突然ですが質問です。もしも、あなただけが「明日からおかね【money】がまったくの価値を失い、ただの紙切れになってしまう」ことを知ってしまったとしたら、いま、手元にある紙幣をなにに変えたいと思いますか??唐突すぎる質問ではありますが・・・ひとによっては『家』と答えるひともいると思います。あるいは『水や食料』と答えるひともいると思います。またまた、モノは必ず尽きるときが来るからと『畑』とか『航空券』とか『南国の土地』なんてものに変えるひともいるかもしれません。さて、あなただったらおかねをなにに変えたいと思いますか??
坂爪圭吾は、おかねをおはなに変えたいと思いました。とか言うと綺麗事マックスに聞こえるかもしれませんが、昨日、ホワイトデー企画として能動的におはなを配りながら「これはあながちナンセンスなことではないぞ・・・!」と思いました。普通、どうしたって人間的な考え方とすれば『どうすれば自分や自分の大切なひとたちが生き延びることができるか』的な考え方をするものだと思います。自分自身にも、そういった部分は多分にあります。だからこそ、お金を家や食料や生活に必要なものに変えたいのだと思います。が、お花を配りながら感じることは莫大で、うまく言葉にできないのですが『自分のために生きるより、ひととのつながりを強固にするものにお金や時間を使った方が、結果的に豊かな人生を過ごせるのではないだろうか』ということを思いました。
天国にも、地獄にもなる。
天国と地獄は同じ場所にあるというたとえ話があります。それは、このような物語でした。4人の男女が食卓を囲んでいます。食卓の上には、それはそれは豪華な食事が並んでいます。しかし、4人の男女の指先には、ものすごい長さのおはしが括り付けられて固定されている状態になります。これは地獄も天国も同じです。が、そのあとの状況がまったく変わります。地獄では、誰もがその長いおはしを使ってどうにかこうにか料理を食べようとみんなもがくのですが、あまりにもおはしが長いものですから、誰ひとりとして自分の口まで料理をまともに運ぶことができません。誰もかれもが苛立ちを覚え、癇癪を起こし、最終的には食卓をひっくり返して料理もなにもかもを台無しにしてしまいます。
天国も、指先におはしが固定されている点は同じです。しかし、そこにいる誰もがみんな朗らかな様子で料理を楽しんでいます。なぜか。それは『自分のおはしを使って、互いに食べさせあっていたから』です。地獄とは、とにかく自分が食べることだけを考えているひとたちの集団です。天国とは、互いに食べさせあっているひとたちの集団です。どうしてなのでしょうか、私は、新潟市内在住の方におはなを届けるために昨日車を走らせていたとき、この『天国と地獄』の話を謎に思い出していました。そして、ああ、いつの間にか自分自身も地獄の思考をしていたのだということを思いました。
できることなら天国で暮らしたい。と思っていたら、露骨に道を譲ってもらいたがっている車を見つけました。私は、こんなことを考えていたものですから「どうぞ、どうぞ」と言わんばかりに、車に道を譲りました。すると、その車の運転手さんは「え、いいのですか、生きているとこんなことってあるんですね!」と言わんばかりのよろこびの笑みを全面にたたえた後にハザードランプで『サンキュー』の合図を贈ってくれました。たったこれだけのことなのですが、いいことをすると心に爽やかな風が吹きます。運転中、急いでいるときなどは「また赤信号!もう!ふぎゃー!」とか「前の車遅いなあ!蹴散らせい!」などと感じることがあります。が、精神的に余裕があるときは、このようなよろこびに触れることができるのは誰にだって経験されたことのあることだと思います。
地獄とは、自分が食べることだけを考えているひとたちの集団である。
この言葉、すごい言葉だと思います。ドキッとする言葉だと思います。いまを生きる私たちは、あれ、いつの間にか『どう生きるか』とか『どうやって食っていくか』などという問いを日常的に発するようになりました。でも、冷静に考えてみると「あれ、これって地獄の思考じゃないか??」と思いました。自分の損得を優先して、他人の損得を後回しにする。それが得になる道だと、それが幸せになる道だと誰もが思い込まされている節があります。が、実際にお得感を感じる瞬間は少ない。実際に幸せを感じる瞬間は少ない。実際に生きていることのよろこびを感じる瞬間は少ない。どことなく日々のなかで自分をすり減らしている感覚、自分のなかにある大事ななにかがやせ細っていくような感覚だけが積み重なり、気が付いたときには「殺伐とした」世の中になっていたり、徐々にギスギスとした雰囲気が醸成をされてしまうようになってしまいました。
これは綺麗事かもしれません。しかし、料理を例に考えてみると、あながち間違いではないようにも思います。自分のためだけにつくる料理は、なかなか力が入らない。納豆だけで済ませてしまうこともある。しかし、誰かのために料理を作る機会を与えられた瞬間、俄然力がはいる。これはもちろん自己犠牲的な意味での奉仕ではなく「奉仕をする対象を得ることによって、自分の中にある潜在的な力が引き出される」という経験は、誰もが持っているものだと思います。大事なことだと思うので繰り返し言います。奉仕をする対象を得ることによって、自分の中にある潜在的な力が引き出されるという経験は、誰もが持っているものだと思います。坂爪圭吾は思います。いま、重要な問いは『どう生きるか』とか『どうやって食っていくか』という自分本位的なものではなく、真の意味で『奉仕の対象を見つけること』なのだと思います。言い換えるならば『生かしたいと思うひとを生かすために生きる道を見つける』ことなのだと思います。生きることを投げ出してしまいたくなる瞬間は誰にでもあると思いますが、それでもなお、大事なことは『自分のために生きることと、誰かのために生きることが、同一線上にある道を見つけ出す(それがなければ作り出す)こと』なのだと思います。
我々の活動は根本的にギャグや駄洒落でやっているところが多大にありまして、おはなを配るという営みは「OHANAを配る(OHANAに還る)」ことでもあるのだと無理矢理にこじつけ、ハワイイ帰りのこれみよがしな南風を吹かせながら昨日は新潟市内で実際におはなを配らせていただきました。OHANAとは、ハワイ語で『家族』です。これは英語のファミリーとはちょっと違って、血縁関係のないひとも含んだ広い意味における『家族』という意味の言葉になります。家族間で問題を抱えているひとはたっくさんいます。家族とはなんなのでしょうか。2018年、最重要テーマは家族であると言っても過言ではないのだと思います(過言)。おはなを配ることによって、わたしもあなたも家族みたいなものじゃないですかと、困った時はいつでも支え合っていきましょう的なコネクションを再認識するための機会になれば(などと言っておりますが、ただ、OHANAをあげるという駄洒落を言うためだけにやった)と願いつつ、昨日も日が暮れました。
わたり文庫『椅りかからず』
今回のわたり文庫無料郵送の一冊は、茨木のり子著作『椅りかからず』です。こちらの本、先日、大阪でおはなをお渡しさせていただいた方から「わたしの大好きな本です」とお譲りいただいた一冊になります。おはなを配る側の身でありながら、みなさまから本当にたくさんのものをいただいている不思議。交換より循環を標榜している身として、今後とも循環活動(?)に精を出して参ります。そして「交換だけの世の中じゃなく、循環だけの世の中でもない、交換と循環の心地よいバランスを見出す」ことができたらなどと思っております。ご希望される方は何かしらの方法で坂爪圭吾までご連絡ください。御当選(?)された方には70万時間以内に折り返しご連絡いたします。
「マザー・テレサの瞳」
マザー・テレサの瞳は
時に
猛禽類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが融けあって
妖しい光を湛えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂でなくして
インドでの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる!
鷹の目は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の目は救いあげた
垢だらけの瀕死の病人を
ー なぜこんなことをしてくれるのですか
ー あなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨のような重たさ
自分を無にすることができれば
かくも豊饒なものがなだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となる
たった二枚のサリーを洗いつつ
取ってか引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯
外科手術の必要な者に
ただ繃帯を巻いて歩いただけだと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を
ー 言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った
真の意思を生きるとき、すべては味方をしてくれるものだ。
明日には横浜にあるごちゃまぜの家に戻り、4月から再度足を運ぶハワイイ島における『身の振り方』を腰を据えて考えます。ハワイイ島にいく目的はごちゃまぜの家をつくることです。しかしまだ、なにもあてはない状態になります。もしも「ハワイイ島で動くなら○○をするといいよ!」などのアイデアをお持ちの方がいらっしゃいましたら、お気軽にご連絡をいただけましたら幸いです。同時進行で、横浜の家のレベルアップにも勤めて参ります。新潟や大阪にも作りたいと思っています。また、これはまだ未定ですが「ごちゃまぜの家を(真の意味での)NPO法人として組織化する」ことも考慮をしています。この辺りのことはあまりにも門外漢すぎてわからないことばかりになるで、NPO活動などに精通している方がおりましたらお力を貸していただけたらうれしいです。
昨日、新潟でお会いした子育て中のお母さんN様から心に染みるご意見をいただきました。N様は言います。昔はみんなでこどもを育てていたのがきっと普通で、両親だけでこどもを育てなくちゃいけないってなったのは歴史の浅いものだと思うんです。みんなで育てられる土壌は必要だし、新潟にもごちゃまぜの家をつくってください。育児中はとにかく孤独に追い込まれます。友達をつくるスキルに恵まれているひとはいいけれど、そうじゃないひとは本当に大変。周囲からアドバイスをされても、それを聞けないくらいに元気を消耗しているひとはたくさんいる。だからこそ『ここにいる限り安心していられる』っていう場所が必要になるんだと思うんです。新潟のひとはシャイな人が多いから、自分の気持ちをなかなか表にあらわしたりはできない。でも、さかつめさんのように「実際にやるひと」があらわれたら、きっと共感をしてくれるひとたちはたくさんいます。誰かがやることで「自分も同じことを思っていた!」って動き出すひとは、きっとたくさんいるのだと思います。
2018年の合言葉はチームプレー。次回の奇跡は、自分ひとりの力で起こすものではなく「チームプレーで複数で起こるもの」になります。そのためには、みんなの力が必要になります。自力本願だけでもなく、他力本願だけでもない。気晴らしとしての道ではなく、ごまかすための道でもない、自分の中にある『真の意思』を掴み取り、真の意思を生きるということ。「お前はほんとうはなにをやりたいんだ?」という世界からの問いに向かって、真摯に、誠実に、真っ向勝負で応えつくそうとするその態度、その生き様こそが波及を生み、新しい世界へとつながっていくのだと思います。真の意思とはなにか。それはきっと柔らかなもの。それはきっとたおやかなもの。恐れずに進みなさい。恐れながらでもいい、進みなさい。真の意思を生きるとき、きっと、あらゆるものは味方をしてくれるものになるのだと思います。
さかつめけいごさま
*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*
お花、とってもうれしいです✨✨✨
ありがとうございました\(^o^)/
一昨日、誕生日プレゼントにって、花束💐を持ったケロちゃんが宮崎の友人から送られてきました✨✨✨
今朝は、さかつめさんから花束💐を頂いて、うれしさ溢れてます✨✨✨
おかげさまで、今日も素晴らしい一日になりました💓
さかつめさんも、どうぞ素晴らしい一日をお過ごし下さいね✨✨✨
OHANAに「かえる」
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE http://urx2.nu/xkMu
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応援メッセージもこころからお待ちしております。みなさまからのお言葉が、へっぽこりんちょになっている瞬間にどれだけ大きな力になることか・・・簡単な一言だけでもとってもうれしいです。みなさまからの応援をよろしくお願いいたします!!
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