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スナック花水木⑧

キタノさんは話を続けた。

「タエにせがまれて、お情けで抱いてやったのさ。だけど、あまり気が乗らなくてよ」

カウンターからタエさんが私達の様子を窺っていた。それが気に障ったようで、舌打ちをした。

「俺に抱いて欲しがるなんて、図々しいにも程がある。まるで男とヤってるみたいで、興醒めだったよ。だからキツめに縛り上げて、お仕置きしてやったのさ」

酷い…こんな男なんかに…

「俺の好みはやっぱりミホだな。あのエロい尻がたまらん。だけどミホは、案外ガードが固くてさ」

私は返す言葉もなく、黙っていた。どこかでも飲んできたらしく、もう目が据わっていた。

「おい、ユキ。お前も特別にうんと可愛がってやろうか?」

「いいえ…結構です」

「俺と寝たら、若造となんかもう二度と出来なくなるぞ。

なあ、俺にもヤらせろよ。マーテルの社長よりも、この俺の方が絶対に…」

私はグラスを掴み、立ち上がった。

「いい加減にして!この変態野郎!」

声を張り上げ、キタノさんの顔めがけて水割りをぶっかけてやった…

 

だけどそれは、虚しい妄想だった。

へらへら笑うキタノさんの前で、私は下を向いたまま、怒りに震えるだけだった。

どんなに悔しくても、黙って我慢するしかない。

タエさんが、そうしているのだから。

ここは、例え自分が傷ついても、人を傷つけても、それを無かった事のようにして、生きていくしかない場所。

誰も助けてはくれない。誰か助けて…

 

その時だった。

マーテルの社長が、店に入って来た。

「何だ、今日はいっぱいだな。座る所もないのか」

「ここに座ればいい。俺はもう帰るから」

キタノさんが立ち上がり、急いで帰ろうとしたので

「それじゃキタノさんに悪いから、一緒に飲もうよ。なあユキ?」

私は返事をしなかった。マーテルの社長の姿を見た途端に緊張の糸が切れて、泣き出しそうなのを堪えていた。

「どうしたユキ?何かあったか?」

「いいえ、何も…」

何もなかったようには見えない、不穏な空気を感じたのだろう。

「…そうか。でもなユキ、困った事があれば、俺に何でも言いな。

ユキを苛める奴がいたら、俺がぶん殴ってやる!」

マーテルの社長は殊更に大きな声で言ったので、こちらに視線が集まってしまった。

「こう見えても俺、ケンカは強いからさ」

「嫌だわ社長ったら!暴力反対!」

ミホさんが茶化したので、皆が笑った。

(マーテルの社長、まるでガキ大将みたい。それに、だったらもう少し早く来てよね)

私は笑いながら、目尻の涙を拭った。

 

その日の仕事が終わってから、私は花水木の社長に店を辞めると告げた。

私にはもう、店にいる理由がなかった。

「借金は返しただろうし、そろそろ潮時かと思っていたよ」

「すみません。やっぱり私、夜の仕事は向いてないみたい…」

「そんな事はないだろう。うちで一番の太客を捕まえたんだから。

でも、仕方ないな。そろそろアイも戻って来るし、戻って来なければまた、外に張り紙を出すさ」

花水木の社長は優しく笑った。そして、辞める事を店以外の誰にも話さないようにと言われ、約束した。

 

あれからキタノさんは、店に来ていない。

あのカワダさんは、また時々来るようになった。アイちゃんがまだ戻って来ないので、寂しそうにしている。

マーテルの社長は相変わらずで、酔うといつもの「女の子を産んでくれ」が始まった。

「嫌です。それに、もし産まれたのが男の子だったら?」

「そりゃ、男でも責任は取るさ」

「責任を取るって、奥様と別れるという事ですか?」

「いや、俺は家内とは別れない」

「じゃあ無理。私は誰かの愛人じゃなくて、奥さんになりたいんだから」

「何だよ、じゃあ別れたら一緒になってくれるのか?」

「なりませんよ。奥様とお子さん達に恨まれるの、嫌だもの」

私達は、夜毎に同じお伽話を繰り返した。結末を知っている、いつものお伽話を。

「ユキは何が欲しいんだ?」

そう言われてみれば、私は欲しいものがない。

洋服を貰っても合わせる靴がないし、バッグを貰っても洋服がないのだから。

強いて言えば、冬に備えてストーブが欲しいけれど、言えばまた皆に貧乏臭いと笑われるのだろう。

「指輪かな。でも、普通の指輪じゃだめ。ダイヤモンドの婚約指輪か、結婚指輪ね」

「やっぱり指輪かぁ」

「ふふっ、今のは冗談ですよ」

「ユキはいつが誕生日だい?何か買ってやるよ」

「私の誕生日は、9月…でもプレゼントはいらないの。9月には私もう、ここにはいませんから」

「えっ?ここを辞めるのか?いつ?」

「明日。明日がラストです」

私はつい、花水木の社長との約束を破ってしまった。

「どうして急に?何かあったのか?

ダメだよユキを辞めさせるなんて。俺から社長に文句言ってやる!」

「そうじゃないの。最初から夏だけ働くつもりだったの。

黙って辞めようと思ったけど、やっぱりマーテルの社長にはちゃんと挨拶しておきたいから…」

「何だよそれは、俺は嫌だ、ユキがいなくなったら、俺もうこんな店なんか、来ねえからな」

「そんな事言わないで。どうか、今まで通りにお願いします」

「他の店に行くんだろう?どこの店か教えてくれよ」

「他の店になんか行きませんよ。私はもう、夜の仕事はしません」

「そうか、解ったよ」

マーテルの社長は、肩を落として帰って行った。

 

やっぱり怒らせてしまった…

花水木の社長の言う通りにして、黙って消えた方が良かったんだ。

 

でも仕方ない。もう来ないなんて言ってたけれど、マーテルの社長はきっとまた来てくれる。

9月のスナック花水木には、可愛いアイちゃんと新しい女の子がいて、私の事などすぐに忘れてしまうだろう。そして酔っぱらうと「俺の子を産んでくれよ」と、甘えるのだろう。

辞めた後の事は、何ひとつ決めていなかった。でも、夜に咲く花のフリをするのはもうお終い。

自分が自分らしく居られる場所がどこにあるのか、解らないけれど…

 

 

花水木の最後の出勤日。

客はまだ、誰もいなかった。

「ユキちゃんが辞めちゃうなんて、寂しくなるよ」

「本当よ。ねえ、ユキちゃん、考え直す気はないの?」

「ごめんなさい。ほんの短い間でしたけど、お世話になりました」

「いつ戻って来ても、いいんだからね」

店が次第に忙しくなってきた。これが最後の夜だから、私なりに頑張ろうと思った。

すると、ゆっくりと扉が開いて、真っ赤なバラの花束を抱えた人が入って来た。

マーテルの社長だった。

「ユキ、ほら、花を買ってきたぞ」

「わあ!すごい花!これをユキちゃんに?」

「そうさ。今日はユキのラストだからな!」

社長の顔が、上気していた。

「へへ、俺『ここにあるバラを全部くれ!』ってやつを、一度でいいからやってみたかったんだよ。

だけど、あの花屋め、今日はバラがだいぶ売れちゃって、もうこれしかないんだとさ」

それでもバラは、50本もあった。

見ていた他の客も「ユキちゃん、今日で終わりなのか」と、口々に言い出した。

「ほら、いいから早く受けとれ」

「すごく綺麗な花束…社長、ありがとうございます」

「さあ、今夜は飲むぞチクショウ」

 

マーテルの社長は、怒っていなかった。

いつものように、陽気に飲んで、歌って。

それでもいつもより早めに切り上げて帰ろうとした、その帰り際に

「俺の本当の名前を言うからさ、ユキの本当の名前も教えてくれよ」

と言われた。

私はほんの一瞬だけ、本当の名前を教えようかと迷った。けれども

「言いたくなかったんでしょう?いいよ、言わなくても」と返していた。

私とマーテルの社長の人生は、もうこれっきり。交わることのない放物線を描いて、遠ざかっていけばいいのだ。

 

私は大きなバラの花束を抱えて、アパートの部屋に帰った。

22年間生きて、いいえ、その後の人生に於いても、あれほど大きな花束を受け取ったのは、この一度きりである。

その花束を私は躊躇せずに、45リットルのゴミ袋に詰め込んで捨てた。

ごめんね、バラの花達。

さようなら、マーテルの社長。

さようなら、花水木。

こうして私の、22歳の夏が終わった。

 

 

 

 

 

一年後。

私は、元彼と結婚していた。

 

花水木を辞めて、少し経ってからの事。

私は何故そうしたのか解らないけれど、以前一緒に暮らしていた彼のマンションを訪ね、何となく切り出した。

「また、戻って来てもいい?」

 

「好きにすれば」

本当にどうでもよさそうに言われたのに、私は半年住んだアパートを引き払って、彼のマンションに戻って来た。

「全く、猫じゃあるまいし。いなくなったり帰ってきたり」

「姿が見えなくなった猫が帰ってきたならば、もう少しは喜びそうなものなのにね」

そして、何かに流れされるようにして、私達は結婚した。

 

結婚して半年後の春だった。

私達はまた、引っ越しをした。通り沿いに咲いた桜を見ながら、二人で近所を散歩していた。

街路樹はまだ若木のソメイヨシノだが、綺麗に咲き誇っていた。風が吹くたびに花びらが雪のように舞い上がった。

花吹雪の向こうから、ベビーカーを押した中年の夫婦が、ゆっくりと歩いてきた。

ベビーカーの赤ちゃんは、よく眠っていた。とてもとても小さな、まだ産まれて間もないような赤ちゃんだった。

その家族と私達が、ちょうどすれ違うその時に、父親であろう男性と目が合った。

 

あっ…

 

その人は、マーテルの社長だった。

マーテルの社長はもっと前から、私だと気付いていたのだろうか。

困ったような照れ笑いをしていた。

あの頃とちっとも変わらない、懐かしい笑顔…

私は会釈もせずに真っ直ぐ前を向いて、そのまま通り過ぎた。

 

赤ちゃんはきっと、女の子だ。

良かったね、社長。本当に良かった。

 

 

 

「知り合い?」

「ううん。知らない人。赤ちゃん、すごく可愛いかったね」

 

 

 

END