わが「母館」こと京都府立図書館

2010年11月19日。いま、午後の3時5分である。ここ、京都市左京区岡崎にある、京都府立図書館は、昔、通っていた所である。建物は、何年か前に建て替えられ、新しくなっている。昔、というのは、1950年代の半ば頃であるが、数年間は、週に3日ぐらいは、通っていたのではなかろうか。
理由のひとつは、当時、ここで、エスペラントの本や雑誌が閲覧できたからであった。
戦前、京都に中野忠一郎という眼科医がいて、熱心なエスペランチストであった、という。中野さんは、顔が似ている、ということで、「京都のザメンホフ」と言われる人でもあったらしい。
中野さんが亡くなった後、昭和9年に、遺族の方から、この京都図書館にエスペラント関係の図書がたくさん寄贈された。数は、400冊を超えていたように思われる。私が初めて、この蔵書のことを聞いたには、多分、1956年前後のことであったと思われる。
私は1953年の6月からエスペラントの独習を始め、54年の夏には、京都エスペラント会に入会した。その前、1月には、財団法人日本エスペラント学会にも入会していた。京都では、毎週木曜日の晩、例会が開かれていた。私は1962年の8月まで、丸8年間は、この会の常連として、通いつめた。
いつだったか、つまり54年夏以後のある日、大先輩の松山さんという人から、エスペラントの本が図書館にあるはずだ、というような話を聞いたのであった。
当時、エスペラントの本は自由に買えない時代で、例会場に通う時、いつも目にしていた古本屋の本棚に、時どき古本が並んでいるのを見かける程度であった。寺町通りの古本屋で見つけて買ったのが、私の最初の辞書、「新撰エス和辞典」(岡本好次編)であった。ほかに、「愛あるところ神あり」(川崎直一著)も買い、おおいいに勉強した。これは、寺町ではなく、河原町通りの店で買った。
そういう訳で、もし、図書館に本があれば、こんなありがたいことはない、と思った、じつは、この図書館には、すでに1951年か1952年から、時どき来ていたのであった。私が住んでいたのは、中京区の四条大宮から数分北へ行ったあたりにある「三条大宮町」であった。市電があったころで、電車賃(片道13円、往復25円)があるときは、四条大宮から東山二条まで、電車で行ったが、ない時は、往復とも歩くほかはなかった。
「ここに、エスペラント語の本があると、お聞きしましたが、閲覧はできますか」
と、私が、図書館の事務所に入ってたずねたところ、係の人は知っていて、
「はい、できます」
と言った。それから、半紙大の紙に書いてある、その目録を持って来た。それから、
「ご案内しますので、本はご自分でさがしてください」
と、その人は言い、階段から二階へ私を案内してくれた。窓際の棚の一角に、文字どおり「ホコリをかぶった」エスペラント図書が置いてあった。
それからは、自分ひとりで書庫に入り、いろんな本や雑誌を読んだ。例えば、フランス文学で有名な、アベ・プレボーの「マノン・レスコー」など。また、雑誌では、1927年前後の「ヘロルド・デ・エスペラント」などである。
その日、読みたい、と思った本や雑誌を持ち出し、貸出しカードに記入し、一階にあった広い閲覧室で終日読みふける日がつづいた。当時、この図書館は朝9時から晩の9時まで開いていたと思う。入館者が、9時前から並んでいることもよくあった。カードを貰い、それに住所氏名年令を記入するのだが、職業欄もあり、私は、何年間も「無職24歳」とか、書くほかはなかった。毎回、というのではなかったが、朝一番、開館と同時に入り、9時の閉館まで、12時間、ひたすらエスペラント語に、眼をさらしつづけるのである。
当時、私が読んでいた本は、その後、京都府の「総合資料館」に移管され、保管されていた。それは、私も直接訪ねて行って確認したことがあるが、果たしていまも、そこにそのまま置いてあるかどうかは、不明である。
公共の図書館に、エスペラント語の図書等が存在する、ということは、きわめて重要なことだと思われる。大阪府下千里にある「国立民族学博物館」には、すくなくとも3,000冊を越えるエスペラント関連図書が保管されている。その中心になったのは、UEA(世界エスペラント協会)から、民博が直接購入した約3,000冊の図書であった。これに加えて、民博の初代館長であった梅棹忠夫さんが寄贈されたものや、近年で言えば、竹内義一さんの没後、寄贈された図書等もある。
わが家には、日本語やエスペラント語の本やらカセット・テープやら、その前のリール式テープやら、雑誌やらが、文字どおり、足のふみ場もない程に、うず高くつまれている。あるいは散らかっている。
つい先日、2010年10月17日、それこそ一念発揮して、家の中、まずキッチンから、片づけ始めたところである。
(2010年11月19日午後5時)