現在は東京在住にて日本各地で講演、執筆活動などされている評論家・潮匡人さん。京都にお立ち寄りの際、お時間を頂戴してインタビュー。現在に至るご自身の生き方やものの見方に母校である鴨沂高校がどのような影響を与えてきたのかという点から、今、鴨沂高校について思う事、大切にすべき事について語っていただきました。
「鴨沂高校はまさに無形財産である。それらを失い、普通の学校、普通の人間になりたいのか。」
<生い立ち。そして鴨沂高校に至るまで>
青森県で生まれてすぐ、親の仕事の関係で転勤を繰り返し、中学から高校と京都で過ごしました。
母方の大叔父は大日本帝国の海軍の軍人で連合艦隊の参謀長、父方は父、祖父、曾祖父に渡り判事や検事。中学は近衛中学で当時は京都大学、吉田神社の鳥居のすぐ側で暮らしていました。当時は母方の、戦前まで検事で戦後GHQによって公職追放され、その後弁護士をしていた祖父と同居していました。
鴨沂高校に進学した理由というのは、自ら選んだという訳ではありません。当時は蜷川政権が進める教育制度の中で、小学区制で僕の居る学区は否応無しに公立高校だと鴨沂という事だったし、他には私学という選択しか無かったけれど、当時は学力の高い私学の高校と言えば小・中学校からエスカレーター式の所しか無かった、という頃でした。確か、大阪の小学校に通っていた頃に私立を受験するか公立中学に行くかという事を親に聞かれた覚えはあるけれど、京都の事情も知らないので公立の近衛中学に行くと答えた記憶があります。
僕らの頃の公立高校の受験倍率は1.07倍と、まずほとんどの中学生が公立高校に進めたのですが、これは中学の段階でそもそも公立か私立かの選択を中学校側によって振り分けされていた事によると思います。そんな訳で、自ら望んで鴨沂に進んだという訳でなく、選択肢が自分には鴨沂しか無かった、という時代でした。
当時の鴨沂高校と言えば「不良」のイメージが強くて、かつては「東の日比谷、西の鴨沂」と言われた程の進学校神話も崩壊していました。
自宅から学校までは自転車で毎日通っていたんだけど、ある時、確か2人乗りだったかで警察官に職務質問されてね。「どこの学校だ」と言うから「鴨沂だ」と伝えると、「ああ、あそこか」とばかりにそれで去られたように覚えています。
高校の頃はいわゆる不良仲間と授業をさぼっては京大の百万遍付近の路地を入った、ビートルズの曲ばかりかける喫茶店に入り浸ってましたね。お昼なんかは学校の側のお店でご飯食べて、タバコ吸ったりなんかして。僕は事前にその日その日、どこの店に教員が見回りに行くかという情報を仕入れて流すような事をやっていました。
そう言えば1年生の時に家庭訪問みたいなのがあって、担任が僕の素行の悪さを母親に告げ口しました。「一番の悪だ」「おたくのような立派な家系でどうして息子さんは素行が悪いんだ」みたいな事を言うもんだから、母親はきっぱり、「そんな事を言われる筋合いは無い。学校生活の間の事は、学校で責任をもって欲しい。家ではちゃんとしてますから」みたいな事を言ってのけたのを襖越しに聞いてました。ちなみに、僕の母親は京都府立第一高等女学校の出身。母親にしてみれば一方では自分の母校はエリート女学校だったから、そのままのイメージもあって、自分の息子が鴨沂高校に行くという事に抵抗感はある意味無かったんだと思います。また、母の父親である僕の祖父は、旧制高校の頃に集合写真で学生服の詰襟をみんなちゃーんとボタンを留める中で一人、前ボタン全開で中に大きな星マークの入った丸首シャツを着てポケットに手をつっこんだまま写ってるような人でね。勿論戦前の事です。生涯に渡って破天荒で規格外な人で、そういう親を持つ母親だったから多少の事は慣れてるという所もあったんでしょう。僕のDNAも、確実にそこからきてるな、と(笑)。
そんな訳で、鴨沂では当時配られていて足りなくなると購入する事が出来た欠席カードの冊子に、僕はまず親のハンコをかりて全ページに捺印して、それを使い切る程学校をさぼって、あと遅刻何回でアウトなんてすれすれで学校生活を送っていました。だから、成績はオール3くらいだったと思います。最後の方にはもう1日も休み無しなんて状態になって、40度の熱が出てもヘロヘロで這うように学校に通った記憶があります。
<70年代後半頃の、在校中の争点>
在校中、鴨沂生がバイクの二人乗りで警察官をはねて亡くなるという事件がありました。
バイクを運転していた学生は当然つかまったんだけど、その後ろに乗ってた学生は検挙されず、名乗り出る事も明らかになる事もなくて、捜査も躍起になって行われていたんだけれど、父親も祖父も法曹の家でしたし、高校時代から法律書を読んでいたので、「自ら出頭する義務は無い」「質問に答える義務も無い」なんて入れ知恵していたように思います。
このような事件もあって、僕らの頃にバイクに乗ってはならないどころか免許を取る事自体が禁止されてね。これが学内で大きな争点になった3年間でした。鴨沂高校は市内の高校の中でも当時いち早くバイクが禁止され、3無い運動というのがつくられて「免許は取らない・バイクは買わない・バイクは乗らない」という事になったもんで、僕は生徒部に行っては「法律上では免許がとれるのに乗れないとするのはおかしいだろう」と詰め寄ったりしてましたね。鴨沂には夜間の定時制もあって20歳以上の学生だって居るし、当時は普通科の他に商業科もあったので、それぞれの事情や家庭環境もあって、この一律規則で被害を被る人間だっているだろうみたいな事を訴えていました。
(※鴨沂高校においてバイクの3無い運動が正式に学校として生徒指導方式を決めたのは昭和50年10月との事。大きなきっかけとなったのは、昭和50年4月に起きた、バイク自損事故による学生の京都府綾部での死亡事故、続いて上記の警察官への死亡事故だった。その後、昭和56年度から、バイクの後ろに乗せてもらわない、を追加して4無い運動になった。=昭和57年3月発行のOur School Ohki誌5号140~144頁参照。)
自治会活動には直接関わる事はしませんでしたが、当時は暗黙の慣例のようになっていた、代々リベラルな立候補者が結局選挙で勝つという自治会に「面白くないな」という気持ちもあって、ある時の選挙で、当然勝つ事が見越されていた、親が左派議員の息子に対して、僕ら仲間3、4人でクーデターを起こして対立候補を立てたんですよ。これが結構健闘してね。で、最後の弁論大会の時になって、自治会長有力候補の彼は「このままではこれまでの鴨沂の自治会を継承する事が出来なくなる」みたいな事を言って泣いたんですよ。僕らとしては、「泣くなんてありかよ!」と思いましたが、結果は泣いた彼が当選。僕らの推した対立候補は落選しました。当選した彼はちょっと見栄えの良い男だったから、結局、女子票がそれで動いたんじゃ無いかというのが、僕らの選挙結果の分析でしたね(笑)。
<鴨沂で自己を増幅し、また刺激され、そして今がある。>
先にも述べたように僕の家は代々続く法曹の家だったから、大学には行こう、司法試験は当然受けるつもりでいました。模試で全国7位、京都では3位をとったもんだから、もうこれだけやれば後は遊んでても大学に行けると思ってね。先に言ったように、遊びほうけてました。進路先に関しては、自ずと司法試験合格者実績の高い大学はどこか、という事であれこれ選んで自分の中の答えが早稲田大学の法学部でした。調べると、近くに日本女子大もあるし「何かいいことあるんじゃないか」なんて、そういう男子学生らしいリサーチもしていた訳です(笑)。で、滑り止めに関西大学。当時の鴨沂高校の進路部は熱心に機能してなくて、これら情報は全て、自分で見出したものでした。
ちなみに、京都大学という選択は最初からありませんでした。京大生ともなれば、自宅から通えてしまってこれまでの環境と何ら変わりの無い事になってしまうし、実家や人間関係の狭い京都から抜け出したい、どうせ抜け出すなら「花のお江戸」だろうという事もありましたね。何故東京大学で無かったのかと言えば、本屋さんにいち早く並ぶ問題集なんかが私立大学対策のものなので、それらを片っ端から見ていたら、気付いたら東京大学の受験のタイミングを失っていた(笑)。ただ、僕の同級生なんかは当時の僕の素行を知っているので、現役で早稲田に受かったなんて今だ信じていないと思います。
今の僕が垣間みれるエピソードだと、高校の時に書いた論文「共産主義とその批判」というものがありましたが、当時の社会の先生には「君の考え方は間違ってる」「君はインテリだからこういう考えになるんだろうな」と言われたような記憶があります。逆にこっちも「唯物史観に沿って教育するのはあなたの大好きな憲法に反するんじゃないですか」なんて先生に楯突いたりしてね。けれど、そういう僕の考え方を全否定するという風潮は無かったように思うし、今もその先生の事は覚えています。
鴨沂高校は当時、教職員が熱心に組合系の活動をしていて、職員室にも堂々と「メーデーの意義!」なんて横断幕を掲げていたし、実際、メーデーの日には学校が休みだったり。どう考えても破天荒というか、ユニークな学校だったなと思います。そんな訳で、昨今はそうした学校のムード自体を上の方はどうやら煙たがるんだろうけど、よく右側の言われる所の日教組うんぬんの話も、「左教育を受けても俺みたいなのが出るんだから」と周囲には言ってます(笑)。
僕にとっての鴨沂高校というのは、自身のアイデンティティーを増幅された、刺激された、そんな学校だったと振り返ります。
早稲田に入学し、週刊誌で「歴代総理を輩出した早大雄弁会の研究」といったタイトルの記事に興味をもって雄弁会に入会。その後2回生で幹事長にまでなってしまいました。そこでの体験は、このまま大学を卒業して普通の就職をするという事に対する抵抗感を持たせました。3回生からは南青山で暮らし始めて六本木などで遊びほうけてコネ枠で決まった某有名広告代理店を入社もせずに留年。そこで親からの仕送りが止ってしまったもんだから、防衛庁正門前のカフェバーでバイトしたりして食いつなぎ、東京放送(TBS)の契約社員になった頃、女性キャスターから「航空自衛隊の制服って恰好いいね」なんて言われたりした結果、自衛隊への道を選びました。私服の公立小学校から自由服(私服)の近衛中学、鴨沂高校、そして大学を卒業し、就職してから初めて「制服」を着た訳です(笑)。
高校時代の東大受験同様、司法試験も受験すら出来ませんでした。
自衛隊に入って、大学院にも行かせてもらいながら防衛庁広報紙の編集長をやっていました。ある時「私はこれで自衛隊を辞めました」って記事を打ち出し、当時の朝日新聞が「変わる自衛隊」なんて見出しで社会面トップ記事でそれを取り上げたりして、大きく物議を醸して自ら出る杭になってしまったり。また航空総隊司令部というところで、日米共同作戦計画等も担当。結局階級的には軍隊でいう少佐にあたる三佐まで行き、11年半ほど在籍しました。
その後は出版社に入って書籍編集の仕事をし、現在に至ります。
<固有を捨てて普通になる事に価値は無し>
記憶を辿って思う事は、当時の鴨沂高校には、現在大きな社会問題とされているいじめや不登校といった問題なんて、まるで無かったんじゃないかと思うんですね。
これは僕の持論ですが、結局カギカッコつきの教育をすると、そうすればする程抑圧されて、歪みが生じて様々な問題が起こるんじゃ無いかと思うんです。まあ、不登校という点で言えば、僕のように授業をさぼる事が不登校に当たるんじゃないかと指摘されると苦笑いですが、いや、僕は学校に行きたく無かった、学校が楽しく無いから行かなかった訳じゃ決して無い。学校の他にも楽しい事があっただけに過ぎなくて、それは今起こっている教育環境でのそれとは、根本的に問題が違うと思うんですよ。だから規則で縛っても、それではまた別のストレスがかかってしまう。
制服に関してもそうですが、重ねて言うように僕が居た中学は自由服の近衛中学でつまり私服通学、そして鴨沂でも私服。大学の頃は帰省するたび祖父に「なんだ、その女みたいな髪型は、今すぐ散髪しろ」と強要されつつも通した長髪にパーマ。つまり大学を出て自衛隊に入った時に、初めて制服というものを着たんですよね。髪もスポーツ刈りにして。その時初めて、「何故制服を着なきゃいけないものなのか」なんて事を色々考えたりしました。なんとも自分にとって違和感というか、変な感覚だったんです。まあ、自衛隊だし仕方無いか、なんて解釈しましたが。
いずれにせよ、これからも鴨沂が大事にすべき所というのは、ひとつひとつの伝統や校風を個別で取り上げると下手をすれば歪んでとらわれるからなかなか難しい。よく言われる「自由」と言っても、その後に「自由には責任が伴う」などとロジックが続くと解釈が複雑に分かれて生じるし、じゃあ例えば「仰げば尊し」のような学校行事なのか、「私服」であった事を伝統として指すのかとすれば、それぞれに意見があるだろう。が、僕は、それらに色んな意見や解釈があって、それぞれで異なっていても、それこそが「鴨沂」であるのでは無いかと思うのです。つまりこれまで通りで良い。何も、変えてしまうことなど無いんです。
今思い出しても、鴨沂高校というのは実に面白い学校だったし、それが何か、と一言で説明する事など到底出来ない。これまで善し悪しに振り分けられる鴨沂らしさというものは、それらの全てが鴨沂であった訳で、悪しきものを無くす、というつもりであろう現在行われている事も、それらを全て消してしまって、僕としては「そんなに君らは普通になりたいのか?」と聞きたい所です。今の大人にも、それなりに若い頃には色んな夢があった筈。今や鴨沂を普通の、どこにでもあるような学校にしてしまって、「当時一体あなたは普通のサラリーマンになりたかったか?母校が横並びの学生を育むような環境になってしまうのに賛成していいのか?」と問いたい。
これは、日本という国に対しても言える事かもしれないけれど、僕は仕事柄、講演などで日本各地に行くんですが、いまや何処に行ってもその地方の特徴というのが失われているように思うんです。おおよそ、国道沿いにはユニクロがあって、スターバックスがあって、ファストフード店やファミレスがあって・・・と、今自分がどこに居るのかというのが分からなくなる。駅前やかつての繁華街はどこもシャッター商店街になって、一方でようやく、地産地消が叫ばれるようになってきた。各地方の特色というものについて、今、日本は真剣に考える時期にきている。ここ京都に久々に帰ってきても、京都らしいと言われるような祇園あたりの素敵な町家バーの横に、ありがちな風俗店がぎっしり並んでいる。つまり、何処も同じような問題を抱えているんですよね。
日本各地には、多くが戦火で焼けてしまってその土地の特徴が奪われてしまったという事もあるんだけど、京都は幸い、大きく戦争の被害を受ける事が無かった。であるにもかかわらず、戦争を乗り越え、爆撃から逃れた建物をわざわざ自ら破壊するなんて、こんな馬鹿げた話は無いと僕は思うんです。
校舎に関して言えば、鴨沂高校はその前身である女学校という歴史を継承している立派な伝統がある訳で、それは覆し様の無い事実なんだから、やはりそれは貴重な母校の歴史として大事にしないと。
これまで内側でも間違っていたんじゃないかという事は、そうした歴史と伝統をきちんと継承してこなかったという点も責任として大きい。もしかしたら、僕の在校中には学校側もひょっとしたらその歴史なりを説明してくれていたのかもしれないし、僕も若くてそういう事には興味が無かったから記憶に無いだけかもしれないけれど、少なくとも、印象に残るような教育のされ方は無かったな、と振り返ります。NHKの大河ドラマで新島八重の事があった時、全国放送で自身の母校の前身である女学校で奉職していたなんて知った時はひっくり返りましたよ。そんなの僕ら、知らなかったぞ、と。当時の鴨沂の教育では、もっと大きなというか、政治問題やら社会問題やらは熱心に教えられてたけれど、「自分の学校に関わるこんな大事なこと、コレくらいの事はちゃんと教えろよ」とは思いましたね。安保闘争やなんかにかまけて、いざ、自分の足下の学校の事すら、ちゃんと教育してなかったじゃないか、とね。
結局の所、そうした事がすなわち、今回の校舎解体においても、大きく陰を落としているんじゃないかと思う訳です。あまりにも多くの関係者が、鴨沂高校の基盤である女学校時代から続く歴史をちゃんと知らずに居た事で、軽んじてしまっているというか、逆に言えば、もっとみんなが良く知れば、それら全てを大切にしなきゃならんだろうという気持ちに繋がるのではと思います。
それに現在行われている校舎破壊は、時代に逆行している行為でしょう。東京駅を始め、全国各地で歴史ある建造物を残して活かす事は今や時代の流れだし、地元京都でも町家をそのまま活かして飲食店などが入るなど、当たり前の事になってきてる。そういう意味でも、今鴨沂で行われている事はむしろ流行遅れです。残す方法など、いくらでもある。新しい教育環境など、壊さなくとも内部改修でいくらでも方法は見出せる。そもそも今行われようとしている事は、果たして最新とすべく教育改革であり、また教育環境なのか、と。
新しく校舎を建て替えた所でいずれはどうせ古くなるんだし、逆に言えば古いものは古いままだからね。新しくしてしまって、確かに数年は綺麗だろうけど、そんなものはいつかすぐに時代遅れになってしまう。新しい事ばかり追っても、それじゃあ次から次へと追い続けなきゃならない訳だから、そんな事よりもむしろ、今あるものを出来るだけ活用して、機能面に関してだけは今日的環境にあわせて少し改修すれば良い話。
校風で言えば鴨沂のそれは無形財産であり、これまでの学校の歴史の文脈を物語る校舎は文化財。
それらの「固有」を捨てて「普通」になる事に価値は無いと思います。
<在校生または若い卒業生らへのメッセージ~型が在るからこそ、型破りな人間になれる>
歌舞伎には「型破り」「形無し」という言葉があります。
日本の伝統文化には全て、様式美に見られるように形・型があります。それこそが伝統であり、流儀であり、形式なのです。つまり、こうした型があってこそ初めて「型を破る」事が出来るのです。逆に言えば、型が無いという事はつまり、単なる形無し、という事になります。
鴨沂高校には、その歴史的文脈である女学校の歴史が存在します。そこには長く古い貴重な歴史が存在するのです。それこそが歌舞伎で言う所の「型」だと思います。それらを大事にして継承してこそ、「型破り」になれる。「型破りな人間」になれるのです。
人間の理性に過大な信頼を置かないというのが僕のスタンスで、日本には千数百年に渡って受け継がれる伝統の中に、恐らく答えというものはあるのではないかと考えます。これを僕はいつも木になぞられて、この垂直線を大事にしろ、それは永遠の真理に向かって伸びる木なんだと言っています。
つまり、この木は自身のコアになるもので、鴨沂生の場合には、鴨沂と、その基盤となった女学校の伝統がそれに当たります。そのコアを大切にする事が、自身の中でブレない支えのようなものになると思うし、これまで鴨沂にはこうしたコアがあったからこそ、たくさんの型破りな人間を輩出してきたんじゃないかと思います。
鴨沂高校にはこうしたオリジナリティーの基盤となるコアが存在するのです。それら長きに渡り存在してきたものを自ら壊す事を望んでいるとしたら、だとすれば重ねて言うように「君たちはそんなに普通になりたいのか」と尋ねたい。鴨沂高校における、普通じゃ無いこと、普通じゃ無かった事はすべて、かけがえの無い財産なのです。
もっと簡単な例を挙げるなら、教育で言えば英語は今や不可欠な教科でありグローバル時代といわれる昨今には大いに教育として必要。だけれど、日本語もまともに喋れない人間が真っ先に英語を習ってどうするんだ。つまり、自分が日本人である以上、日本の事、自身のコアとなるものを知らずして世界に出て何になる、海外で日本の何が語れるんだという事とつまり、問題は一緒なのです。
今、そこにあるものは、もしかしたら若い頃には気付かないかもしれないし、例えば校舎においてもその価値というものが分からない人も居るかもしれないけれど、それが分からないまま、知ろうともまた守ろうともせずままに居れば、いつかきっと必ず、その失う事、継承しなかった事を確実に後悔する日が来ます。
どこにでもある高校という普通名詞で鴨沂を終わらせるのか、それとも伝統が刻まれた唯一無二の高校とするか。
鴨沂らしさというものを大切にし、伝統を継承しまた伝えて行くという事を、この学校を選び、また学んだからには自覚して欲しいと思うのです。
<プロフィール>
潮 匡人 1978年(昭和53年)卒業。(1977年度・昭和52年度卒)
1960年(昭和35年)青森県八戸市生まれ。早稲田大学大学院法学研究科博士前期課程修了。卒業後、航空自衛隊に入隊。第304飛行隊、航空総隊司令部、長官官房勤務等を経て三等空佐で退官。その後、書籍編集者(クレスト社)、シンクタンク客員研究員、聖学院大学専任講師、帝京大学准教授、参議院議員の制策担当秘書等を経て現在に至る。拓殖大学日本文化研究所客員教授。東海大学海洋学部非常勤講師。公益財団法人・国家基本問題研究所客員研究員。NPO法人岡崎研究所特別研究員。著書、TV出演等多数。