このような算術的発想は、人間という生命体を機械と部品のように捉えた「死んだ」人間観にもとづいていることに留意しなければなりません。
動物には、基本的にある程度は必要な成分を合成する力があるので、草食動物がタンパク不足になったり、精進料理を食べているお坊さんが栄養失調になったりはしないものです。
たとえば、糖尿病や肝機能障害を内科医に指摘され、食事制限をするよう言い渡されている方が、逆にその食事制限がストレスになって経過が芳しくないことは珍しくありませんが、そんな方にあえて「本当に食べたいものを喜んで食べる」ように勧めてみたことがあります。通常の内科的発想ではあり得ないと思われるかもしれませんが、この方法できれいに治ってしまったケースを、私は実際にいくつも経験しています。
もちろん、これは安易に一般化すべきことではありませんが、わたしの行なったことは、要点だけを言えば、「量」だけの算術的発想のところに「本当に食べたいもの」「喜んで」といった「質」の観点を導入して、その人の閉塞的状況を打開したということなのです。
人間の身体を機械と見なした算術的発想からすれば、私の行なったアドバイスは一見非常識なものに見えるかも知れませんが、しかし、むしろ人間の精神の存在を度外視してしまって、足し算引き算の発想でしか問題を捉えられないことが問題なのです。
つまり、なぜそのような身体疾患が出現したのか、その人が偏った食生活に陥っていたのはなぜか、といった精神生活も含めた全人間的な視点で問題にアプローチすべきなのであって、これを行わずして、通り一遍の機械論的人間観にもとづいて「量」的な食事制限を行なっても、うまくいくはずはないのです。
身体に良いから……という本末転倒
――これ身体にいいらしいから、食べてみない?
こういった食べ物の勧め方も、今日では決して珍しくないものになっていますが、現代人の食生活が「頭」優先になってしまっていることが、こんなところにも表われています。
この場合の「身体にいい」というのは、栄養学的知識にもとづいた価値判断です。しかし、栄養学的知識だけでは、人間を機械として固定的に捉えてしまっているので、即興的で動的な生き物として捉える視点が不足しています。
真の意味で「身体にいい」ものとは、「頭」の仕入れた知識などによらずとも、本来は「心」(=「身体」)側が「食べたい」という自然な食欲の形で教えてくれるものです。「身体」は、その日その時の体調に合わせて、その時に必要なものを間違いなく教えてくれるものなのです。
本来の「心」(=「身体」)が発する自然な食欲は、毎日同じものを食べたがったり、過剰に何かを欲したりしないものです。たとえば、寒い日には体を温めるものを欲し、暑い日には体を冷やしてくれるものを欲するようになっていたりと、見事なバランスを発揮してくれるのです。
哲学者ニーチェも、次のように述べています。
わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、――その名が「本来のおのれ」である。君の肉体の中に、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。
君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部 肉体の軽侮者より 手塚富雄訳中公文庫)
このように、われわれの「身体」とは、「頭」の理性などをはるかに超えた、信頼に足る見事な判断を行なってくれる場所なのです。