前回は、アメリカで1990年代半ばに起きた「愛国」をめぐる論争について書いた。
[参考記事]
●アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている
論争の発端は、哲学者のリチャード・ローティが『ニューヨーク・タイムズ』紙に「非愛国的アカデミー“The Unpatriotic Academy”」という記事を投稿し、「国」という大きな物語を認めない文化サヨク(多文化主義者)を批判したことだった。
これに衝撃を受けた哲学者のマーサ・ヌスバウムが「愛国主義とコスモポリタニズム」を雑誌『ボストン・レビュー』に寄稿し、これに著名な知識人が応答することで「愛国」をめぐる議論が巻き起こった。
前回指摘したのは、この論争においてアメリカの知識人が、自らを「愛国者(パトリオット)」としつつ、「国家主義(ナショナリズム)」を批判していることだ。しかし考えてみればこれは当たり前で、アメリカの歴史観では、第二次世界大戦とはリベラルデモクラシーを守るためにドイツや日本の“偏狭なナショナリズム=ファシズム”と戦った「愛国者の戦争」だった。
アメリカでは、「愛国主義(Patriotism)」と「国家主義(Nationalism)」はまったく別のものと扱われている。アメリカの知識人は誰もが「愛国(パトリオット)リベラル」なのだ。
ところが戦後日本では、愛国的な国家主義運動が国を悲惨な戦争に引きずり込んだとの歴史観から、「愛国」と「国家主義」が同義になってしまった。その結果、「愛国」は右翼の独占物になり、「愛国=国家主義」を批判するリベラルは「非愛国者」すなわち「反日」にされてしまったのだ。
今回は、1980年代後半に(当時の)西ドイツで起きた「歴史論争」から、ドイツにおける「愛国」について考えてみたい。
憲法を守る政治的立場はドイツではリベラル
アメリカの「愛国論争」では、「愛国者でありつつコスモポリタンであることは可能か?」が問われた。保守派の知識人(共同体主義者)は、「生まれ故郷への“愛”を単純に世界全体に広げるようなことはできず、そんな教育はアメリカに対する“愛”を壊してしまう」と批判した。
このとき彼らが拠って立ったのが、アメリカ独立の父祖たちが起草した憲法典だ。保守主義というのはその国の文化や伝統の尊重を求める政治思想だが、アメリカの保守思想とはリベラルで近代的な憲法典の理念を「保守」する立場なのだ。
ここに、近代啓蒙思想の「人工国家」であるアメリカと、日本のように近代以前の歴史のある国とのちがいがある。
フランスの「保守」は、1789年のフランス革命の理念を掲げる政党(共和党)と、中世からの伝統であるカトリックや王政の時代を回顧する政党(国民戦線/FN)に分裂し、それに社会主義政党(社会党)が対峙する構図が前回の大統領選までつづいた。日本の場合、保守派は明治維新、リベラルは米軍占領下での民主化という、日本の近代史のふたつの屈折点のいずれを「保守」するかで定義できるだろう。このように、同じ「保守」であっても、それぞれの国の歴史によって内容は大きく異なるのだ。
アメリカの「愛国論争」では、リベラルな憲法典を保守すべきだという「保守派」と、“愛国”を世界まで拡張すべきだというリベラルなコスモポリタンのあいだで議論がたたかわされた。それに対して今回紹介するドイツの「歴史論争」では、ナチス=絶対悪という硬直した歴史観を相対化し、現代史のなかに置きなおす「国民愛国主義」に対し、これを「歴史修正主義」とする社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスらの「憲法愛国主義」が対決した。
ドイツ憲法(基本法)は敗戦後に連合軍の勧告によって制定され、その“戦後憲法”を「保守」するのがドイツのリベラルだ。ソ連崩壊前の西ドイツと東ドイツに分断されていた1980年代後半に勃発した論争だが、その構図はいまの日本とよく似ている。ここで注意すべきは、憲法を守る政治的立場はアメリカでは保守だが、ドイツではリベラルへと「反転」していることだ。
日本の「歴史問題」はアメリカよりドイツに近いが、そこには明らかなちがいもある。
日本の戦後民主主義は戦前と戦後を画然と分け、戦前を「暗黒時代」として描くことで戦後の「光の時代」を際立たせようとしてきた。それに対して保守派は、これを「偽(フェイク)歴史」として、戦前と戦後の連続性を強調することで対抗した。保守派が東京裁判を敵視するのは、「戦前から戦後への大転換」というリベラルの歴史観を否定するためだ。
だがドイツでは(とりわけ歴史論争が起こった冷戦下の西ドイツでは)、こうした「民主憲法批判」は起こりようがなかった。ドイツの現代史にとって「戦前」とはナチスの時代であり、これとの連続性を強調すればネオナチになってしまう。さらに「民主憲法」は、当時の東ドイツや東側諸国とのイデオロギー対決で自らの正当性(自由主義)を示す武器であり、西側陣営に属することの証でもあったのだ。
|
|