「音楽は絶対、新しくなけりゃ意味がない」ーーそう言い切るのは、国内外で高い評価を受ける気鋭のトラックメイカー・Seihoだ。関西のアンダーグラウンドシーンで異彩を放ち、音楽評論家・阿木譲から美学を受け継いだ彼は、どんな発想で音楽に向かってきたのか。電子音楽に目覚めたきっかけから、彼が思い描く音楽の未来図まで、音楽ジャーナリストの柴那典が聞く。(編集部)
ジャズプレイヤー志望から、電子音楽の道へ
――そもそも、なぜSeihoさんは今のスタイルでエレクトロニック・ミュージシャンとしての表現や音楽活動を始めたんでしょうか。
Seiho:基本的に小学校ぐらいから音楽はずっと好きだったんですけど、音楽は友達というより両親とのコミュニケーションツールだったんです。家でご飯を食べてるときに音楽が流れていて、その話を父親や母親とするみたいな。
――お父さんやお母さんは、わりとコアに音楽を聴いているようなタイプだったんですか?
Seiho:父親はコアに音楽を聴いているようなタイプでしたね。僕が87年生まれなんですけど、その当時の20代の男の人よりは、ちょっと渋めな選曲やったような気がします。母親はR&Bやディスコ好きだったんですけど、父親はビバップのジャズが好きで。そこから小学校・中学校・高校とずっとトロンボーン奏者をやっていて。ずっとジャズのプレイヤーになりたかったんですよ。でも、高校卒業するタイミングで音大に入ろうと思っていろいろ勉強していたときにバークレーで学んでいるような人とセッションする機会があって。それで、プレイヤーとしては、そもそも肉体的についていけないかも、と思って。
――挫折があった?
Seiho:そうですね。というか、身体能力をあげる闘いになってきちゃうのは、普通に考えてしんどいな、って。それと同時に、中学校くらいから先輩とかとサマーソニックに行ってエイフェックス・ツインを観たり、ACID JAZZやMO’WAXが802(FM802)で聴けたり、AOKI takamasaさんやレイ・ハラカミさんが関西でやっていたから、電子音楽も同時に興味はあって。もともと小学校の時にWindows98が出てPC買ってもらったんです。で、ウチは実家がお寿司屋さんだったんですけど、そこでバイトしてる人たちがDJで。
――へえー!
Seiho:その人たちに、まずどういう機材を買ったら始められるのか教えてもらって。それでMIDIのオールインワン型のシーケンサーというか、音源を買ったんですよ。ローランドのSC-88というレイ・ハラカミさんと同じ機材を買って、MIDIでちょくちょく遊ぶようになって。で、高校生ぐらいのときに、それこそ2ちゃんねるのヒップホップスレやテクノスレみたいに、ネットにトラックをあげてラップを乗せたりする場所があって。そこに、今現場で一緒になる人たちもいて。これやったら、プレイヤーでやっていくよりこっちのほうが面白そうやなって思って、とりあえず4年間猶予が欲しいから、普通の大学に行かせてほしいって親に相談して、普通大学に行ったっていう。これが、電子音楽をはじめた最初のきっかけです。
――その頃を客観的に振り返って、どんな時代だったと思いますか?
Seiho:そういう界隈と知り合ったのは2010年くらいかな。僕らの世代で電子音楽やってる人らって、大阪に点在していてて。東京は小さくてもコミュニティがあるじゃないですか。でも、大阪はヒップホップのトラックメーカーもエレクトロニカのトラックメーカーも、数えるほどしかいないんですよ。電子音楽を入れるバンドも数少なかったんです。で、そのメンバーが、いろんな現場で会うことが多くて。で、「あ、みんなこういうことやりだしてんねんな」って思ったというか。その頃に海外でチルウェイヴが出てきだしたり、ウォッシュド・アウトとかトロイ・モアが出てきたり、ビートメイカーで言うと、LAのビートシーン、〈Low End Theory〉とか〈anticon.〉とかその周りの人も出てきて。2000年代が終わって「次どうしよう?」という時期に、みんながそこに集合してたと思うんですよ。
――2010年頃の混沌とした時代にエレクトロニック・ミュージックのコミュニティがあって、そこにSeihoさんもいた。その経験は、自分にとっては大事なものでしたか?
Seiho:そうですね。僕、「芋を洗う猿」の話がめっちゃ好きなんですよ。人間のコミュニティの伝播を調べるために、最初に芋を洗った猿を調べる研究があるんですけど。猿が芋を洗うようになる伝播の仕方って、一人のカリスマ的なイノベーターが出て一気に広がっていくんじゃなくって、いろんなところで同時多発的に発生しちゃうんですって。同じ時期に、同じ発想のやつがパッて出てきて、それに影響された周りが広がっていくイメージで。あの2010年くらいの電子音楽シーンのクロスオーバーな感じは、たぶんどこの地域でも同時多発的に発生したんやろうなと考えると、すごく面白いですよね。
音楽は「新聞」みたいなもの
――当時を振り返って、自分にとっての師匠のような人、導き手となった人はいましたか?
Seiho:僕の一番の師匠は阿木譲さんです。
――音楽評論家の阿木譲さんですよね? どういう風に知り合ったんでしょうか。
Seiho:阿木さんと知り合ったのは、大学を卒業する直前くらいで。さっき言ったような関西のコミュニティのメンバーが集まる「nu things」というところがあって。そこのオーナーが阿木さんで、ちょっと敷居高い感じというか、変な場所なんですよ。スノッブなところがあるというか。そこでいろいろ見ていたこととか、いろいろ手伝ってた中で経験したことは大きいですね。
――阿木さんを師匠と捉えてるということは、エレクトロニックミュージックの作り方を教わったっていうよりは、もうちょっと考え方や価値観の部分を教わったということでしょうか?
Seiho:そうです。電子音楽って、やったらできるんですよ。でも、そういう思想や哲学的な部分は、阿木さんから脈々と引き継がれていく部分があるんですよね。
――電子音楽はやったらできる、というのはどういうことなんでしょう。作ったことのない人はなかなかそう思えないんじゃないかと思うんですが。
Seiho:これはさっきのプレイヤーの話と一緒で。プレイヤーって身体を伴うんです。身体能力としての技術がどうしても必要になる。僕はジャズをやってた時に、頭で鳴ってるのに吹けなかったり、テクニックで届かない部分がたくさんあった。でも、電子音楽は身体を伴っていないから、頭でさえ鳴っていればどうにかなる。だから、電子音楽のミュージシャンで、僕が一番素晴らしいと思うのは、頭で鳴ってる音楽が素晴らしい人間なんですよ。頭の中は自由じゃないですか。空を飛べるし、生まれ変われるし、無限のクリエイティビティが広がってる。
――でも、頭で鳴ってたらどうにかなるということは、逆に頭の中で何を選ぶかというのが重要になりますよね。
Seiho:ああ、そうですね。
――そこが電子音楽の美学につながると思うんです。Seihoさんの音楽にはそこを感じるんですけれど、これはどういう風に培ってきたんでしょうか。
Seiho:根本的な考え方として、僕は「音楽は絶対新しくなけりゃ意味ない」と思ってて。新しい音楽以外は、歴史的価値はあるけど、逆に言うとそれしか価値がないんですよ。僕は音楽を新聞みたいなもんやと思ってて。毎日何が発生してるかを、アーティストみんなが刻んでるんですよね。
――なるほど。ということは、1年前の曲は1年前の新聞のようなものである。
Seiho:そう、その情報しかない。歴史的な価値はあるけど、今見るべきものじゃないっていう。その延長線上に、新しいものを更新しなきゃいけない。それがアーティストとしての宿命やと思うんです。それを刻んでいった時に、さっきの「芋を洗う猿」の話と一緒で、例えば、世界中で鳴ってる音楽に、すごく共通性があったりすると、それに気付いた時に、その2、3年後の世界の構図が理解できるというか。そういう要素が、すごく大きいと思うんですよ。
――音楽をある種の報道だと捉えていると。
Seiho:ただ、やっぱり発信する側には報道の責任があるんですよ。ただ好き勝手なことを言うのは、芸術じゃないんです。でも、ある種の責任を持って、自分の美学とか哲学とか、貫かなきゃいけないものがあって、そのためのガイドラインがないと、ただの散文でしかなくなってしまう。
――なるほど。
Seiho:でも、そのアーティストのルールが理解できて、そのアーティストの美学や伝えたいことがあった上で新しい作品を作る。そこから、こういう風に世の中が動いていくんじゃないかとか、こういう風に音楽シーンは動いていくんじゃないかとか、自分が置かれてる状況ってこうなっていくんじゃないかとかっていう。そういう未来予知の責任があるというか。そこが、僕の美学と一番繋がってきてるところですかね。
――90年代以降は、過去のアーカイブをいかにピックアップするのかというところが音楽家のセンスを測る指標になってきたと思うんです。そういうところとSeihoさんはどう向き合ってきましたか。
Seiho:1970年代にしても1980年代にしても、僕らが生まれてない時代をさかのぼっていくのは、新しさにも繋がる話なんですよ。ただ、その時にヒットしたものとか、過去って権威主義的に存在しちゃうじゃないですか。そこをなるべくフラットにできる可能性があるなら、新しさは担保できるかなと思います。新しいっていうのは、過去にしがみつくなという話なんですよね。