詰の隣り村である。』と書いている。この飯詰村沿革については調査不足で不明だが、そのような伝承がこの当時あったものだろう。
 天正年間とも書かれているので、これを天正13年もしくは16年の飯詰切取の事と考える事は可能ではある。だが、それはあくまで可能、という事であって、この記録単体は根拠の薄い伝承であり、他の史書の記録とは直接には結びつかない。これも城主が誰であるかとは書いていないし、飯詰地方切取の際に落城したとも書かれていない。安易に他の史料と結びつけることは出来ないのだ。

 では、いつこの朝日氏と飯詰地方切取が結び付けられ、朝日氏激闘物語は誕生したのか。

 戦前の昭和11年発行 陸奥史談第四輯に、福士貞蔵という郷土史家が『とある郷土史研究者の苦心』と題する文章で飯詰城主に関する研究を行っている。
 その内容は、飯詰城主とされる記述は五説あり、その内のひとつは明治になって出来たものであると指摘した上で、当時西津軽郡下古川村居住の中野家主人と老母と談話し、様々な証言を引き出している。内容としては――飯詰の殿様の奥方はクケ穴より脱出し、その後下古川に落ち延び、そこに庵室を建てて殿の冥福を祈ったこと。木造町の実相寺はその後身であり、飯詰の七面様は内神であった事、祖先は上方の朝日と言う所から来た人間であり、下古川へ落ちてから姓を中野に改めたこと――などで、奥方は子を抱いて逃げたのか、また妊娠していたのか、と疑問を呈した上で、これらの証言から、『中野家をば館主朝日左衛門尉の後裔と断定せんとする者であるが無理でせうか、識者の教を俟つ』と記述している。
(中野家が朝日だったとしても、記述の内容的にむしろ殿様の家臣だった可能性もあると思うけど、それはともかくとして)記述された内容を読む限り、この時点で福士貞蔵氏は飯詰城の城主が誰であるのか、自説に自信はあれど確信が無いと考えられる。
その状態に転機が訪れているのが見て取れるのが昭和16年発行 陸奥史談第十三輯『郷土史料珍談集』で、この中で福士氏は阿部由緒記(つまり阿部勇蔵由緒書抜)と対馬由緒記(津島家由緒書)を根拠として、『忠勇義烈 朝日左衛門尉』という一項を立て、


『天正六年七月浪岡落城するや、其の幕下奥寺萬助原子兵衛神山左京等は、戦はずして城を明け渡した。
 矢はうつぼ刀は鞘に納まりて弓矢は更に浪岡の里
と、大浦勢は浪岡に骨節のある武士は無いのかと、笑つたのも無理の無い話である。然るに只獨り朝日左衛門尉藤原行安は、無援の孤城に立籠る事十一ヵ年、天正十六年城を枕に討ち死にし、浪岡の為に萬丈の気を吐いた』


 と、記述をしている。そしてこの記述は、まさに東日流外三郡誌の筋と一緒である。
 しかし、さっき言及したとおり、阿部勇蔵由緒書抜や対馬由緒記(津島家由緒書)には『朝日左衛門尉』は一切登場しない。つまり、福士貞蔵氏は、高楯城主朝日氏の存在と、飯詰地方の切取の史実を、直接の因果が確認できないにも関わらず結びつけ、浪岡北畠氏が滅亡した天正6年から、朝日氏が10年に渡り戦ったという推測を『史実』として公開したのだ。
 さかのぼって確認できうる限り、朝日左衛門尉と(由緒書抜などに見られる)飯詰地方の征伐を最初に結びつけたのはこの記事であり、福士貞蔵氏である。
 さらに前述の小友叔雄氏は、『津軽封内城址考』の新城白旗野館の項で、福士貞蔵氏の論を継承した上で、

『弘前市石見家所蔵の安部由緒書(注:阿部勇蔵由緒書抜)に「為信項は飯詰の朝日左衛門之尉を討伐せんとしたが、当時喜良市には八重、左介と云ふ二人の酋長が居て、朝日に加勢するので容易に討伐することができなかった。其所で為信項は新城白旗城主、安部孫三郎信友に侍二十騎を授け彼等酋長を討伐に向はしめたので安部は山越えして難なく征服せしめた」』

 と書かれている、と書いている。
 が、確認したように、阿部勇蔵由緒書抜に、朝日左衛門之尉を討伐せんとした、などという記述は存在しない。加えて、ここでは福士貞蔵氏の記述には無かった『八重・左助が朝日左衛門尉に加勢する』という記述が付け加えられている。蝦夷二人が朝日に協力する、という後の東日流外三郡誌の要素が、ここで誕生しているのだ。

 このように、朝日左衛門尉の物語は戦前には形が出来ていた。だが、戦前のこの段階では、記述に東日流外三郡誌の影響自体は見て取れない。ではいつからこの記述と東日流外三郡誌が結びつくのか。

 昭和24年発行の陸奥史談拾八輯に収録されている、福士貞蔵氏『藤原藤房卿の足跡を尋ねて』という文章では、諸翁聞取帳という『耳新しい史料』から高楯城系譜という系譜を紹介している。諸翁聞取帳は、東日流外三郡誌の大本になる最初期の本である。
昭和26年(1951)発行の飯詰村史でも、冒頭の年表に『天正十六年 三六五(去今年敷)高楯落城』とあり、また本文中でも『◎高楯城主の祖先』として高楯城系譜を紹介している。
 高楯城系譜中の朝日氏は、後醍醐天皇の側近藤原藤房が津軽まで流れたその裔であり、『天正十六年六月十八日戦死』と今までに無い(そして、東日流外三郡誌にのみ確認できる)記述が加えられている。
 また、飯詰村史において諸翁聞取帳を引用し、『天正七年三上定之亟は十助佐助八重等の夷人五人を以て千餘騎の大浦軍を破る云々』と記述し、さらに、『庄屋作左エ門覚書』なる史料から引用して、南部により浪岡城が襲撃された際朝日五郎左衛門が救援に赴いた、朝日顕房の娘は北畠親清の室である、等の記述を行っているが、この史料も東日流外三郡誌の一部である。
 昭和24年の時点で、今に続く朝日左衛門尉の原型が出来上がっているのだ。
 
 加えて言えば、朝日氏を藤原氏としたのも、諸翁聞取帳の脚色である可能性がある。陸奥史談第四輯で『佐藤(姓)は藤原であり』という小さな記述がされているのだが、どの藤原氏に連なる人物であるか、など他の史料には全く記述はなく、和田喜八郎はそこから話を膨らませた可能性が高い。


 以下、延々書いてきたけど、まとめるとこうなる。
 戦前に郷土史家・福士貞蔵氏が本来繋がらないふたつの史料を無理やり結びつけて作った説を、同じく郷土史家の小友叔雄氏が増補し、そして戦後、その根拠薄弱な説が東日流外三郡誌によって使われ、おおいに脚色・流布され、三郡誌が完全否定された後も単体でムック本やネットで広まり続けている――ということになる。

 史料から見える史実は、天正13年もしくは16年頃に飯詰征伐が行われ、二人の狄が成敗された、としか言えないのだ。
 もちろん、津軽封内城址考の飯詰城址項に『天正年間為信公に攻落された』という記述があり、陸奥史談第四輯の記述では、姫君が脱出している、という状況があるので、飯詰城が何らかの戦いで陥落した可能性はあるが、その時期は正確にはいつなのか、城主は誰なのか等は不確定と言わざるを得ない。飯詰村沿革の記述は出典が不明であるし、中野家の証言にしても、口伝の伝承レベルの話でありそのまま史実と受け取るわけにはいかない。そう断言するのであれば、もっと研究を進めてから言うべきである。
 少なくとも、福士貞蔵氏が作ってしまった『朝日左衛門尉激闘録』のような史実は存在しない。飯詰高楯城を巡る歴史叙述は、戦前の福士貞蔵が提唱した朝日左衛門尉の激闘よりも前に立ち返り、今一度再検討すべきだと考える。


 ――以上、自分が出来る限りの考察をしたつもりだけれども、不備があったらご指摘をいただければ幸いです。特に津軽封内城址考に引用されている飯詰村沿革がどこに載っており、どう記述されているのか確認したいので、知っている方おられたらお教えしていただけると大変ありがたい。
 不確かな記述やあるいは新説を、疑いもせずに利用しちゃうのは仕方ないことだとは思うけど、歴史を扱う雑誌である以上、何回かは点検した上で修正してもらいたい、と願うのはそんな大それた希望ではないと思うのだけれども。


・五所川原史 通史編 1
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・新編青森縣叢書第六巻 津軽封内城址考
・東日流外三郡誌 第四巻中世編(三)
・津軽諸城の研究
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・偽書「東日流外三郡誌」事件
・五所川原史ミニシンポジウム 飯詰城をめぐる諸問題

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帆船ハッカ @kotosakikotoko
陸奥南部氏(および北東北諸氏)歴史オタ。あくまで妄想こねくり回して遊びたいだけなので、史実はお星さまな適当なツイしかしません。創作・帆船・オタツイもしますんでご注意。 http://t.co/ZT6gVrEE http://t.co/v8WqVQhaZx https://t.co/zPp7FgN7sW
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