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今日から3日連続で、この物語をご紹介します。
2011年に初公開して以来、今回が3度めの公開になります。
今回は、ネット上で見やすくするため、
すこし文章の体裁を変えています。
◆
【お知らせ】◆
2月18日(日)18:30
第48回 倭塾公開講座3月10日(土)18:30
第24回 百人一首塾3月24日(土)13:30
第49回 倭塾公開講座4月1日(日)13:30
第三回名古屋倭塾公開講座4月7日(土)18:30
第25回 百人一首塾4月22日(日)13:30
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第26回百人一首塾(公開講座)5月19日(土)18:30
第51回倭塾(公開講座)6月9日(土)18:30〜
第27回 百人一首塾 公開講座6月30日(土)13:30〜
第52回 倭塾 公開講座 *****
最初にこの物語をブログでご紹介したのは2011年のことです。
すると不思議なことにネット上で、
「この話は嘘っぱちだ」
「ただの作り話にすぎない」
などといった批判が相次いで起こりました。
私自身は、もちろんその時代に居合わせたわけではありませんし、被害に遭われてお亡くなりになられた看護婦の方々と
お会いしたわけでもなければ、その場を見てきたわけでもありません。
ですからどこまでが史実で、どこまでが創作なのかはわかりません。
ただ、このような物語があり、そしてその短くも悲しい生涯を惜しんで、さいたま市の青葉霊苑に慰霊塔が建てられていることは事実です。
そしてその慰霊塔には、いまもご遺族の方々等による献花が絶えずに続いています。
そのさいたま市の霊園にある慰霊塔が、上にあります「青葉慈蔵尊」です。
お地蔵さんならば普通は「地蔵」と書くところを、その像は「慈蔵」と書いています。
そこに語り継がなければならない何かがあると私は思います。
同様のケースは、他にも多々あったものと思われます。
事実はもっと悲惨なものだったかもしれない。
そしてこの物語には、伝えなければならない大切なものがぎっしりと詰まっているように思います。
お地蔵さんの建立には、堀喜身子(ほりきみこ)さんという元看護婦の婦長さんだった方が深く関係しています。

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掘喜身子さんは、
幼い頃から病人を看護することが
とても好きな女の子でした。
彼女は昭和11(1936)年に
女学校を出ると、
すぐ満州に渡り、
そこで満州赤十字看護婦養成所に
入所しています。
そこで甲種看護婦三年の過程を修め、
郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰って、
樺太庁立病院の看護婦になっています。
昭和14(1939)年の春、
彼女は医師の堀正次と結婚しました。
結婚して1年目の春、
堀喜身子さんのもとに、
召集令状がやってきました。
令状を受けた一週間後には、
彼女は単身で、
任地の香港第一救護所に
出発しました。
まもなく彼女の任地は
上海に移り、
次いで満州国牡丹江、
さらにソ連との国境に近い
虎林の野戦病院へと移りました。
野戦病院には、
他の48名の
同僚看護婦とともに
配属されています。
虎林の病院に勤務して
半年ほど経ったとき、
その野戦病院に、
夫の正次も
令状を受けてやってきました。
二人は医師と看護婦の夫婦として
、毎日前線から送られてくる
傷病兵の治療を続けました。
そしてこの病院勤務の頃に、
長男の静夫(しずお)さん、
長女槇子(まきこ)さんの
二人の子宝に恵まれています。
ところが終戦間近の
昭和20(1945)年8月8日、
ソ連が日ソ不可侵条約を破って、
突然一方的に
満州に攻め込んできました。
激しい戦況です。
虎林の野戦病院の患者は全員、
長春に移ることが
上から決定されました。
しかし患者のうちの
70余名は伝染病の重患です。
動かすことができません。
そこで野戦病院では、
軍医中尉であった夫の堀正次と、
他に2名の軍医、
それと5名の兵隊さんと
重患者が残ることになりました。
掘喜身子さんは、
夫からもらった将校用の水筒を肩に
長春に向かう組に配属されました。
二人は、これが今生の別れとなりました。
虎林を出発した病院の一行は、
牡丹江を過ぎ、
ハルピンを通過して、
一週間目の8月15日に、
長春にたどり着きました。
そしてここで
終戦の玉音放送を
聞いています。
日をおかず、
長春はソ連軍に
占領されました。
ソ連軍は、
看護婦や将校夫人や女子児童76名を、
合宿所に入れました。
そこで身上調査が行われました。
調査の結果、
掘喜身子さん以下
虎林の野戦病院から来た
看護婦34名は、
長春第八病院に勤務せよ
との命令となりました。
月給はひとり200円でした。
34名の看護婦は、
その給料をみんなで
まるごと出し合って、
一緒に収容されている
将校家族を養う費用にしました。
けれども物価はあがる一方で、
生活は苦しくなるばかりです。
堀喜美子さんも、
次第に体がガリガリに
痩せ細って行きました。
昭和21(1946)年春、
第八病院の婦長をしていた
堀喜身子さんのもとに、
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、
一通の命令書が来ました。
内容は、
「看護婦の応援を要請。
期間一か月。
月給300円」
というものでした。
いくらソ連軍とはいえ、
世界各国で公認されている
赤十字を背負う看護婦に
間違った扱いなどしないだろう。
ましてソ連陸軍の発令による
公的な「命令書」です。
堀婦長は
一抹の不安はおぼえながらも、
引率者である平尾勉軍医と相談して、
看護婦の中でも、
一番のしっかり者の
大島花枝看護婦と、
やはりしっかり者の細川たか子、
大塚てるの3名の看護婦を選びました。
出発の日、
堀婦長は三人に、
「決して無理はしないように」
と言い聞かせました。
大島花江看護婦は
元気いっぱいの笑顔で、
「婦長、心配はいりません。
敗戦国であっても、
世界の赤十字を背負う看護婦として、
堂々と働いてきます!」
と答えました。
「大島さん、
細井さんと大塚さんのことも
お願いね」
と気遣う婦長に、細井、大塚両名は、
「あら、大塚さんばっかり。
私たちはいつまでたっても
一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
と明るく冗談を言い合い、
みんなで明るく笑いました。
堀婦長は出発する3名に、
きちんと制服
(当時は看護婦の白衣の他に
軍看護婦としての制服があった)
を着せました。
そして制服の右腕に
赤十字の腕章を付けさせました。
どこからどうみても
「赤十字の看護婦」であることが
ひとめでわかるようにしたのです。
こうして白羽の矢をたてられた三名は、
元気に一か月の別れを告げて
出かけて行きました。
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に
到着した三人は、
それぞれ離れた場所に
別々に部屋を与えられました。
部屋は個室で、
ベットもありました。
大部屋暮らしだった
大島看護婦たちにとって、
個室はまさに夢のような
部屋でした。
やがて一か月が経過しようとしたとき、
同じ病院から、
また3名の追加の
命令書がきました。
日本側は、
荒川静子、
三戸はるみ、
沢田八重
の3名を、
第二回の後続として
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りました。
もうまもなく
最初の三名が交代して
帰ってくる。
誰もがそう思っていました。
ところが最初の3人は
帰ってきません。
やがてさらに一か月が経過しました。
するとまた3名の追加の命令が、
ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から
もたらされました。
堀婦長は心配になりました。
そして引率者の平尾軍医に、
命令を断るように談判しました。
一か月という約束で
看護婦を送っているのです。
最初の3名が行ってから、
もう3か月経過しています。
2回目の看護婦が行ってからも
2か月です。
にも関わらず、
誰も帰してもらっていない。
おかしいのではありませんか?。
向こうが約束を反故にしているのです。
普通なら
そんな約束も守れないようなところに、
大切な部下を送ることなんて
できないことです。
しかも6名とも、
行ったきり音信不通です。
けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、
医師や看護婦だけでなく、
患者たちまで全員が
殺されてしまう危険があります。
病院としては、
命令に背くことはできない。
やむなく、
井出きみ子、
澤本かなえ、
後藤よし子
の3名が
送り出されることになりました。
仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、
こんどこそ絶対に拒否してやろう。
先に行った者たちが
心配でたまらない堀婦長が
そう決意を固めていた矢先、
また一か月後、
誰ひとり帰らないまま、
4度目の命令が来ました。
今度もまた
「3名の看護婦を出せ」
というものです。
なんという厚顔無恥。
残る看護婦は、
婦長の堀喜美子の他、
22名です。
その中から、
4度目の3名を
選出しなければなりません。
堀婦長の心の中には、
暗澹とした不安が
ひろがっていました。
その日の夜、堀婦長は、
次に向かう3名を呼びました。
明後日出発すること、
先に行った看護婦たちに
手紙で状況を報告するように
と伝えるように言い聞かせました。
その日の夜のことです。
すっかり夜も更けたころ、
病院のドアをたたく音がしました。
「こんな時間になにごとだろう・・・・」
堀婦長が
玄関の戸を小さく開けました。
すると髪を振り乱し、
全身血まみれになった人影が、
「婦長・・・」
とつぶやきながら
ドサリと倒れこんできました。
みればなんと
最初に出発した、
大島看護婦です。
たいへんな重体です。
もはや意識さえも危うい。
全身11か所に、
盲貫銃創と貫通銃創があります。
裸足の足は血だらけです。
全身に、
鉄条網を越えたときに
できたと思われる
無数の引き裂き傷があります。
脈拍にも結滞があります。
なにがあったのか。
堀婦長は、とっさに
「そうだ。
こうまでして
ここに来なければ
ならなかったのには、
理由があるに違いない。
その理由を聞かなければ」
と思い立ちました。そして、
「花江さん!、
大島さん!
目を開けて!」
と、大島看護婦を
揺り動かしました。
重体の患者です。
ふつうなら揺り動かすなんて
絶対にありえないことです。
他の看護婦が
「婦長!
そんなことをしたら
花江さんが!」
と悲鳴をあげました。
けれど堀婦長は毅然と言いました。
「あなたたちは黙って!
花江さんは助からない。
花江さんの死を
無駄にしてはいけない!」
と声を荒げました。
大島看護婦が目を覚ましました。
そして語ったのです。
「婦長。私たちは
ソ連軍の病院に
看護婦として
頼まれて行った筈ですのに、
あちらでは
看護婦の仕事を
させられているのではありません。
行ったその日から、
ソ連軍将校の
慰みものにされてしまいました。
半日たらずで
私たちは半狂乱になってしまいました。
約束が違う!
と泣いても叫んでも、
ぶっても蹴っても、
野獣のような相手に通じません。
泣き疲れて寝入り、
新しい相手に
また犯されて暴れ、
その繰り返しが
来る日も来る日も
続いたのです。
食事をした覚えもなく、
何日目だったか、
空腹に目を覚まし、
枕元に置かれていた
パンにかじりつき、
そこではじめて
事の重大さに気が付き・・
それからひとりで泣きました。
涙があとからあとから続き、
自分の犯された体を見ては、
また悔しくて泣きました。
たったひとりの部屋で、
母の名を呼び、
どうせ届かないと知りながら、
助けを求めて叫び続けました。
そしてどんなにしても、
どうにもならないことが
わかってきたのです。
やがておぼろげながら、
一緒に来た二人も
同じようにされていることが
わかりました。
ほとんど毎晩のように
三人か四人の赤毛の大男に
もてあそばれながら、
身の不運に泣きました。
何度も逃げようとして、
その都度、
手ひどい仕打ちにあい、
どうにもならないことが
わかりました。
記憶が次第に薄れ、
時の経過も定かではなくなった頃、
赤毛の鬼たちの言動で、
第八病院の看護婦の
同僚たちが
次々と送られて
きていることを知って、
無性に腹が立ち、
同時に我にかえりました。
これは大変なことになる。
なんとかしなければ、
みんなが赤鬼の生贄になる。
そんなことを許してはならない。
そうだ、
たとえ殺されても、
絶対に逃げ帰って
婦長さんに
ひとこと知らせなければ・・・
赤鬼に汚された
体にも命にも
いまさら何の未練も
ありませんでした。
私は二重三重の
歩哨の目を逃れ、
鉄条網の下を、
鉄の針で服が破れ、
肉が引き裂かれる
痛みを感じながら
潜り抜けて、
逃げました。
後ろでソ連兵の叫び声と
銃の音を聞きながら、
無我夢中で逃げてきました。
婦長さん。
もう、人を
送っては
なりません・・・・」
そこまで話して、
大島花江看護婦は、
こときれました。
なんという
強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、
この事実を伝えようとする
一心だけで、
まさに使命感だけで、
彼女はここまで
逃れてきたのです。
病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」
という看護婦たちの
涙の声がこだましました。
こうして昭和21(1946)年6月19日
午後10時15分、
大島花江看護婦は、
堀婦長の腕の中で
息をひきとりました。
どんなに勇敢な軍人にも負けない、
鬼神も避ける
命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、
婦長や同僚の仲間たちの
涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、
みんなが悼みました。
翌日の日曜日の午後、
遺体は満州のしきたりにならって、
土葬で手厚く葬られました。
彼女の髪の毛と爪を、
お骨代わりに箱に納め、
彼女にとっては
なつかしい
三階の看護婦室に安置しました。
花を添え、
水をあげ、
その日の夜、
一同で午前0時ごろまで
思い出話に花をさかせました。
すべて、懐かしくて
楽しかった
内地(ないち)の話ばかりでした。
翌日、
堀婦長が出勤時刻の
9時少し前に
病院の看護婦室に行くと、
そこに病院の
事務局長の張(チャン)さんがいました。
張さんは、
日本の陸軍士官学校を
卒業した人です。
張さんはひどく怒っていました。
看護婦たちが
だれも出勤していないのです。
こんなことは前代未聞です。
「変ですね~」
と最初、気楽に答えた堀婦長は、
その瞬間、はっとしました。
そして
3階の看護婦たちの
宿所に走りました。
いつもなら、
若い女性たちばかりで
さわがしい宿所です。
それが今朝は、
シーンと静まり返って、
もの音一つしません。
堀婦長の胸に、
ズシリと
重たいものが
のしかかります。
宿所の戸を開けました。
お線香の匂いが
ただよっていました。
内側の障子が閉まっていました。
婦長が障子を開けました。
部屋の中央に、
小さなテーブルがありました。
テーブルの上には、
大島看護婦の
遺品と花とお線香、
そして、
白い封筒が置かれていました。
そしてその周囲に、
きれいに並んだ、
22名の
看護婦たちの
遺体が
横たわっていました。
机の上に遺書がありました。
「22名の私たちが、
自分の手で
生命を断ちますこと、
軍医部長はじめ
婦長にも
さぞかしご迷惑のことと、
深くお詫びを申し上げます。
私たちは、
敗れたとはいえ、
かつての敵国人に
犯されるよりは
死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、
私どもの魂は
永久に満州の地に止まり、
日本が再び
この地に帰ってくる時、
ご案内をいたします。
その意味からも、
私どものなきがらは、
土葬にして、
この満州の土にしてください。」
遺書の終わりには、
22名の名前が、
それぞれの手で記されていました。
遺体は、制服制帽の正装。
顔には薄化粧。
両ひざはしっかりと結ばれ、
一糸乱れぬ姿でした。
その中でたったひとり、
井上つるみの姿だけは
乱れていました。
26歳で
最年長だった彼女は、
おそらく全員の意志をまとめ、
衣服姿勢を確かめ、
全員の死を見届けた上で、
最後に
青酸カリを飲んだと
推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、
顔の表情にも、
それは明らかでした。
現場には、
通訳を連れた
ソ連軍の二人の将校と
二人の医師がやってきて、
現場検証が行われました。
婦長は
逮捕されてもいい覚悟で、
国際的にも認められている
赤十字の看護婦に行った
非人道的行為を非難し、
事のてんまつを訴え、
泣き崩れました。
これには彼らも
しばらくは無言のままで、
事態の重大さが
わかったようでした。
この22名の
集団自決による抗議に、
ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、
翌日、
「ソ連の命令として
伝えられることで
納得のいかないことがあれば、
24時間以内に
ゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に
必ず問い合わせること」
「日本の女性とソ連兵が、
ジープあるいは
その他の車に
同乗してはならない」
という通達が
日本人の宿舎にも
まわってきました。
22名は、
死ぬ前に、
全員が身辺を
きれいに整理整頓していました。
彼女たちが
「土葬」を遺言したのは、
婦長や
引率の平尾軍医などに
お金がないことを
気遣ってのことです。
「それではあまりに
22名の看護婦たちが
かわいそうだ。
火葬にしたうえで
分骨し、
故郷の両親に
届けれあげれるように
しようじゃないですか」
と、張さんが、
当時ひとり千円もする
火葬代を出してくれました。
日本が負けて立場が変わっても、
陸士出身の張さんの温情は
変わらなかったのです。
張さんは
「せめてこれまで
朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、
これがささやかな供養ですから」
と述べてくれました。
こうして22名の骨壺がならび、
初七日、
四十九日の法要も
お経を唱えて
手厚く執り行われました。
その四十九日のときのことです。
張さんが、
亡くなられた看護婦さんたちに、
せめてお饅頭でも作ってあげたら?
と、饅頭を作る材料費を
出してくれたのです。
そこで堀婦長は、
張春のミナカイという市場に
出かけました。
そこは当時、
東京でいえば銀座のような、
張春一番の繁華街でした。
堀婦長は、そのミナカイで、
ふとしたことから、
噂話を耳にしました。
長春第八病院に向かった
9名の看護婦のうち、
亡くなった大島花江を除く
8人が生きている、
というのです。
≪満州従軍看護婦哀歌(2)に続く≫
お読みいただき、ありがとうございました。

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※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただいた2011年3月の記事のリニューアルです。
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