「美味しい」を信じる
われわれの味覚や嗅覚は、そのとき「身体」が必要とするものに対して「美味しい」とか「いい香り」というように「快」を感じるようにできています。
たとえば、漢方薬を風邪のように半日から一日単位で「身体」の状態が変わっていく病態に用いてみると、ひき始めの急性期にふさわしいクスリ(葛根湯など)はその時期には好ましく感じますが、発汗を経て急性期が過ぎるとあまりおいしくは感じられなくなります。
つまり、クスリ自体はまったく同じものであっても、「身体」の状態が変化することによって、その感じ方はダイナミックに変化するのです。
これは、食べ物全般についても当てはまることで、私たちの食欲は最も正確にその時の「身体」が必要とするものを「食べたい」として教えてくれ、そしてそれを食べて「おいしい」と「身体」が喜ぶようにできているのです。
ただし、「私は○○が好物だ」「もったいないから食べてしまおう」「高価なものだから食べよう」といった「頭」由来の「偽の欲求」が関与している場合には、食欲がそのノイズによって撹乱させられてしまい、この原則が当てはまりませんので、注意が必要です(「偽の欲求」を見分けるコツを大まかに言えば、固定的・打算的・人間関係への配慮など非生理的な要素の混入があるかどうかという点にあります。詳しくは前連載の第9回をご参照下さい)。
「身体にいいから」は、身体に良くない!
現代人の食生活に関する問題は、これ以外にも多々あげられますが、いずれも問題のエッセンスは共通しています。それは、本来の「身体」によって食べる食生活が軽視されてしまい、不完全な知識に振り回されて、「頭」で食べるような食生活になってしまっているということです。
特定の知識や習慣に振り回されることは、それが部分的にはどんなに「正しく」見えても、即興性を持つ動的な生物としての人間にとっては、決して常に「正しい」とは言えないということを、私たちは知っておかなければなりません。
TVなどで「○○が身体にいい」となれば、その食品が急に市場で品薄になる現象もあるようですが、しかし、少なくとも大自然にある食材はことごとく何らかの意味で、われわれの「身体にいい」ものであるはずです。むしろ、そのような一面的知識に振り回されて、自然な食欲を無視して同じものを食べ続けるほうがはるかに有害なのです。
大切なことは、私たちがその時の自分の「身体」が何を欲しているのかという声を歪みなく聴き取れるように、日々心掛けることです。つまり、「今、自分は食べたいのかどうか?」「今、自分は何が食べたいのだろう?」といった感じで、自分の「身体」にていねいに耳を傾けてみるのです。
「身体」の声が聴き取れる状態とは、先ほどの図で言えば「頭」と「心」(=「身体」)の間の蓋が開いているような状態に相当します。これが、精神的にも身体的にも最も自然で好ましい人間の状態です。
「うつ」のみならず人間の不健康な状態とは、「頭」が独裁的に肥大化し、「心」(=「身体」)を無視したことによってひき起されるものです。私たちの日常の基本である食生活で、「自分の食欲に耳を傾ける」というささやかなことを心掛けるだけでも、自分自身のバランスは少しずつ自然な調和を取り戻してくれることになるのです。
次回は、「ムラ的共同体」と日本人の生きづらさというテーマについて考えてみたいと思います。