ミシェル・ンデゲオチェロの音楽の秘密とは? 柳樂光隆がカヴァー集『Ventriloquism』から振り返るその歩み
MESHELL NDEGEOCELLO『Ventriloquism』
ミシェル・ンデゲオチェロの新作『Ventriloquism』は、プリンスやTLC、シャーデーらの楽曲をカヴァーしたアルバムだ。ここで取り上げられているのは主に85年から90年にかけて発表されたR&Bやヒップホップのヒット・ソングで、68年生まれのミシェルが10代後半から20代前半にかけて愛聴していたであろう楽曲たち。本作はいわば自身のルーツを明かしたような作品だが、そこはミシェル・ンデゲオチェロ、やはり一筋縄ではいかない。ソウル・ミュージック、ヒップホップ、ジャズとジャンルにとらわれないサウンドを提示してきた彼女らしい独自の折衷感覚、そしてシンガー・ソングライター的な作家性がどの曲にも溢れており、懐古的なムードは皆無、実にフレッシュなアルバムとなっている。
そんな『Ventriloquism』をきっかけに、「Jazz The New Chapter」シリーズの監修者としても知られる柳樂光隆がミシェル・ンデゲオチェロの長きにわたるキャリアを紐解き、その音楽性を論じた。〈「Jazz The New Chapter 1」の裏テーマはミシェルの再評価だった〉と語る柳樂による以下の論考は〈ミシェル・ンデゲオチェロ入門〉としても読めるであろうし、画期的なミシェル論としても読める充実の内容となっている。柳樂が作成したミシェルのカヴァーと原曲とが交互に聴けるプレイリストも記事の最下部に掲載しているので、ぜひそちらを聴きながら読んでいただきたい。 *Mikiki編集部
ネオソウル? ヒップホップ? ジャズ? デビュー時から衝撃的だったミシェル・ンデゲオチェロ
ミシェル・ンデゲオチェロという人はずっと僕の関心の中心にいるが、いつまで経ってもその全容が掴めない人だ。ネオソウルの枠で語られることも多い彼女だが、ディアンジェロやエリカ・バドゥらソウルクエリアンズ周辺とも違うし、かといって、ジル・スコットあたりのネオフィリー系の人脈とも違う。どの作品に関しても、どこに置いてもしっくりこない。要は浮いていると言っていいし、困った挙句〈彼女はミシェル・ンデゲオチェロというジャンルだ〉みたいなことを言って済ませたくなる、それくらいに特異な存在だ。そんな彼女のキャリアはいつもとても魅力的だ。その上手く位置づけられないキャリアのなかには示唆的で、時に予言に近いようなものが埋まっていることもあるように思う。ここでは新作の『Ventriloquism』をきっかけに、彼女のキャリアを振り返りながら改めてその音楽について考えてみたい。
ミシェル・ンデゲオチェロは最初期の『Plantation Lullabies』(93年)、『Peace Beyond Passion』(95年)から既に才能がほとばしっている。両作には天才ベーシスト登場と言った雰囲気もありつつ、同時にヒップホップをも視野に入れた新しい時代のブラック・ミュージックが生まれつつあることを予感させてくれる。クレジットを見るとジェリ・アレンやデヴィッド・フュージンスキ、ジーン・レイク、更にはジョシュア・レッドマンまでがいて、敏腕の集まりと言った雰囲気があり、サウンドもかなりフィジカルで、彼女の出自がゴーゴーであることや、スティーヴ・コールマン『Drop Kick』(92年)やスティーヴ・リーマン『Demian As Posthuman』(2005年)などにベーシストとして参加するMベース人脈の敏腕であることがよくわかる。
一方で、スクリッティ・ポリッティの名盤『Cupid & Psyche 85』(85年)にも貢献したデヴィッド・ギャムソンの力を借りていることもあり、強力な生演奏と共に密室的な雰囲気が同居しているのが面白い。それはどこかスタジオにこもり、全ての楽器を自分で演奏し、それを重ねた多重録音で音楽を生み出していたプリンスとも通じるものでもあり、そのサウンドが若干ジャズ的なことを考えれば、プリンスを強く意識していた80年代のマイルス・デイヴィスがマーカス・ミラーらと作っていた『Tutu』(86年)あたりのサウンドを思わせる部分がある。ただ、ミシェルはそれを更に洗練させ、90年代におけるその完成形を提示しているようにも思える。
例えば、ミシェルの作品では、個々の楽器がレイヤーされていたり、もしくは楽器が並走しながらも機能的に作用したりしていて、そこではメロディーに対してハーモニーを付けていくようなオーソドックスな編曲作法で得られるわかりやすい情感が失われるが、その分、音楽は即物的でクールで軽やかになる。生演奏によるフィジカルな人間味を軸にしながらも、編集や編曲により人間的な情感をそぎ落としたようなサウンド――そこには、人間と機械の対立ではなく、新たな関係性の構築とそれによる新たなフィーリングの獲得へのチャレンジがある。それもまたマイルスやプリンスにも共通するところでもあるような気がする。
プリンスとマイルス――生演奏とプログラミングの中間にある新しいサウンド
また、僕のミシェルの音楽に対するイメージはドラムの特徴的なサウンドにもある。彼女の音楽は最初期のころから、フルセットのドラムが想像できないような音がしている。2つ、もしくは3つくらいの太鼓でサウンドが作られている印象があり、スネアとシンバルだけとか、様々な組み合わせはあるものの、一貫してドラムの音色が限定されていることがほとんどだ。そして、同時に手数も多くない。音色と音数が指定され、的確に打ち込まれているようなドラムが鳴っている。それはプリンスがソロやタイムなどの時にリンドラムで打ち込んでいた音と同じような雰囲気がある。ミシェルはバンドでミュージシャンに演奏させることにかなりこだわりはありつつも、まるで打ち込みのようなドラムを叩かせている部分がかなりあるのだ。
それは『Comfort Woman』(2003年)がわかりやすい。全編ダビーでコズミックなバンド・サウンドを聴かせるこのアルバムでは、クリス・デイヴの起用法が実に特殊なのだ。生演奏でヒップホップのビートを叩くために、イレギュラーなサイズや音色のスネアやシンバルをいくつもドラムセットに追加していることでも知られるクリスのその音色やテクスチャーは活かしながらも、曲ごとに限られた音色だけを指定して叩かせ、手数もグッと抑えさせている。クリスの奔放さは抑え、彼が持つ音色の美しさやタイム感、繊細な表現に注力させることで、他では聴けない彼の魅力を引き出している。
クリス・デイヴが4曲で起用されている『The Spirit Music Jamia』(2005年)でもそれは変わらない。絞り込んだ音色と手数で機械のようなクールな正確さを求めるリズムは一聴してモノクロームだが、その白と黒の枠の中で奥行きや立体感を表現できるクリス・デイヴや(フライング・ロータスなどにも起用される人力テクノ・ドラムのパイオニアの)ディアントニ・パークスのような名手を参加させることで、ミシェルの作品でしか聴けないサウンドが鳴っている。
そんなサウンドを生バンドのアンサンブルとして生み出す部分と、多重録音でレイヤーを重ねながら作るような部分を高度に共存させているのがミシェル・ンデゲオチェロの音楽なのだろう。全ての楽器をアンサンブルとしてまるでパズルのように組み上げながら、同時にそれを生演奏でグルーヴさせる彼女の音楽は、生々しさと作り物感が同居した実に奇妙で美しいものだと思う。
その奇妙さは、90年代以降のヒップホップ以降の〈ビートメイカー〉の感覚というよりは、80年代のプリンス的な〈多重録音〉の感覚に聴こえるから、なのかもしれない。生演奏とプログラミングの狭間にある新しさを表現していながらも、(そして、同じようにボブ・パワーが関わっていながら)エリカ・バドゥやディアンジェロとはどこか違うのは、そういったプロデューサー的感覚の差異に起因するのかもしれないとも思うし、プリンス同様に彼女自身が誰よりも個性的な〈演奏者〉であるからかもしれない。その後、ヒップホップに振り切った『Cookie: The Anthropological Mixtape』(2002年)をリリースして高い評価を得る(し、僕も個人的に大好きな作品だ)が、その後、彼女が同じような路線のサウンドをやらなかったのは、そんな自身の音楽性とヒップホップとの相性を考えたからかもしれない。
ちなみにミシェルがジャズ・ミュージシャンと共にジャズに挑戦したと言われている『The Spirit Music Jamia』は、ミシェルの方法論を70年代のエレクトリック・マイルス的なサウンドやオーガニックな音色とテクスチャーのなかでも実践しようと試みた1枚とも言えるかもしれない。マイルス・デイヴィスそっくりの演奏を得意とするトランぺッターのウォレス・ルーニーの起用をはじめ、ウェイン・ショーターのようなプレイを聴かせるケニー・ギャレット、ピート・コージーのようなギターを弾くブランドン・ロスが聴ける“Ai-Falaq 113”にはマイルスを意識していることがはっきりと感じられるし、“Papillon”ではジョー・ザヴィヌルっぽいシンセも聴こえる。だが、そこには70年代マイルス的な混沌ではなく、80年代マイルス的なレイヤー感とコントロールされたサウンドが聴こえてくるのが面白い。そして、ジャズ・ドラムの巨匠ジャック・ディジョネットを全く自由にさせないことで彼の美しい音色やタイム感を引き出した“Luqman”を含め、多くの楽曲でドラムを叩くクリス・デイヴに関しても、ドラム・サウンドの美意識はこれまでと変わらない。
『Ventriloquism』でも聴ける、ミシェルのシンガー・ソングライター路線
そんなミシェルの新作『Ventriloquism』は、彼女の魅力的な声によるシンプルな歌を軸にしたサウンドで、近年の彼女の作品で聴かれるシンガー・ソングライター的な路線のアルバムだと言えるだろう。
この路線は『Bitter』(99年)から既に始まっていたもの。『Bitter』ではプロデューサーにロックやジャズ、フォーク、ブルース的なサウンドを得意としているクレイグ・ストリートを迎えている。歌に比重を置いたサウンドは、その前の『Plantation Lullabies』、『Peace Beyond Passion』での彼女からかなり印象が変わっているように感じる。ただ、前述したような音楽性の核の部分はそんなに変わっていないとも思う。『Devil's Halo』(2009年)、『Weather』(2011年)、『Pour Une Ame Souveraine: A Dedication To Nina Simone』(2012年)、『Comet, Come To Me』(2014年)といった近作はシンガー・ソングライター路線の流れのものと大雑把に言っていいと思うが、歌が中心にあっても、プリンスやマイルスを意識していた彼女らしい作編曲があり、アンサンブルがあり、音のレイヤーがある。ドラムも手数も音色も絞られていてミニマムな音だ。ちなみに、ミシェル同様プリンスもまたジョニ・ミッチェルから影響を受けていて、フォーク的なセンスを持っていた音楽家だった。ライヴでたびたびニック・ドレイクをカヴァーするミシェルによるこの路線は、ある意味でプリンスのフォーク的な要素を引き継いだ側面もあったのかもしれない。
『Weather』はジョー・ヘンリーがプロデュースしただけにカントリーやブルースの色が濃厚だが、ジョー・ヘンリーが持っている音響的なセンスがミシェルの多重録音的な感覚と噛み合っていて、オーガニックななかにも彼らのコラボらしい異物感がある。『Pour Une Ame Souveraine』では、ニーナ・シモンのトリビュートということもあり、50~70年代的なザラッとした手触りのジャズ、ブルース、フォーク、ソウル、ゴスペルのサウンドが印象的で、生バンド感がかなり強い。ただ、聴けば聴くほどに疑似的なバンドサウンドにも聴こえてくる違和感があるのが実にミシェルらしい。この2作も、シンガー・ソングライター的要素が特に強い『Devil's Halo』もそうだし、『Comfort Woman』のアップデート版のようなダブ感もある『Comet, Come To Me』もそうだが、一聴、表面的には違うスタイルの音楽に聴こえるが、すべて、これまでに語ってきたようなミシェルの作品の根っこにある部分は共通している。そして、それは言うまでもないが『Ventriloquism』にも共通している。
独創的なカヴァー・アルバム『Ventriloquism』の魅力
全曲がカヴァーで構成された『Ventriloquism』はその選曲が興味深い。リサ・リサ&カルト・ジャム、アル・B・シュア!、プリンス、TLC、ジョージ・クリントン、ラルフ・トレスヴァント、ジャネット・ジャクソン、フォース・MDs、システム、ティナ・ターナー、シャーデーといったアーティストのヒット曲が選ばれているが、95年にリリースされたTLCの“Waterfalls”を除いて、すべて85年から90年までの5年間にリリースされたものだ。アコギ弾き語りのプリンスの“Sometimes It Snows In April”を除いて、すべてが80年代ど真ん中のサウンドで、オリジナル・ヴァージョンはDX-7、TR-808、リンドラムの音色が溢れている。ミシェルはそれをオーガニックな弾き語りに替え、全く違う手触りで解釈している。ただ、繰り返して言っているように、80年代的な多重録音のサウンドやドラムマシン的なリズムの感覚がもともとインストールされているミシェルには扱いやすい楽曲なのかもしれないと感じるほど、どの曲も実に自然だ。
また選曲に関しても明確な特徴があるように思う。ほとんどの曲はループ的な構造になっていて、〈Aメロ~Bメロ~サビ〉といった構造のポップ・ソング的な曲ではなくて、あまり展開しないまま終わるような曲ばかりが選ばれている。そして、いわゆるR&B的にエモーショナルに歌い上げるような曲もほとんどなく、温度感が高くない楽曲ばかりだ。それは、アル・B・シュア!の“Night And Day”やTLCの“Waterfalls”、ジャネット・ジャクソン“Funny How Time Flies(When You're Having Fun)”などを聴けば一目瞭然だろう。
ミシェルはそういった楽曲の特徴的なメロディーやフレーズを抜き出して引き延ばすようにして、歌モノの形に落とし込んで歌っている。“Waterfalls”やラルフ・トレスヴァント“Sensitivity”のように、原曲ではラップが盛り上がりを作っている曲もメロディーだけを抜き出して再構築している。なかにはジョージ・クリントン“Atomic Dog”のように歌がメインではなく、一瞬、歌的なものが現れたり、コーラスだけが聞こえていたりする曲さえあるが、ミシェルは原曲のなかからメロディーになりそうなフレーズを抜き出し、主旋律として作り変えて、曲の隠れた魅力を炙り出している。ジャズ・ミュージシャンによるカヴァーのように、そういった落とし込み方に彼女の解釈がかなり入り込んでいるのも、このアルバムを独創的なものにしている理由だろう。
そんな楽曲たちをミシェルは実に丁寧に歌う。メロディーの音の運びがどちらかというと平坦で、テクニカルな要素があまり入り込まない楽曲の特徴を逆手にとって、自身のハスキーな声の手触りや、細やかなニュアンスの表現などを最大限に活かすように響かせている。曲によって声色や発声、ブレスの量を変えている細やかな変化にも舌を巻く。フレーズではなく、自身の音色や手触りやタイム感などでその楽曲の最良の部分を引き出しながら自身の個性を宿らせるという意味では、本作でのミシェルの表現は実にジャズ的だ。
それは、80年代のマイルス・デイヴィスがマイケル・ジャクソンの“Human Nature”やシンディー・ローパーの“Time After Time”を極めてシンプルに処理しながら、しかし、どこをどう聴いてもマイルス節にしか聴こえない名演にしてしまっていたことに似ていると僕は思う。さらに言えば、そのマイルスの“Time After Time”をもとに、トランペットの演奏を歌に置き換えて名唱を残したカサンドラ・ウィルソンの手法とも似ているかもしれない。ミシェルはそんな歌の表現を長い時間をかけて研ぎ澄ませてきたのだろう。その声はトーク・ボックスやオートチューンなどを使わなくても、特別な情感やテクスチャーを歌に乗せることを可能にしている。そしてその歌唱表現はシャーデーが持っていたものとも共振している。
そんな歌のバックはこれまで以上に要素を削ぎ落としたアレンジだ。少ない楽器と音数でありながら、テンポが遅くダークな雰囲気があるが、少ないパーツをパズルのように組み合わせながらレイヤーさせ、ギターや鍵盤のロングトーンと残響、そして、ミシェルの声が持つアンビエンスを効果的に使い、そこに少ない手数と色合いのクールなドラムのグルーヴと響きを組み合わせることで、音楽が機能的に厚みを持っているのも彼女の音楽のすごさだ。べたに音を重ねずに、スカスカに聴こえそうな音の組み合わせを巧みに〈響かせる〉ことで機能させる術は、彼女がそのキャリアのなかでたびたび奏でるレゲエのサウンドにも顕著だが、新作ではそのアンサンブルの妙が極まっている感がある。
ハイエイタス・カイヨーテのネイ・パームと比較することで見えるミシェルの真価
最後にひとつ。僕はこのアルバムのなかでは“Atomic Dog”に惹かれている。原曲と全く異なる西アフリカ的なサウンドを取り入れたアレンジが冴えているのが素晴らしい。実はミシェルは、『The World Has Made Me The Man Of My Dreams』(2007年)でマリのシンガーのウム・サンガレや南アフリカのシンガーのサンディスワ・マズワイなどを起用し、その当時から自身のサウンドにアフリカの音階やフレーズを組み合わせている。ウム・サンガレが歌った“Shirk”ではパット・メセニーがギターを弾いていて、西アフリカの弦楽器であるンゴニやコラ的な奏法を入れつつ、現代的なプレイを聴かせてくれる。“Atomic Dog”では、“Shirk”よりもさらに西アフリカの色が強くなっているが、その洗練度は高く、極めて自然な歌モノとして昇華されている。
この感覚はハイエイタス・カイヨーテのネイ・パームのソロ作『Needle Paw』(2017年)とも通じるものだ。そういえば、メロディーに和音をつけるようなポップ・ミュージックの作法ではなく、もっとプリミティヴでポリフォニックなアプローチを駆使しながら、それをヒップホップやビート・ミュージック以降の編集/ミックス感覚でまとめるというネイ・パームのサウンドは、ビョーク、もしくはミシェルに通じるものなのかもしれない。ネオソウルというタームがしっくりこないネイ・パームだが、ネオソウルの枠にミシェル・ンデゲオチェロも加えれば違和感が薄らぐのは確かだ。
これまではその才能を紐解きづらかったミシェル・ンデゲオチェロだが、ネイ・パームという同じようなレベルの才能が現れたことで、その真価が見えやすくなってくる気がしている。その時に『Ventriloquism』は、彼女の才能を紐解くための鍵になる重要な作品になるはずだ。様々な音楽から影響を受けながらも、それをイミテーションではなく自らの表現として解釈し、昇華すること――アウトプットできるミシェルの手の内のほんの少しではあるのだろうが、そんなことをこのアルバムが教えてくれるからだ。