約束の土曜日は、すぐにやって来た。
考えに考えた末、待ち合わせ場所の駅には、約束の時間ぴったりに行く事にした。
マーテルの社長は、たぶん来ていないだろう。いないのを確認したら、10秒も待たずにすぐ帰ろう。
たとえ、マーテルの社長とすれ違いになったとしても、私は約束を破ってはいない。だから、恨まれない…はず…
大雨になれと願った、子供の頃の運動会と同じように、その日は朝から快晴だった。
万が一のため、水着をバッグに入れてアパートの部屋を出た。
1時ちょうどに着くよう、歩く速さを調整しながら駅へと向かった。
そして、駅前辺りを見回すと…
いない。
私はホッとした。
さあ、早くここから立ち去ろうと思った、その瞬間だった。
「ユキちゃん!」
白い車がゆっくりと近づいて来て、私の目の前で停まった。運転席にいたのは、マーテルの社長だった。
「早く、乗って乗って」
まさか車で来るとは、想定外だった。
店の客というだけで、本名も素性も知らない男の車に乗るなんて。
しかも、今からデートだなんて。
私の動揺にも気付かず、マーテルの社長は上機嫌だった。
「いやあ、嬉しいなあ。ユキちゃんが本当に来てくれるなんて。ありがとう、ありがとうな」
私は何と返事をしたらいいのか解らずに、ただ頷いた。
「絶対に来ないと思っていたよ。来ないと思ったけどさ、一応来てみたらユキちゃんがいるじゃないか。いや、俺は驚いたよ。最高だよ」
自分から誘っておいて、いたから驚いたって何なの?と私は訝しく思った。すると、その理由はすぐ解った。
「俺はさ、今までいろんな店の子を何回も誘ったの。だけど、何回約束したって誰一人来た試しがなかったのさ。来てくれたのはユキちゃんが初めてだ」
そうだったのか…
考えてみれば、酒の席での口約束なんて、あってないようなもの。その場で調子よく話を合わせておけば、それで済む話だった。
なのに、私ったら真に受けて、どうしようかと何日も悩んで…
バカみたい…
やっぱり私は、頭が弱いのだろう。
「ユキちゃんは、Tホテルのプールには行った事あるかい?」
「いいえ」
高校を出て上京してからプールなんて、ましてやシティホテルには足を踏み入れた事すらなかった。
私は、マーテルの社長がTホテルの部屋まで取っていたらどうしよう等と考えていた。だから社長に
「花水木に入るのは何時から?」と、聞かれ
「今日は6時からです!アイちゃんが、まだ休みだから」
本当は8時からなのに、咄嗟に嘘をついた。
「そうか、じゃあプールで泳いで、ラウンジで何か食べて、それから俺もユキちゃんと一緒に花水木に行くぞ」
それを聞いて、私の緊張は少し解れた。しかし、店ではいつも呼び捨てなのに、どうして今日はずっと「ユキちゃん」なんだろう?
マーテルの社長は、この日のプランを話した後も
「いやあ、まいったよなぁ。本当に驚いたなぁ」
と、顔を赤くしながら何度も繰り返していた。
私の水着は二十歳の時、一緒に暮らしていた彼と湘南海岸に行くために買ったものだった。でも、田舎の美しい海に慣れていた私は、湘南で泳ぐ気にはとてもなれなかった。
久し振りに着けてみると、何だか幼く見える水着だったが、今更どうしようもない。
プールサイドでは、社長が満面の笑みで待っていた。少しお腹が出ていて、やっぱりオジサンだと思った。
水着なんて、下着姿を見せているようなものだ。私は酷く恥ずかしくなって、逃げるようにプールに入った。
社長はデッキチェアーに寝そべって、私の下手くそな泳ぎを眺めていた。
人工的なブルーの水面に、太陽光がキラキラと眩しく反射していた。
海と学校のプールしか知らない私には、高層ビル群に囲まれたこの空間が不思議だった。
一体、私は何をやっているんだろうと思いながら、ゆらゆらと水に浮かんでいた。
もうすぐ終わる夏を惜しむかのように、プールは大勢のカップルで賑わっていた。
私達も、普通のカップルに見えるだろうか?
いいえ、どう見ても親子か愛人関係だろう。
マーテルの社長は暫くすると「よし、俺も泳ごう」と言って、少しだけクロールで泳いだ。上手だったけれど、人が多くて存分に泳ぐことが出来ないので、すぐに水から上がってしまった。
私も、これ以上水に浸かっていたらふやけそうだった。
その後はホテルのラウンジで、お喋りをしながら軽く食事をしたが、何を食べ、何を話したのかまるで覚えていない。
私は楽しそうな顔をしてはいたけれど、たぶんその顔は、ずっと引きつっていたと思う。
マーテルの社長が私と一緒に花水木に行くまでに、何か突拍子もない事を言い出しませんようにと、そればかりを考えていた。
デートは社長のプラン通り、無事に終了した。私はやっと緊張感が和らいで、心から笑う事が出来た。
ふたりで店に入ると、マーテルの社長が
「今日は、ユキとデートして来たんだ」
と、得意げに話しながら座った。
「あらまぁ社長、良かったですねぇ。Tホテルのプールでしたっけ?素敵!」
「いやぁ、楽しかった。最高だった。なぁ、ユキ」
店内は開けたばかりなのに、とても混んでいた。私はカウンターの中にいるマスターに小声で言った。
「私、今から仕事に入りますよ」
「本当?そうしてくれると助かるよ」
このデート以来、マーテルの社長は私だけ特別に優しくなった。
まるで中学生同士のように、手も繋がないデートだったのに。
その日は私とタエさん、ミホさんの3人でお店に出る日なのに、タエさんがまだ来ていなかった。
誰も客がいなかったので、私達はマスターと雑談していた。
そこへ「おはよう。すみません、遅れて…」と入って来たタエさんは、明らかに様子が変だった。
いつもなら大きな声で挨拶をして、遅れて来てもジョークで笑わせるのに。
下を向いて隠しているけれど、目を赤く泣き腫らしていた。
「マスター、私ちょっと体調良くないから、カウンターの中にいるね」
「いいけど、大丈夫なのか?」
タエさんは、立ち歩くのも辛そうにしていた。そして、カウンターの狭い出入り口に腕が軽く当たっただけで「痛っ…」と呻いた。
まだ暑いのに、長袖なのも不自然だった。
けれど、3組の客が立て続けに入り、タエさんの様子を気にしていられなくなった。
そこへ、キタノさんが入って来た。
いつもなら何をおいても飛んで来るのに、タエさんはそそくさと厨房の奥へ消えてしまった。
キタノさんはそれを見てソファーに座り、吐き捨てるように言った。
「何だ、タエのあの態度は。胸糞悪い」
ミホさんは隣のテーブルで話が弾んでいるし、タエさんは厨房から出てこない。私がこの、今にも荒れそうなキタノさんの相手をするしかなかった。
水割りが薄くても濃くても叱られる。私は緊張しながら水割りを作った。
キタノさんは何も言わず、それを飲んだ。
「ユキも飲めば」
素っ気なく言われて、自分の薄い水割りも作った。
「マーテルの社長とプールに行ったんだってな。楽しかったか?」
「はい。私、田舎者だからああいう場所は初めてで。すごく楽しかったですよ」
「それで、あっちの方は良かった?アイツ、上手かったのか?」
目の前の男は、舐めるような目付きで私を見ていた。
「泳ぎなら、上手でしたよ」
「アホかお前、カマトトぶってんじゃねえよ」
キタノさんはグラスを一気に空けたので。私はまた水割りを作った。
するとキタノさんが、不気味な薄笑いを浮かべながら
「おい、ちょっと…」と、私に耳を貸すようにと合図した。
「俺は昨日、タエと寝たんだけどさ」
「…まさか」
「何だ、そんな顔すんなよ。いいじゃねえか別に。向こうから抱いてくれって頼まれたんだから」
私は絶句した。嫌だ、もうそれ以上聞きたくない。