1
西の森を抜けた先に小さな木造りの家がぽつんと一軒だけあって、女の子が母親と二人で暮らしていた。ノックもせずに扉を開くと、特有の酸味を孕んだ、けれども香ばしい臭いが押し寄せてきて、ヴィオラは真っ白いワンピースの裾を抑えて飛び退きながら鼻を覆った。
(また、なにか妙なものを作っているんだわ)
その家は手前と奥の二間からなる簡素な造りをした平屋で、寝床を除いたすべての設備が、入口側の部屋に集まっていた。台所にはやたらに大きな銀色の鍋が置かれていて、形容しがたい不気味な色の煙を立ち昇らせている。想像した通り、それこそがこの奇妙な臭いの発生源であるようだ。ヴィオラは顔を家の外側に逸らして息を吸い込んだ後、奥の部屋に向かって少女の名を呼んだ。とたんにやかましく身支度を整えるが聞こえ、しばらくして奥の部屋の扉が開くと、名前を呼ばれた少女が姿を現す。少女は肩で息をしながら、
「今日は早いね」
と笑っている。ヴィオラは外側から扉を引いて抑えたまま少女の準備が終わるのを待った。その扉が一種の壁になったためか、臭いは多少マシになったが、それでも漂う煙を吸い込むたびにむせかえりそうになるのは変わらない。部屋の隅に飾られるように吊り下げられた白いローブを身に纏い、ふくらはぎまでを覆う大袈裟なブーツを履いてから、少女は奥の部屋に向かって大声で言った。
「行ってくるね、お母さん」
奥の部屋の開きっぱなしの扉の隙間から彼女の母が手を振った。それを見届けてから少女は家を出、草原の茂った地面の上で爪先を叩いて靴を揃える。ヴィオラは扉を勢いよく閉め、曲がった鼻を元に戻そうと、さかんに深呼吸を繰り返した。
「いったい、今日は何を作っていたのよ」
少女の方を訝しむような目で見ながら、ヴィオラは尋ねた。しかし、少女はあっけなく首を振って、
「分からない」
と答えた。
「あのスープ、たまに作ってるところは見るんだけど、私には飲ませてくれないの。大人になるまでは、ダメなんだって」
「それって、エッチなスープってこと?」
少女は少しだけ真剣な面持ちで悩んでいたが、やはり、
「分からない」
と首を振った。
「ふうん」
ヴィオラはつまらなそうに相槌を打ちつつ、少女の斜め前に立ち、森の中の細い道へと足を進める。しかし、後ろを着いて来ているはずの少女の足音がどこか覚束ないように感じられたので振り返ってみると、少女は首を傾げながら、下唇を指で弄び、物思いに耽っているようであった。
「どうかしたの?」
ヴィオラが聞くと、少女は唸るような声を出してから、
「エッチなスープって何かと思って」
と素直な疑問を口にした。
「気にしないで」
ヴィオラはただ淡々と答え、歩幅を広げてペースをあげた。駆け足が背後から近づき、次いで間の抜けた声が聞こえてくる。
「ま、待ってよ」
二人の足音は、草の禿げた褐色の細い道の上を進んでいく。
「ねえ、今日はどこに行くの?」
ヴィオラの背中から、少女がもうひとつの疑問を投げかける。ヴィオラは足を止めることなく、けれどもすこし得意げな声音で、
「いいところ」
とだけ答えた。少女を驚かせてやろうという魂胆だったが、どうやら上手くいったらしい。
「気になるなあ」
と少女は期待に溢れた声を投げ返してきた。ヴィオラは、
「きっと、びっくりするから」
とだけ答えて、さらに歩くペースを速めた。
少女は、今年で十歳を数える。まだ幼く好奇心旺盛という様子で、いろいろなものに興味を示し、また楽しむことにつけては大いなる才能の持ち主であった。一方のヴィオラは数か月前に十四歳となり、年相応の身体の変化に戸惑いながらも、まだ幼い少女につられるように、子供らしい探検遊びなどに身を投じる活力を持っていた。街に住む年頃の女は彼女一人であり、街の大人たちが面白がって教えるので性知識に逞しく育ち、「エッチなスープ」などという卑猥な言葉を知らず知らずに繰り出しては少女の純粋な疑問にさらされ、赤面するのはいつものことであった。
土道の上を十五分も行くと、街の白い煉瓦の通りが見えてきて、歓談にふける人々の明るい喧騒や時計台の下で弾き鳴らされるアコーディオンの楽し気な曲調が聞こえてくる。
「びっくりするところって、もしかして街のこと? 新しいお店なんて、あったかなあ」
少女の声にヴィオラは内心笑みを浮かべた。街へ続く煉瓦の道を踏みしめる直前になって、ヴィオラは少女の手を掴み、右手の草原に駆け込んだ。
「え、いきなり、どこ行くの?」
突然の事に、驚いたように少女は言った。膝を叩く草茎の厚さも、頬をくすぐる木々の葉の鋭さも、舗装道にあるものとは違っている。おそらくここは、人が潜り込むような場所ではないのだろう。乱暴に草道をかき分けて進むのは、大人が見れば止めるであろう危険な行為なのだと、ヴィオラは思う。
「首のあたり、気を付けて!」
首を擦り切るような位置に突き出した硬い棘茎を肩で追いやりながら、ヴィオラは言った。少女は途切れ途切れの声で相槌を打ち、時々短い悲鳴をあげながら、それでもヴィオラに手を引かれ、後を追うように走っている。
草原の中は一瞬だけ暗くなり、しかしすぐに明るくなった。草の隙間をかき分けて届くまぶしい光は、この奥に開けた場所があることを意味していた。
「着いた!」
ヴィオラが大きな声を出し、立ち止まる。その背中に思い切りぶつかってうめき声を出してから、少女もヴィオラの背中越しに、眼前の光景に驚いた。
「うわあ」
それは天蓋を穿つように鋭く、高くそびえる石の塔だった。無数の巨大な岩石を鱗の様に身に纏い、所々危うくすら感じられるほどのでっぱりを、特別なバランスでその身の中に調和させている。空に向かうほど細く見えるのは、その突端がよほど高くにあるためなのか、それとも本当に鋭く尖っているためなのか、少女たちには分からなかった。
「すごいね、こんなものがあったなんて、私、知らなかったよ」
少女はため息をつきながら、感嘆の声を洩らした。
「街からは見えないものね」
ヴィオラも言い、改めて、石の塔の根元から先端へと目を走らせる。
「まるで、巨人の脚みたい」
と少女が言った。
「巨人?」
「お母さんが読んでくれた本にね、出てきたの」
「巨人って、こんなに大きいの?」
少女は頷いて答える。
「山を投げ飛ばして、神様を食べちゃうんだって」
少女たちが住んでいる街は、山に囲まれた平野部に位置している。時計台の上から見晴らせる地平線には、その山々の一稜線がなだらかな曲線を描いて見える。どれも空の青色に紛れ、輪郭をぼかしてしまうほど遠くにあるのに、なおも迫力を感じさせられるほどの大きさであった。ヴィオラは身震いする。
この石の塔は、山以上に高くそびえているのだろうか?
ヴィオラは、どこか不思議な感じがした。そんなに大きいのなら、どうして街から見えなかったのだろう。どうして自分に、この場所が見つけられたのだろう。
少女が石の塔に近づき、根元を指でなぞり上げていく。その細く小さな指先のなめらかな動きを見ながら、ヴィオラは改めて、この巨人の圧倒的な高さに驚いた。
(もしかしたら、本当に山より大きいのかも知れない)
先に感じた不思議はあったが、それでも、その大きさについては信じずにいられない。目の前にそびえ立つ石の塔は、それほどまでに力強く感じられるのである。
ヴィオラは少女を促して石の塔の裏手に回ると、そこに一カ所だけある深い窪みを指さした。巨人の脚を作り上げているいくつもの巨大な岩石のひとつが、その部分だけ欠け落ちているようだった。その空間は、少女たち二人を飲み込んでなお広々とした余白を残すほどの大きさであった。
「なんだか、怖いなあ」
少女が間の抜けた声で言うのを笑って受け流すと、ヴィオラはその空間の中へ潜り込んで座り、すぐ隣の地面を手のひらで叩く仕草をし、少女を呼んだ。その場所は、つい最近刈り取られたかのように、草原が不自然に禿げかかって茶褐色の地面を露出していた。
窪みの中は完全な日陰になっていた。まっすぐに射し込んでくる太陽の光は、頭上にでばった岩石にほとんど遮られてしまう。それだけでなく、岩の隙間の真っ暗な場所から冷たい風が吹いてくるせいで、薄着のヴィオラは寒さを感じずにはいられなかった。
一方の少女は、季節柄に合わない厚手のローブのお陰もあってか、
「涼しいねえ」
などとのんきな声を出して、目を細めている。ヴィオラは少しばかりの理不尽を覚えて、少女の右頬に指を当てがうと、いきなり強く押し込んだ。ヴィオラの急な所作に少女は片目を閉じ、
「やっ、いきなり何をするの?」
と眉を下げた。
「別に。ただ少し、羨ましかっただけよ」
ヴィオラは半分正直に答える。少女は彼女の視線を追って、その真意に勘づいた様子だった。ローブの裾を持ち上げると、
「えへへ、あったかいよ」
と無邪気に言う。
「いいわね。分けてもらいたいくらいよ」
ヴィオラはそっぽを向き、唇を尖らせると、あえて意地悪を言った。少女はそれを気にする素振りもなく、多少の恥じらいを含んだ声で言った。
「おすそ分けだよ、あったかいの」
ヴィオラの身体を横から抱きしめ、膨らむようにして広がったローブの中へと導く。少女の顔は、ヴィオラの耳朶のすぐ傍らにあった。少しだけ息を荒立て、熱い呼吸を繰り返す感触と音とが、ヴィオラの耳朶をくすぐる。
「あったかいでしょ、私」
言葉を発すれば、その不規則な吐息が直接鼓膜に触れ、湿らせてくる。確かに、ローブの中は暖かかった。厚い生地が肌を直接撫でる柔らかく少しだけくすぐったい感触は、毛布の中で寝返りを打つような落ち着きをもたらした。それだけでなく、少女の暖かな体温と甘い匂いとが充満していて、うっとりとした眠気を誘ってくる。
ヴィオラは目を瞑り、自らの呼吸の音を聞きながら、ふいに、鼻を鳴らして喘ぐような声を洩らす。それはヴィオラ自身にも、思いもがけない発声であった。
(やだ、私、どうして……)
ヴィオラは、首筋から頬にかけての体温が徐々に増していくのを感じた。恥じらい、淡く目を開くと、顔を隠すようにして、鼻先と口元とを両掌で覆った。手のひらの中に熱く湿った息づかいを覚える。ローブの影の暗がりの中で彼女の仕草を見つめながら少女は、
「鼻が寒いの?」
と屈託のない言葉をかける。その言葉が耳朶を揺らし、同時に、少女の純粋で透き通るような瞳を覗いたとき、ヴィオラは心臓が跳ね、息が喉元を駆けあがってくるのを感じ、下唇を噛んだ。
少女はヴィオラの口元を覆う手のひらを片方ずつ掴み、そのままゆっくりと降ろさせた。ヴィオラの赤く火照った頬と、艶めいた唇とがあらわになる。唇は、強く歯噛みしていたために痙攣を始めていた。それを寒がっていると勘違いしたのか、少女はヴィオラの顔を自分の胸に押し当てるようにして抱きしめ、彼女の長い癖っ毛を、束ねるように撫でつけた。
(こんなに幼いのに、どうして、こんなに柔らかいのだろう)
少女の年齢からすれば、第二次性徴を迎えていてもおかしくはない。しかしヴィオラには、彼女の身体が女として変わり始めているなどとは、とても信じることができなかった。しかし紛れもなく、その内着の下の地平には別の場所とは違った柔らかな円形地が存在し、仄かに酸いを含んだひまわりのような匂いを漂わせているのだ。
(だめ、身体が、熱くって……)
ヴィオラは、自らの下腹部が緩く痙攣し、じわりと、暖かな粘液が染み出していく感覚を覚えた。街の大人がいつか、女がいやらしい気持ちになると下半身が濡れそぼつのだと話していた。自分は今、少女の平くしかし柔らかな胸の中で、何か卑猥な気持ちに昂じているのだろうか。ヴィオラは少女の無邪気な顔をちらと見て、罪悪感に打ち震えつつも、ますます下腹を濡らしていく。
そのとき、ふいに少女の身体が離れた。ヴィオラは思わず喘ぐような声を発し、ローブの間で目を細めている少女の顔を、哀願するような目で見た。
「どう、あったまった?」
屈託のない少女のしたり顔にヴィオラは顔を背けながら、
「え、ええ」
と取り繕った笑みを浮かべつつも、降ろされたままの手の片方を、そっと敏感になった太腿に這わせる。少女の熱にわずかに温まった指のにじりは、まるで自分でない誰かに触れられているように感じられる。ヴィオラは内股を擦り合わせ、ぬるりとした粘液の感覚に顔を歪める。
「どうしたの、何か、辛そうだよ?」
その表情を、少女は心配そうに見つめている。
「大丈夫だから、心配しないで」
口ではそういいつつも、身体は節操なく快楽を求め続ける。ヴィオラは遊んだままになっていた手指の先を、唇のあわいに挟み込む。伸びた舌先が触れて、乾いた指先を湿らせていく。
(私、どうしちゃったの?)
ヴィオラは肩を上下させながら、荒い呼吸を繰り返した。少女はヴィオラの行為を、頬を染めながらじっと見つめている。
「ねえ、エカテリーナ――」
ヴィオラは少女の名を呼びつつ、両足を開き、スカートのあわいを覗かせる。
(ああ、私はこれから、幼い少女に、酷い願い事をしようとしている)
自覚はあったが、それでも昂る感情と愉悦への欲望を抑えることなど、十四歳の、それも性経験のない少女にはできるはずがなかった。
「――お願いが、あるの」
太腿を這っていた手がゆっくりと上がり、ワンピースの裾をわずかに持ち上げたときだった。
すぐ近くから、激しい地響きが聞こえた。二人のまわりを囲い込む岩石同士が擦れ、共鳴し、反響し合う。それと同時に、巨大な揺れが少女たちの小さな身体を揺さぶる。
「きゃっ!」
ヴィオラは身体のバランスを崩し、その場に崩れるように倒れ込む。
「ヴィオラ!」
少女はヴィオラの身体に覆い被さり、ローブの中に隠すようにして、頭を抱いた。ヴィオラは、倒れるときに頭を強く打ったのか、ぴくりとも動かず、少女は恐怖を覚える。岩石が崩落したのだろうか、辺りは真っ暗で、何も見えなくなる。
ひときわ大きな地響きと同時、おぞましい獣の咆哮が聞こえる。少女は、自分たちの小さな身体のかき消えていくような感覚を覚え、暗がりの中で目を瞑った。
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2
風に頬に囁くので目を覚ましたエカテリーナは、眼下に見晴らす雄大な景色に驚いた。歪な形に立ち並ぶ緑色の盛り上がりと、それに囲まれた白っぽく見える街並み。薄く靄がかっているせいだろうか、人の姿は見えないが、目を凝らせば、よく見知った森の中の木造りの小屋も緑の隙間に見つかった。
腕に力を込め、上体を高くしてその景色を眺めていると、エカテリーナの胸の下でヴィオラがうめき声をあげながら眼を擦り、同じように目を円くして、感嘆の声をあげた。
「なにこれ、すごい!」
エカテリーナの腕を跳ね除けながらこちらも上体を高くし、口を開けたまま眼下の風景を眺める。エカテリーナは何か得意になって、指さししながら街案内をした。
「あれがグリンヒルの街、あれが街の周りの山。そしてあそこが、私の家」
「あれが時計台で、あそこが石の塔で――」
エカテリーナの真似をして、ヴィオラも指さしながら続けた。しかし、その指の先に石の塔はなく、ただ禿げた茶褐色の丸形がぼんやりと見えるだけだった。
「どうして、私たち、確かにあの場所にいたはずなのに」
ヴィオラの表情が、不安に曇っていく。二人の少女のどちらも、同じ想像をした。エカテリーナは足元の地面をなぞり、それから身を乗り出して地面の裏側を、そして最後に、空の方を仰ぎ見て、高く高く、天蓋を突き破るような塔の突端を、その先に認めた。
「私たち、あの石の塔の中にいるんだ」
エカテリーナは誰に言うともなく呟いた後、その呟きの異常さに気づいて、顔を青くした。
「ねえ、もしかして」
ヴィオラがエカテリーナの言葉を代弁するように言った。
「石の塔が、空を飛んでいるんじゃないかしら」
「やっぱり、ヴィオラもそう思う?」
エカテリーナはもう一度石の塔の先端を見上げてから、眼下に広がる街を眺めた。街は、先ほど見たときよりもさらに小さくなっている。中央にある時計台がかろうじてぼんやりと見えるだけで、他のものはもはや、ひとつながりの模様としか思えないほどだった。
「この石の塔、まだまだ高くへ飛んでいくみたい」
エカテリーナが言うと、ヴィオラは静かに頷いた。お互いに眼下の風景を楽しむ余裕などなく、ただただ身を寄せ合って震えることしかできない。
「どこかへ向かっているのかな?」
エカテリーナの問いかけに、ヴィオラはやはり、首を振った。
「分からない」
「私たち、どこへ行くんだろう?」
「それも、分からない」
「これから、どうなっちゃうのかな?」
その質問に答える代わりに、ヴィオラは、エカテリーナの手を強く握った。エカテリーナは一瞬肩を震わせたが、すぐにその手を握り返してきた。
「どうなっちゃうんだろう」
エカテリーナが繰り返す。
石の塔は、ますます高度を上げていく。白い靄がより濃くなり、地面の模様すらもおぼろげになる。眼下に見えるのは、でこぼことした緑一色のみである。こういう状況でなければ、それは何より美しく壮観な眺めであるだろうことは、疑いようもなかった。しかし今、目の前に横たわるのは死の恐怖のみである。少女たちは身を縮こませ、寄せ合い、なるべく窪みの内側に座りながら、遠ざかる景色を眺めていた。
突然、すぐ近くから獣の咆哮が聞こえ、辺りの岩石が軋み、擦れ合った。それと同時に、少女たちの座り込んだ地面も大きく揺れる。エカテリーナは、ヴィオラの身体を強く抱きしめた。ヴィオラの方は、その力のあまりの強さにどぎまぎし、かえって腕の力を抜いてしまった。その脱力が全身に走ると、ヴィオラはふと、自らの下腹部のぬらつきを思い出した。
(地鳴りのする前、私、何かおかしな気分になってた)
先刻のあれは、いったい何だったのだろうか。エカテリーナの腕に抱かれた瞬間、身体の芯に火花が散って、蝋燭のように蕩けだしたのだ。全身が熱く火照り、湿った吐息が喉を焼き、じわりと震え滲んだ焦点がエカテリーナだけをはっきりと映したのである。
(思い出したら、なんか、また熱く……)
胸から徐々に高まってくる熱気が頬を染める。ヴィオラは、あまりの暑さに顔を窪みの外の方へと向けてみた。眼下にはもはや白い靄ばかりで何も見えない。風が真上から押し付けるように吹いて熱を奪っても、体温は一向に下がらない。振り返ってみると、窪みの中は意外に広く、石の塔がひっくり返りでもしない限り落ちることはなさそうだ。自分の身体は、エカテリーナに強く抱かれている。
(何を考えているの、私)
エカテリーナの身体に触れたい。下腹に伝線する疼きを、彼女に慰めてもらいたい。
ヴィオラは危機的状況にそぐわないことを考えながら、先ほど自分が施されたように、エカテリーナの髪を束ねるように撫でてやった。髪に触れた瞬間、一瞬だけ抱きしめられる力が強くなったのを感じる。しかし上から下へ撫でる動きをゆっくりと続けるにつれて、エカテリーナは次第に脱力していき、やがて、水面から顔を離すように、満面の笑みを伴ったまま顔をあげた。
「あん、くすぐったいよ、ヴィオラ」
「あら、ごめんなさい」
微笑みかけながら、ヴィオラは、エカテリーナの顔がすぐ目の前にあることに驚く。抱きしめ合うと、これだけ顔が近づくのか。それは新鮮な距離間隔であった。互いの吐息が鼻頭を湿らせ、甘い果実のような香りを伝える。視線は、自然と互いの唇へと向かう。淡く開いて覗く口中に、エカテリーナの短く、丸みを帯びた舌が覗いている。舌先を濡らした唾液が岩石の隙間を縫って差し込むわずかな明かりにさえ照り輝いて見えるのに、ヴィオラは自然と惹きつけられる。
「え、ヴィオラ?」
ヴィオラは、エカテリーナの肩に手を掛けると、抱きしめるような動作で顔を寄せ、首を傾けて彼女の唇にゆっくりと近づいていく。彼女の可愛らしい舌先を愛撫したい情欲に駆られ、半ば無意識に目を瞑る。
「ヴィ、ヴィオラ、だめだって……」
エカテリーナがヴィオラの鎖骨あたりを押し、顔を背けて抵抗する。身体は思い切りバランスを崩し、その場に崩れていく。衣擦れのわずかな音が、岩石の隙間を駆け抜け、反響する。エカテリーナは地面に直接頭をついたまま、迫ってくるヴィオラの顔を見つめる。
(ヴィオラ、睫毛長い……)
それは何気ないことであるが、エカテリーナにとっては大発見であった。長い癖っ毛を両脇にだらりと落とし、白い肌を紅潮させたままゆっくりと近づいてくるヴィオラの表情は、あまりにも美しく、エカテリーナは徐々に、吸い込まれるような気分になっていった。
(って、やっぱりだめだってこんなの!)
すんでのところで、エカテリーナは正気を取り戻し、ヴィオラの額に頭を打ち付けると、上体を起こした。ヴィオラは額を撫でさすりながら、恨みがましそうな目でエカテリーナの方を見た。紅潮はすでに引いていたが、額は丸く赤らんでいた。
「ご、ごめんね」
エカテリーナは、ともかく額のことを詫びながら、肩をすくめた。
「いいえ、私こそ。なにやってるのかしら、私」
ヴィオラが答えると、二人の間に奇妙な沈黙が流れた。
ヴィオラは、少し不思議な気分だった。エカテリーナに強く惹かれた感情を覚えていても、胸の高鳴りは、もはや残っていない。魔法が解けたかのような感覚だった。
(このことを考えるのは、もうよそう)
ショーツの濡れが冷えてきて少し気持ち悪いのを堪えつつ、ヴィオラは、ふぅ、と息をついた。
一方のエカテリーナは、先ほどヴィオラの睫毛を覗いたときに覚えた、奇妙な感覚について思い出していた。あのとき彼女は、確かにヴィオラの美しさに身を委ねたいと思った。ヴィオラの表情、匂い、柔らかさで胸の中を満たしてみたいと思ったのである。
突発的な情交のなりそこないは、見えない線のように二人の間に横たわり、二人の距離を拡げつつも、返って互いを意識させた。エカテリーナは視線をぼんやりと彷徨わせては、ちらちらとヴィオラの表情を覗き込む。時たま視線がかち合えば、どちらともなく慌てて逸らし、不毛な沈黙が続いていく。
その間にも、石の塔は上昇を続けていた。もはや大地は全く見えず、遥かに白い雲の地平線が眼前に広がるばかりである。
「どうなっちゃうんだろうね、私たち」
エカテリーナが三度呟いた言葉にも、しばらくの沈黙が伴った。しかし、やがてヴィオラは、こちらも呟くようにして言葉を返した。
「何とかなるわよ。きっと」
口を突いて出た意外なほど前向きな言葉に、ヴィオラは自ら驚いた。だがそれは、決して投げやりな気分などではなかった。エカテリーナも笑って、
「うん、そうだね。なんとかなるよね!」
と繰り返した。それから互いに顔を見合わせて笑うと、もはやそこには、沈黙の空気など塵にも残っていなかった。
再び、獣の咆哮が聞こえ、岩石の巨躯が軋み音を立てる。しかし今度は、二人とも驚かなかった。これから先何が待ち受けているのだろうかと、不安よりも、待ち遠しさの方が優っていた。二人の間に横たわっていた境界を、どちらともなく無意識のうちに飛び越えて、二人は手指を重ねる。それと同時に、石の塔は上昇を止める。眼前は一面、白い靄の世界である。
ヴィオラが少し前に出て、岩石の窪みと、外界との境目を手のひらで叩いた。そこは確かに地面のようだ。押し込んでみても、硬く押し返されるばかりである。
「行ってみようか」
「行ってみよう」
二人は頷き合って立ち上がり、手を繋いだまま、新しい大地の上へと一歩を踏み出した。
風に頬に囁くので目を覚ましたエカテリーナは、眼下に見晴らす雄大な景色に驚いた。歪な形に立ち並ぶ緑色の盛り上がりと、それに囲まれた白っぽく見える街並み。薄く靄がかっているせいだろうか、人の姿は見えないが、目を凝らせば、よく見知った森の中の木造りの小屋も緑の隙間に見つかった。
腕に力を込め、上体を高くしてその景色を眺めていると、エカテリーナの胸の下でヴィオラがうめき声をあげながら眼を擦り、同じように目を円くして、感嘆の声をあげた。
「なにこれ、すごい!」
エカテリーナの腕を跳ね除けながらこちらも上体を高くし、口を開けたまま眼下の風景を眺める。エカテリーナは何か得意になって、指さししながら街案内をした。
「あれがグリンヒルの街、あれが街の周りの山。そしてあそこが、私の家」
「あれが時計台で、あそこが石の塔で――」
エカテリーナの真似をして、ヴィオラも指さしながら続けた。しかし、その指の先に石の塔はなく、ただ禿げた茶褐色の丸形がぼんやりと見えるだけだった。
「どうして、私たち、確かにあの場所にいたはずなのに」
ヴィオラの表情が、不安に曇っていく。二人の少女のどちらも、同じ想像をした。エカテリーナは足元の地面をなぞり、それから身を乗り出して地面の裏側を、そして最後に、空の方を仰ぎ見て、高く高く、天蓋を突き破るような塔の突端を、その先に認めた。
「私たち、あの石の塔の中にいるんだ」
エカテリーナは誰に言うともなく呟いた後、その呟きの異常さに気づいて、顔を青くした。
「ねえ、もしかして」
ヴィオラがエカテリーナの言葉を代弁するように言った。
「石の塔が、空を飛んでいるんじゃないかしら」
「やっぱり、ヴィオラもそう思う?」
エカテリーナはもう一度石の塔の先端を見上げてから、眼下に広がる街を眺めた。街は、先ほど見たときよりもさらに小さくなっている。中央にある時計台がかろうじてぼんやりと見えるだけで、他のものはもはや、ひとつながりの模様としか思えないほどだった。
「この石の塔、まだまだ高くへ飛んでいくみたい」
エカテリーナが言うと、ヴィオラは静かに頷いた。お互いに眼下の風景を楽しむ余裕などなく、ただただ身を寄せ合って震えることしかできない。
「どこかへ向かっているのかな?」
エカテリーナの問いかけに、ヴィオラはやはり、首を振った。
「分からない」
「私たち、どこへ行くんだろう?」
「それも、分からない」
「これから、どうなっちゃうのかな?」
その質問に答える代わりに、ヴィオラは、エカテリーナの手を強く握った。エカテリーナは一瞬肩を震わせたが、すぐにその手を握り返してきた。
「どうなっちゃうんだろう」
エカテリーナが繰り返す。
石の塔は、ますます高度を上げていく。白い靄がより濃くなり、地面の模様すらもおぼろげになる。眼下に見えるのは、でこぼことした緑一色のみである。こういう状況でなければ、それは何より美しく壮観な眺めであるだろうことは、疑いようもなかった。しかし今、目の前に横たわるのは死の恐怖のみである。少女たちは身を縮こませ、寄せ合い、なるべく窪みの内側に座りながら、遠ざかる景色を眺めていた。
突然、すぐ近くから獣の咆哮が聞こえ、辺りの岩石が軋み、擦れ合った。それと同時に、少女たちの座り込んだ地面も大きく揺れる。エカテリーナは、ヴィオラの身体を強く抱きしめた。ヴィオラの方は、その力のあまりの強さにどぎまぎし、かえって腕の力を抜いてしまった。その脱力が全身に走ると、ヴィオラはふと、自らの下腹部のぬらつきを思い出した。
(地鳴りのする前、私、何かおかしな気分になってた)
先刻のあれは、いったい何だったのだろうか。エカテリーナの腕に抱かれた瞬間、身体の芯に火花が散って、蝋燭のように蕩けだしたのだ。全身が熱く火照り、湿った吐息が喉を焼き、じわりと震え滲んだ焦点がエカテリーナだけをはっきりと映したのである。
(思い出したら、なんか、また熱く……)
胸から徐々に高まってくる熱気が頬を染める。ヴィオラは、あまりの暑さに顔を窪みの外の方へと向けてみた。眼下にはもはや白い靄ばかりで何も見えない。風が真上から押し付けるように吹いて熱を奪っても、体温は一向に下がらない。振り返ってみると、窪みの中は意外に広く、石の塔がひっくり返りでもしない限り落ちることはなさそうだ。自分の身体は、エカテリーナに強く抱かれている。
(何を考えているの、私)
エカテリーナの身体に触れたい。下腹に伝線する疼きを、彼女に慰めてもらいたい。
ヴィオラは危機的状況にそぐわないことを考えながら、先ほど自分が施されたように、エカテリーナの髪を束ねるように撫でてやった。髪に触れた瞬間、一瞬だけ抱きしめられる力が強くなったのを感じる。しかし上から下へ撫でる動きをゆっくりと続けるにつれて、エカテリーナは次第に脱力していき、やがて、水面から顔を離すように、満面の笑みを伴ったまま顔をあげた。
「あん、くすぐったいよ、ヴィオラ」
「あら、ごめんなさい」
微笑みかけながら、ヴィオラは、エカテリーナの顔がすぐ目の前にあることに驚く。抱きしめ合うと、これだけ顔が近づくのか。それは新鮮な距離間隔であった。互いの吐息が鼻頭を湿らせ、甘い果実のような香りを伝える。視線は、自然と互いの唇へと向かう。淡く開いて覗く口中に、エカテリーナの短く、丸みを帯びた舌が覗いている。舌先を濡らした唾液が岩石の隙間を縫って差し込むわずかな明かりにさえ照り輝いて見えるのに、ヴィオラは自然と惹きつけられる。
「え、ヴィオラ?」
ヴィオラは、エカテリーナの肩に手を掛けると、抱きしめるような動作で顔を寄せ、首を傾けて彼女の唇にゆっくりと近づいていく。彼女の可愛らしい舌先を愛撫したい情欲に駆られ、半ば無意識に目を瞑る。
「ヴィ、ヴィオラ、だめだって……」
エカテリーナがヴィオラの鎖骨あたりを押し、顔を背けて抵抗する。身体は思い切りバランスを崩し、その場に崩れていく。衣擦れのわずかな音が、岩石の隙間を駆け抜け、反響する。エカテリーナは地面に直接頭をついたまま、迫ってくるヴィオラの顔を見つめる。
(ヴィオラ、睫毛長い……)
それは何気ないことであるが、エカテリーナにとっては大発見であった。長い癖っ毛を両脇にだらりと落とし、白い肌を紅潮させたままゆっくりと近づいてくるヴィオラの表情は、あまりにも美しく、エカテリーナは徐々に、吸い込まれるような気分になっていった。
(って、やっぱりだめだってこんなの!)
すんでのところで、エカテリーナは正気を取り戻し、ヴィオラの額に頭を打ち付けると、上体を起こした。ヴィオラは額を撫でさすりながら、恨みがましそうな目でエカテリーナの方を見た。紅潮はすでに引いていたが、額は丸く赤らんでいた。
「ご、ごめんね」
エカテリーナは、ともかく額のことを詫びながら、肩をすくめた。
「いいえ、私こそ。なにやってるのかしら、私」
ヴィオラが答えると、二人の間に奇妙な沈黙が流れた。
ヴィオラは、少し不思議な気分だった。エカテリーナに強く惹かれた感情を覚えていても、胸の高鳴りは、もはや残っていない。魔法が解けたかのような感覚だった。
(このことを考えるのは、もうよそう)
ショーツの濡れが冷えてきて少し気持ち悪いのを堪えつつ、ヴィオラは、ふぅ、と息をついた。
一方のエカテリーナは、先ほどヴィオラの睫毛を覗いたときに覚えた、奇妙な感覚について思い出していた。あのとき彼女は、確かにヴィオラの美しさに身を委ねたいと思った。ヴィオラの表情、匂い、柔らかさで胸の中を満たしてみたいと思ったのである。
突発的な情交のなりそこないは、見えない線のように二人の間に横たわり、二人の距離を拡げつつも、返って互いを意識させた。エカテリーナは視線をぼんやりと彷徨わせては、ちらちらとヴィオラの表情を覗き込む。時たま視線がかち合えば、どちらともなく慌てて逸らし、不毛な沈黙が続いていく。
その間にも、石の塔は上昇を続けていた。もはや大地は全く見えず、遥かに白い雲の地平線が眼前に広がるばかりである。
「どうなっちゃうんだろうね、私たち」
エカテリーナが三度呟いた言葉にも、しばらくの沈黙が伴った。しかし、やがてヴィオラは、こちらも呟くようにして言葉を返した。
「何とかなるわよ。きっと」
口を突いて出た意外なほど前向きな言葉に、ヴィオラは自ら驚いた。だがそれは、決して投げやりな気分などではなかった。エカテリーナも笑って、
「うん、そうだね。なんとかなるよね!」
と繰り返した。それから互いに顔を見合わせて笑うと、もはやそこには、沈黙の空気など塵にも残っていなかった。
再び、獣の咆哮が聞こえ、岩石の巨躯が軋み音を立てる。しかし今度は、二人とも驚かなかった。これから先何が待ち受けているのだろうかと、不安よりも、待ち遠しさの方が優っていた。二人の間に横たわっていた境界を、どちらともなく無意識のうちに飛び越えて、二人は手指を重ねる。それと同時に、石の塔は上昇を止める。眼前は一面、白い靄の世界である。
ヴィオラが少し前に出て、岩石の窪みと、外界との境目を手のひらで叩いた。そこは確かに地面のようだ。押し込んでみても、硬く押し返されるばかりである。
「行ってみようか」
「行ってみよう」
二人は頷き合って立ち上がり、手を繋いだまま、新しい大地の上へと一歩を踏み出した。
3
二人は白い靄の中へ足を埋め、辺りを見渡す。白は複雑な形をした複数の足場の連続として存在し、空と平行に、無限大へと続いている。白の大地をひとつ上空へ進めば、そこは青そのものであった。空と大地の境目にある白い靄、つまり、今自分たちの踏みしめている地平が、自由に流れ行く雲そのものなのだと気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。
ただっぴろい雲の上を一歩一歩進んでいく。地平線は遥か彼方まで見渡せるのに、辺りには滲んだフィルムのような存在感が揺らめいている。目には見えなくても、二人の少女には直接感じ取ることができる。近づいてみると、存在感は確かな形を取ってそこに現れる。現れた瞬間に、それが、遥か遠方から見え続けていた景色のひとつであったように思えてくるのが、ヴィオラには不思議だった。
雪を固めた様に白い壁に囲まれた、柔らかな線で作られた家々には自分たちによく似た人々が暮らしていた。ある人は眠り、ある人は食べ、またある人は伸びをして、穏やかな時間を過ごしている。一人の女が少女たちに気づいて声を掛ける。
「お嬢ちゃんたち、どこから来たの?」
「どこからって」
ヴィオラは答えに窮し、顔を俯ける。視線の先には真っ白な雲の大地ではなく、その下にあるはずの緑の高原があった。雲の民は怪訝な顔をして、
「なんだい、ひょっとして、迷い人かい?」
「そういうわけではないんですけれど」
エカテリーナがヴィオラの肩を叩いて、一歩前に歩み出る。
「私たち、石の塔に乗って、ここに連れてこられたんだ」
「石の塔?」
雲の民はますます顔を曇らせる。
「おっきな岩がたくさん重なって、すっごく高くって、ちょっぴり怖くって」
「ああ、ひょっとして、石の巨人のことかい?」
女の口から飛び出した思いもよらぬ言葉に、二人は驚き、顔を見合わせた。
「巨人、だって」
「本当に、巨人だったんだ」
互いに驚きを確認し合ってから、今度はヴィオラが前に出て、詳しい説明を求める。
「私たち巨人に乗って、雲の下からここまで来たんです。帰り方を知りたくて」
「帰り方?」
雲の民は顔をしかめた。
「どうして帰る必要があるんだい。ここは天国だよ。諍いもないし、悩みもない。見たくない物は見なけりゃいいし、聞きたくない物は聞かなきゃいい。居場所を変えたければ、雲を切り取って漂えばいい。地上にないものがたくさんあって、地上じゃ手に入らないものが、いくらでも手に入るんだ。どうして、帰る必要があるんだい?」
雲の民が熱弁を振るうのについていけず、エカテリーナは目をしばたかせながら尋ねた。
「雲の上って、そんなにいいところなんですか?」
「ああ、いいところだよ。せっかく来たんだから、楽しんでいきなよ。そうしたら、もう帰ろうなんて気は、起こらなくなるだろうね」
二人はもう一度目を見合わせる。ヴィオラは首を振った。
「だめよ、ちゃんと帰らなくっちゃ」
「でも、少しだけ興味湧いてきたかも。ほんの少しだけ、遊んでいかない?」
エカテリーナは片目を瞑り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。ヴィオラはしばらく黙っていたが、やがてため息をついて、
「しょうがないわね。でも、ちゃんと帰るんだからね」
と言った。
「話は着いたようだね」
雲の民は傍らにある雲の家の扉を開けて、二人を招いた。
「改めて、エスチェテの国へようこそ。まずは美味しい料理で、二人を歓迎するよ」
二人が彼女の家に入ると、扉がゆっくりと閉じて、空の青と同化した。そこには確かに、仕切りとしての壁の存在感があるのだが、景色としての壁の雰囲気が欠けている。遥かな地平線と差し込む穏やかな日差しを浴びながらも、ヴィオラは、確かに室内の落ち着きを感じている。喩えるなら、それはシャボン玉の中にいるような感覚であった。
雲の民は二人を促してダイニングテーブルに着かせると、自分はキッチンに立って銀色の鍋を火にかけた。見たこともない形の果実の皮を剥き、切り、絞って鍋に投げ込む。鍋底で食材の踊る小気味いい音が聞こえ、わずかに酸味の混ざった甘い香りが漂ってくる。
「おばちゃんは、料理上手いの?」
足を前後に振りながら、落ち着かない様子のエカテリーナが尋ねる。あまりに無遠慮な質問にヴィオラは内心ひやっとしたが、雲の民は気にする様子もなく高らかに笑い声を上げた。
「ああ、上手いよ。なんせ私は、エラルド様の料理番だったことがあるんだからね」
「エラルド様?」
「エスチェテの女王様みたいな方さ。それはそれはお美しく、偉大な方であらせられる」
雲の民はどこか二人の方へ向き直り、目を細めて、どこか得意げに言った。きっと彼女は、エラルド様のことが好きなんだろう、とエカテリーナは思った。
(好き、と言えば……)
エカテリーナは、隣の席に着くヴィオラの横顔を、ちらりと覗き込んだ。石の塔の中で見たのと同じ、長い睫毛が彼女の切れ長の目の上側に、覆うように伸びていた。一本一本の毛先が色素の薄い芯に支えられて浮き立つように並んでおり、その下で潤みを帯びながら仄かに揺れ動いている瞳を守っている。穏やかな日差しに白く煌めいてすら見えるその様子には、一瞬眺めただけで心臓を高鳴らせ、もっと近くから眺めてみたいと思わせるような魅力があった。
エカテリーナの惚けた瞳に気づいてか、ヴィオラは彼女の方へ身体ごと向き直り、口元に微笑を浮かべた。
「どうしたの、エカテリーナ」
「あ、ううん、なんでもないの」
ヴィオラの言葉で我に返り、顔の前で両手を振りながら身体を退けると、無理な体勢であったか、エカテリーナは椅子ごと後ろへと傾いていく。
「うわあ!」
「危ない!」
その身体が地面に着くより一瞬早く、ヴィオラの伸ばした手が、エカテリーナの腕を掴んで支えた。横転した椅子が弾んで、飛沫の割れるような音を立てた。
「なにやってんだい」
雲の民は二人の方を向かぬまま、呆れた様な声を出した。
エカテリーナは内心パニックになっていた。転げるかと思ったとき、心臓が跳ねるように動いて、冷たい空気が喉を抜けた。そうしたら、見開いた瞳にヴィオラの姿が飛び込んできて、腕を支えられた。腕を通して伝わる彼女の細く冷たい指先は、今も、鋭い力でエカテリーナの腕を掴んでいる。それより、どうして私は転げそうになったのだろうか。目の前のヴィオラは瞳孔を少しだけ開き、唇のあわいから熱い息を吐きながら、落ち着かないように睫毛を揺らしている。
「もう、びっくりしたじゃない」
彼女の言葉を聞いたとき、エカテリーナは一番大切なことに気づいた。
(そうだ、顔!)
どこか変になっていないだろうか。エカテリーナは、耳朶が熱いのを感じ、反射的に手を這わせた。そこは激しく熱を持ち、今にも溶けそうなほどだった。それから手を頬へ、鼻へと運んでいく。どこもかしこも、熱いままである。
「わわ、わわわっ」
エカテリーナは半ば反射的にヴィオラの腕から手を引き抜いた。そのままバランスを崩し、結局、白い地面の上に身体を転がした。
(痛くない。柔らかい)
白い地面は、ソファーのように柔らかく、身体を包んでいた。ここに降り立つ前に触れたときは、確かに硬い地面だったのだが、もしかすると、触れる者の意思に合わせて感触を変えるのかもしれない。
エカテリーナは身体を埋めたまま、手足を軽く動かしてみる。すると、身体を中心にして地面が波打ち、心地よい浮遊感をその身に返してきた。エカテリーナは何か楽しくなって、
「ヴィオラ、これ、楽しいよ」
と言ってからヴィオラの姿を探し、ようやく、ヴィオラが自分の身体の上に折り重なって倒れていることに気づいた。エカテリーナは、慌てて彼女の肩を抱き、ゆっくりと起こしてやる。
「いたた……」
ヴィオラは鼻頭をさすりながら、恨めしそうな目でエカテリーナを見つめた。
「ご、ごめんね」
エカテリーナは心底申し訳なくなって、謝罪の言葉を口にしてから、
(そう言えば、さっきもこんな感じだったな)
と苦笑した。
「ほら、お嬢ちゃんたち、寝転んでないで、椅子に座りなさいな。ようやく、料理の完成だよ」
雲の民は鍋の中の料理を皿に盛り付けながら言った。テーブルの上に、二枚のスープ皿が差し出される。少女たちはそそくさと椅子を立て直し、腰かけてから皿を覗き込む。その瞬間、立ち昇る白い煙に混ざって、例の、酸味の混ざった甘い匂いが飛び込んできた。涼し気に透き通った蜜のスープの中に、カラフルな果肉が浮かんでいる。
「ちょっと熱いから、気を付けるんだよ」
少女たちは差し出されたスプーンを受け取ると、思い思いに、皿に手を着けていく。すくい取った蜜が、スプーンの中で綿菓子のような形を取って膨らみ、果肉を飲み込む。口の中に含むと、急激にとろけて舌の上で波打ち、きれよく喉を流れていく。甘く溶けるような味が初めにあって、喉を抜けるころには炭酸のような爽やかな感覚が弾け、柑橘の酸味を残していく。
「おいしい」
ヴィオラが顔を上げ、雲の民に向かって繰り返し言った。
「ねえ、これ、すごくおいしい」
「そうだろうさ。なんて言ったって、私はエラルド様の元料理番だからね」
雲の民は腕組みをし、先ほどと同じセリフを口にしながら、歯を見せてはにかんだ。
一方、エカテリーナは不思議な感覚に陥っていた。彼女の料理を一口食べた瞬間から、何か熱い感情が、目頭を刺激してやまない。エカテリーナは目を瞑り、頬に力を入れて、その感情を押し殺した。しかし、視界が真っ暗になった瞬間、そこに一人の女の顔が映し出されると、その努力も水泡となった。
(お母さん……)
エカテリーナは、目を開き、口を閉じ、口内に残る柑橘の味を繰り返し確かめながら、涙の粒を零していた。雲の民が慌てた様子で、
「なんだい、泣くほどおいしかったのかい?」
などと言っているが、エカテリーナの耳にはもはや届いていない。彼女の顔を、ヴィオラが心配気に覗き込む。
「どうしたの、エカテリーナ」
エカテリーナは目をしばたかせて零れていく涙の途切れを待ちながら、しゃくりあげる呼吸の安定期を待ちながら、ゆっくりと、細切れの言葉を紡いだ。
「この味、お母さんの味がするの」
エカテリーナは、先ほど自分自身がした提案を、強く後悔した。どうして、あんなに楽観的になれたのだろう。雲の民は頭を掻きながら、ばつの悪そうな顔をした。
「お母さん、ごめんなさい……」
泣き止まないエカテリーナの肩を抱いて、大丈夫、大丈夫と慰めながらヴィオラは、雲の民に向かって言った。
「ごめんなさい、この子、結構泣き虫で」
「そうだね、確かにエスチェテの国は、君たちにはちょっと早すぎたかもしれないね」
雲の民はふっと優しい顔になり、それから厚く丸々とした手で、ヴィオラの、そしてエカテリーナの頭を撫でた。
「お母さんを、心配させたらいけないね」
ヴィオラは頷き、自分も少し泣きそうな顔で、
「地上に帰る方法を、教えてもらえますか」
と尋ねた。
「ここからずっと、太陽の沈む方向に歩いていくと、エラルド様の宮殿がある。エラルド様なら、きっと帰る方法を教えてくれるさ」
雲の民は答えてから、広い胸で、二人の少女をまとめて抱きしめた。
「ふわっ」
エカテリーナが驚いて声を出す。肉厚な胸に頬を圧迫されたためもあったが、それより、彼女の体温の暖かさと、どこか懐かしいような感覚にとても驚いたのだ。
「しっかり、頑張んな。たとえこれから、どんな困難が待ち受けていようとも」
雲の民は教訓めいた口調で言って、最後にもう一度、二人の頭を撫でた。
彼女の家を出た二人は、再び手を繋いで、何度か振り向いたり、手を振ったりを繰り返しながら、足だけはまっすぐに、太陽の沈む方向へと歩き続けた。
雲の家の前で二人の背中を見送りながら、雲の民は、誰に言うともなく呟いた。
「あの小さかった子があんなに成長するなんてね。負けるんじゃないよ。エカテリーナ」
二人は白い靄の中へ足を埋め、辺りを見渡す。白は複雑な形をした複数の足場の連続として存在し、空と平行に、無限大へと続いている。白の大地をひとつ上空へ進めば、そこは青そのものであった。空と大地の境目にある白い靄、つまり、今自分たちの踏みしめている地平が、自由に流れ行く雲そのものなのだと気づいたのは、それからしばらく経ってからだった。
ただっぴろい雲の上を一歩一歩進んでいく。地平線は遥か彼方まで見渡せるのに、辺りには滲んだフィルムのような存在感が揺らめいている。目には見えなくても、二人の少女には直接感じ取ることができる。近づいてみると、存在感は確かな形を取ってそこに現れる。現れた瞬間に、それが、遥か遠方から見え続けていた景色のひとつであったように思えてくるのが、ヴィオラには不思議だった。
雪を固めた様に白い壁に囲まれた、柔らかな線で作られた家々には自分たちによく似た人々が暮らしていた。ある人は眠り、ある人は食べ、またある人は伸びをして、穏やかな時間を過ごしている。一人の女が少女たちに気づいて声を掛ける。
「お嬢ちゃんたち、どこから来たの?」
「どこからって」
ヴィオラは答えに窮し、顔を俯ける。視線の先には真っ白な雲の大地ではなく、その下にあるはずの緑の高原があった。雲の民は怪訝な顔をして、
「なんだい、ひょっとして、迷い人かい?」
「そういうわけではないんですけれど」
エカテリーナがヴィオラの肩を叩いて、一歩前に歩み出る。
「私たち、石の塔に乗って、ここに連れてこられたんだ」
「石の塔?」
雲の民はますます顔を曇らせる。
「おっきな岩がたくさん重なって、すっごく高くって、ちょっぴり怖くって」
「ああ、ひょっとして、石の巨人のことかい?」
女の口から飛び出した思いもよらぬ言葉に、二人は驚き、顔を見合わせた。
「巨人、だって」
「本当に、巨人だったんだ」
互いに驚きを確認し合ってから、今度はヴィオラが前に出て、詳しい説明を求める。
「私たち巨人に乗って、雲の下からここまで来たんです。帰り方を知りたくて」
「帰り方?」
雲の民は顔をしかめた。
「どうして帰る必要があるんだい。ここは天国だよ。諍いもないし、悩みもない。見たくない物は見なけりゃいいし、聞きたくない物は聞かなきゃいい。居場所を変えたければ、雲を切り取って漂えばいい。地上にないものがたくさんあって、地上じゃ手に入らないものが、いくらでも手に入るんだ。どうして、帰る必要があるんだい?」
雲の民が熱弁を振るうのについていけず、エカテリーナは目をしばたかせながら尋ねた。
「雲の上って、そんなにいいところなんですか?」
「ああ、いいところだよ。せっかく来たんだから、楽しんでいきなよ。そうしたら、もう帰ろうなんて気は、起こらなくなるだろうね」
二人はもう一度目を見合わせる。ヴィオラは首を振った。
「だめよ、ちゃんと帰らなくっちゃ」
「でも、少しだけ興味湧いてきたかも。ほんの少しだけ、遊んでいかない?」
エカテリーナは片目を瞑り、悪戯っぽい笑みを浮かべた。ヴィオラはしばらく黙っていたが、やがてため息をついて、
「しょうがないわね。でも、ちゃんと帰るんだからね」
と言った。
「話は着いたようだね」
雲の民は傍らにある雲の家の扉を開けて、二人を招いた。
「改めて、エスチェテの国へようこそ。まずは美味しい料理で、二人を歓迎するよ」
二人が彼女の家に入ると、扉がゆっくりと閉じて、空の青と同化した。そこには確かに、仕切りとしての壁の存在感があるのだが、景色としての壁の雰囲気が欠けている。遥かな地平線と差し込む穏やかな日差しを浴びながらも、ヴィオラは、確かに室内の落ち着きを感じている。喩えるなら、それはシャボン玉の中にいるような感覚であった。
雲の民は二人を促してダイニングテーブルに着かせると、自分はキッチンに立って銀色の鍋を火にかけた。見たこともない形の果実の皮を剥き、切り、絞って鍋に投げ込む。鍋底で食材の踊る小気味いい音が聞こえ、わずかに酸味の混ざった甘い香りが漂ってくる。
「おばちゃんは、料理上手いの?」
足を前後に振りながら、落ち着かない様子のエカテリーナが尋ねる。あまりに無遠慮な質問にヴィオラは内心ひやっとしたが、雲の民は気にする様子もなく高らかに笑い声を上げた。
「ああ、上手いよ。なんせ私は、エラルド様の料理番だったことがあるんだからね」
「エラルド様?」
「エスチェテの女王様みたいな方さ。それはそれはお美しく、偉大な方であらせられる」
雲の民はどこか二人の方へ向き直り、目を細めて、どこか得意げに言った。きっと彼女は、エラルド様のことが好きなんだろう、とエカテリーナは思った。
(好き、と言えば……)
エカテリーナは、隣の席に着くヴィオラの横顔を、ちらりと覗き込んだ。石の塔の中で見たのと同じ、長い睫毛が彼女の切れ長の目の上側に、覆うように伸びていた。一本一本の毛先が色素の薄い芯に支えられて浮き立つように並んでおり、その下で潤みを帯びながら仄かに揺れ動いている瞳を守っている。穏やかな日差しに白く煌めいてすら見えるその様子には、一瞬眺めただけで心臓を高鳴らせ、もっと近くから眺めてみたいと思わせるような魅力があった。
エカテリーナの惚けた瞳に気づいてか、ヴィオラは彼女の方へ身体ごと向き直り、口元に微笑を浮かべた。
「どうしたの、エカテリーナ」
「あ、ううん、なんでもないの」
ヴィオラの言葉で我に返り、顔の前で両手を振りながら身体を退けると、無理な体勢であったか、エカテリーナは椅子ごと後ろへと傾いていく。
「うわあ!」
「危ない!」
その身体が地面に着くより一瞬早く、ヴィオラの伸ばした手が、エカテリーナの腕を掴んで支えた。横転した椅子が弾んで、飛沫の割れるような音を立てた。
「なにやってんだい」
雲の民は二人の方を向かぬまま、呆れた様な声を出した。
エカテリーナは内心パニックになっていた。転げるかと思ったとき、心臓が跳ねるように動いて、冷たい空気が喉を抜けた。そうしたら、見開いた瞳にヴィオラの姿が飛び込んできて、腕を支えられた。腕を通して伝わる彼女の細く冷たい指先は、今も、鋭い力でエカテリーナの腕を掴んでいる。それより、どうして私は転げそうになったのだろうか。目の前のヴィオラは瞳孔を少しだけ開き、唇のあわいから熱い息を吐きながら、落ち着かないように睫毛を揺らしている。
「もう、びっくりしたじゃない」
彼女の言葉を聞いたとき、エカテリーナは一番大切なことに気づいた。
(そうだ、顔!)
どこか変になっていないだろうか。エカテリーナは、耳朶が熱いのを感じ、反射的に手を這わせた。そこは激しく熱を持ち、今にも溶けそうなほどだった。それから手を頬へ、鼻へと運んでいく。どこもかしこも、熱いままである。
「わわ、わわわっ」
エカテリーナは半ば反射的にヴィオラの腕から手を引き抜いた。そのままバランスを崩し、結局、白い地面の上に身体を転がした。
(痛くない。柔らかい)
白い地面は、ソファーのように柔らかく、身体を包んでいた。ここに降り立つ前に触れたときは、確かに硬い地面だったのだが、もしかすると、触れる者の意思に合わせて感触を変えるのかもしれない。
エカテリーナは身体を埋めたまま、手足を軽く動かしてみる。すると、身体を中心にして地面が波打ち、心地よい浮遊感をその身に返してきた。エカテリーナは何か楽しくなって、
「ヴィオラ、これ、楽しいよ」
と言ってからヴィオラの姿を探し、ようやく、ヴィオラが自分の身体の上に折り重なって倒れていることに気づいた。エカテリーナは、慌てて彼女の肩を抱き、ゆっくりと起こしてやる。
「いたた……」
ヴィオラは鼻頭をさすりながら、恨めしそうな目でエカテリーナを見つめた。
「ご、ごめんね」
エカテリーナは心底申し訳なくなって、謝罪の言葉を口にしてから、
(そう言えば、さっきもこんな感じだったな)
と苦笑した。
「ほら、お嬢ちゃんたち、寝転んでないで、椅子に座りなさいな。ようやく、料理の完成だよ」
雲の民は鍋の中の料理を皿に盛り付けながら言った。テーブルの上に、二枚のスープ皿が差し出される。少女たちはそそくさと椅子を立て直し、腰かけてから皿を覗き込む。その瞬間、立ち昇る白い煙に混ざって、例の、酸味の混ざった甘い匂いが飛び込んできた。涼し気に透き通った蜜のスープの中に、カラフルな果肉が浮かんでいる。
「ちょっと熱いから、気を付けるんだよ」
少女たちは差し出されたスプーンを受け取ると、思い思いに、皿に手を着けていく。すくい取った蜜が、スプーンの中で綿菓子のような形を取って膨らみ、果肉を飲み込む。口の中に含むと、急激にとろけて舌の上で波打ち、きれよく喉を流れていく。甘く溶けるような味が初めにあって、喉を抜けるころには炭酸のような爽やかな感覚が弾け、柑橘の酸味を残していく。
「おいしい」
ヴィオラが顔を上げ、雲の民に向かって繰り返し言った。
「ねえ、これ、すごくおいしい」
「そうだろうさ。なんて言ったって、私はエラルド様の元料理番だからね」
雲の民は腕組みをし、先ほどと同じセリフを口にしながら、歯を見せてはにかんだ。
一方、エカテリーナは不思議な感覚に陥っていた。彼女の料理を一口食べた瞬間から、何か熱い感情が、目頭を刺激してやまない。エカテリーナは目を瞑り、頬に力を入れて、その感情を押し殺した。しかし、視界が真っ暗になった瞬間、そこに一人の女の顔が映し出されると、その努力も水泡となった。
(お母さん……)
エカテリーナは、目を開き、口を閉じ、口内に残る柑橘の味を繰り返し確かめながら、涙の粒を零していた。雲の民が慌てた様子で、
「なんだい、泣くほどおいしかったのかい?」
などと言っているが、エカテリーナの耳にはもはや届いていない。彼女の顔を、ヴィオラが心配気に覗き込む。
「どうしたの、エカテリーナ」
エカテリーナは目をしばたかせて零れていく涙の途切れを待ちながら、しゃくりあげる呼吸の安定期を待ちながら、ゆっくりと、細切れの言葉を紡いだ。
「この味、お母さんの味がするの」
エカテリーナは、先ほど自分自身がした提案を、強く後悔した。どうして、あんなに楽観的になれたのだろう。雲の民は頭を掻きながら、ばつの悪そうな顔をした。
「お母さん、ごめんなさい……」
泣き止まないエカテリーナの肩を抱いて、大丈夫、大丈夫と慰めながらヴィオラは、雲の民に向かって言った。
「ごめんなさい、この子、結構泣き虫で」
「そうだね、確かにエスチェテの国は、君たちにはちょっと早すぎたかもしれないね」
雲の民はふっと優しい顔になり、それから厚く丸々とした手で、ヴィオラの、そしてエカテリーナの頭を撫でた。
「お母さんを、心配させたらいけないね」
ヴィオラは頷き、自分も少し泣きそうな顔で、
「地上に帰る方法を、教えてもらえますか」
と尋ねた。
「ここからずっと、太陽の沈む方向に歩いていくと、エラルド様の宮殿がある。エラルド様なら、きっと帰る方法を教えてくれるさ」
雲の民は答えてから、広い胸で、二人の少女をまとめて抱きしめた。
「ふわっ」
エカテリーナが驚いて声を出す。肉厚な胸に頬を圧迫されたためもあったが、それより、彼女の体温の暖かさと、どこか懐かしいような感覚にとても驚いたのだ。
「しっかり、頑張んな。たとえこれから、どんな困難が待ち受けていようとも」
雲の民は教訓めいた口調で言って、最後にもう一度、二人の頭を撫でた。
彼女の家を出た二人は、再び手を繋いで、何度か振り向いたり、手を振ったりを繰り返しながら、足だけはまっすぐに、太陽の沈む方向へと歩き続けた。
雲の家の前で二人の背中を見送りながら、雲の民は、誰に言うともなく呟いた。
「あの小さかった子があんなに成長するなんてね。負けるんじゃないよ。エカテリーナ」
4
数えきれないほどの建物の横を通り過ぎ、雲の切れ間を飛び越え、太陽を追いかけ続けた二人は、ようやく、白雲の折り重なってできた宮殿の前にたどり着いた。はじめそれは、単に仰々しい門扉が二人の行き先を邪魔するように立ちふさがっているようにしか見えなかった。しかしその遥かな頂上を見上げて首を痛いほどに傾けていくにつれ、丸くふっくらとした屋根の先に鋭い突起が立っていて、そこに細長い一筋のリボンがはためいているのを見つけると、ようやく、その門の先に自分たちの目指した場所があるのだと分かった。
ヴィオラは門扉に軽く触れ、それから力を込めて押してみる。ヴィオラの小さな掌は門の中に吸いつけられるようにして埋まり、慌てて腕を引くと、指先には蜘蛛の糸のような粘着質が絡みついていた。
そのとき、どこからともなく、エコーのかかったような声が降り下りてきて、二人のこめかみを揺さぶった。
「誰じゃ、ノックもせずにわらわの宮殿に潜り込もうとする不届き者は」
二人は声の主の姿を周囲に探した。しかし姿はどこにも見えない。エコーのかかった声は不気味な広がりのある笑い声を発した。
「辺りを見回したって無駄だよ。わらわは今、お前たちの頭の中に直接語り掛けておるのだからな」
ヴィオラがこめかみを抑え、目を見開く。不気味な笑い声が鳴り続いている。耳を塞いでも、確かに聞こえてくる。ヴィオラは恐ろしくなって、エカテリーナの腕を掴む。
しかしエカテリーナは、心底愉快そうに笑っていた。耳に手を当てたり、離したりして、声の聞こえ具合を確かめてから、目を輝かせて、
「本当だ! 耳を塞いでも聞こえてくるよ!」
と昂奮を隠さない声で叫んだ。それからヴィオラの手を取って上下に力強く振りながら、
「すごいねえ、すごいねえ」
と繰り返す。彼女の声に重ねるようにして、不気味な声もまた、より高らかに笑い返す。
「あははははは、何年ぶりだろうなあ、こんな愉快な客人は」
それからすぐ、目の前の門扉の存在感がふっと消え、宮殿の入口へと続く長くうねりのある道が姿を現した。煉瓦状の雲が規則的に並んでおり、両側をパステルの灯のような花たちに囲まれている。
二人の少女は道なりに進み、巨大な宮殿の入り口を抜ける。
宮殿の中はぼんやりと水色で、雲の民の家とは違い、壁の存在感が確かに存在していた。幅の広い階段が目の前にあり、中空に下がるシャンデリアは青い炎のついたろうそくをその身に称えている。いくつもの扉に目移りし、困惑している少女たちの背後を、音もなく、一人の女性がすり抜けていった。女性は二人の前に立ち、かかとを鳴らすと、長い胴をゆっくりと折り曲げながら名乗り、挨拶をした。
「わたくしは、エラルド様の忠臣、クラウディアと申します。本日は、お二方を客人としてもてなすよう、仰せつかっております」
クラウディアは、控えめにも美しい女性であった。雪のような白い柔肌に、銀色の瞳が浮かんでいる。透き通るような鼻筋に、細く結ばれた唇の紅が、やたらに視線を吸い寄せる。
身体は真っ黒なスーツに全身を包まれていたが、ところどころに見られる女性的な曲線の美は、特に少女たちの視線を集めた。
「な、なんですか?」
クラウディアが困惑気に尋ねると、二人の少女は、
「かっこいい」
と声を揃えた。クラウディアは、照れ隠しのつもりなのか、咳ばらいをひとつしてから、少女たちに背中を向けた。
「さ、こちらがエラルド様のお部屋です」
クラウディアの靴は、歩くたびに軽やかな音を立てる。エカテリーナはそれすらもかっこいいと感じ、ブーツの底で雲の床を蹴ってみたが、音は鳴らなかった。
「エラルド様、客人をお連れしました」
階段の先の大きな扉を潜り抜けると、エカテリーナの家全体よりも広い一部屋がそこに広がっていた。エラルドは窓の向こうのバルコニーから沈む太陽を眺めていたが、クラウディアの呼びかけにゆっくりと振り返ると、部屋の中へと戻り、二人の少女の元へと厳かな雰囲気で近づいてきた。
「久しぶりじゃな。主ら」
思いがけない言葉に二人は顔を見合わせる。エカテリーナが言った。
「あの、私、あなたとは初対面だのはずなんだけど」
「よいよい。お主は正しい。人はだれしも、初めてがあって最後があるものじゃ。無限の時の巡りあわせは、いつでも同じ法則の下にある」
言葉の意味を掴みかねて、エカテリーナは首を傾げる。エラルドはまたも、大声をあげて笑う。
「いずれ分かる時がくるじゃろう。事故と言え、エスチェテにたどり着くようなおなごたちじゃからの」
事故という言葉に、ヴィオラが反応する。
「事故って、どういうことですか? 私たちは、石の巨人に乗ってここに飛んできたんです。それが事故だってことですか?」
「そうじゃ。もっとも、なぜあの巨人が動いたのか、わらわにも分からぬがの」
エラルドは難しい顔をしたまま、ヴィオラに顔を近づけた。それから怪訝な顔をして、今度はエカテリーナの方へ鼻を寄せ、音を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「主ら、少しばかりに臭うな。へたっぴな魔術の臭いじゃ。そう感じぬか、クラウディア」
「確かに、媚の魔術がかかっているように感じられます」
クラウディアは頷き、再びまっすぐに背筋を正す。少女たちは顔を見合わせる。ふいに、そのヴィオラの横顔を、エラルドの両手が挟み込んだ。
「そのままじゃ、主らも不便じゃろうて。どれ、わらわが吸魔してやろうかの」
ヴィオラの顔に、エラルドの柔らかな唇が近づく。ヴィオラは、彼女の唇のあわいから漏れだす熱く湿った吐息と、そのささやかな果実臭に戸惑い、顔を青くする。
「え、やっ! な、なにをするつもりですか……?」
首を左右に揺り動かし、細長く冷たいエラルドの手から逃れようともがきながら、ヴィオラは叫んだ。エラルドは上唇を舐め、目端を悪戯っぽく歪ませながら、
「なに、ちょっと舌を吸うだけじゃ。大人しくしていれば、すぐに終わるからの」
「そ、それって、キ、キスする気じゃ……」
ヴィオラの瞳孔が大きく開く。その顔は首まで真っ赤になり、膝は小刻みに震えている。上体を後ろに傾ける無茶な姿勢を、頬を通って後頭部へと回ったエラルドの手が支える。エラルドは目を細め、紅色に艶めく唇を、ヴィオラの頬にあてがい、舌を突き出した。
「ひっ」
ヴィオラの肩がひくつき、強い力で、首を大きく横へそらす。エラルドの腕から零れ落ち、床に崩れた後、なおも顎を傾けられたヴィオラは、目に涙を潤ませたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「スイッチが入ったようじゃの」
エラルドは楽し気に言いながら、なおもヴィオラの頬に舌をあてがってなぞったり、唇の先を当てて吸いつけたりを繰り返した。その度にヴィオラの身体は大きく震え、少女らしい甲高い嬌声があたりに響いた。
エカテリーナは、何かいけないものを見ているような気がして目を覆いつつも、心臓に鶏のくちばしで突かれるような痛みを覚えていた。ヴィオラの声を聞くたびに、なにか言葉にできないような悩ましさが、胸の奥に渦巻いていくのを感じた。
エラルドは、なおも頬への愛撫を続けている。ヴィオラは身をよじらせながら、彼女のふくよかな胸に手をあてて押し返していたが、その力も弱くなったと見えて、エラルドの攻めはますます間隔を短くしていった。
「ひゃ、ぁうんっ!」
ヴィオラがひと際大きな声をあげて腰を弓形に反らせると、エラルドは首筋に触れていた手をゆっくりと掃くように下げていき、ヴィオラのわずかな膨らみのまわりを撫で始めた。指が当たるたび、膨らみの上の白いワンピースは皺模様を変えていく。ヴィオラは呼吸を短くし、途切れ途切れの短い言葉で喘ぎながらも、もはや無抵抗で、エラルドの所作に熱い視線を送っている。
「そろそろ、よいかの」
エラルドの親指がヴィオラの乳頭に触れ、そのままこね回すように動き始めると、ヴィオラは喉の引きつるような声をあげた。圧し、つまみ上げ、揉みまわし、様々な刺激を未発達の突起に繰り返し与えるたび、ヴィオラの悲鳴にも似た声は大きくなっていった。
「あ、あの、エラルド様」
クラウディアが腰を曲げ、申し訳なさそうな声でエラルドの耳元にささやきかける。エラルドは右手の仕草を止めないままで、
「なんじゃ、お楽しみ中じゃというのに」
と彼女を鋭い視線で睨みつけたが、クラウディアは怖気づく様子もなく、淡々と、
「もう一人のお嬢様が、その、自慰に、耽っておられるようでして」
「なんじゃと」
エラルドは鋭い視線のまま、首を左右に振り動かした。そこに確かに、口中に指を含ませつつ自らの乳房を愛撫する少女の姿があるではないか。
「ああ、なんとも悩ましい」
エラルドは奥歯を噛みしめつつ、エカテリーナの自慰に意識を奪われる。口からはぬるく粘りのある唾液がしたたり、濡れた唇の隙間からは、熱い吐息が白く濁っている。細めたまぶたの奥からは虚ろな瞳がわずかに覗く。乳房に触れる手の動きは、エラルドの所作をまねたのだろうか。一本一本の指を不規則に動かして、柔い感触を愉しみつつ、甘美な情感に耽っているように見える。その証拠に、少女は時々内股を小刻みに震わせて、幼い女芯のうずきを本能的に感受していた。
「ねえ、おば様」
エラルドの首に、ヴィオラの腕が回される。エラルドが驚いてそちらを見ると、ヴィオラは口元に微笑みをたたえたまま、情熱的に潤んだ瞳で彼女の方をまっすぐに見ていた。
「もっと気持ちいいの、欲しいのよ、おば様」
エラルドは、それが自分の執拗な愛撫の結果でないことに、すでに気づいていた。
(これは明らかに、手練れた魔女の仕業だ)
エラルドはわずかに恐れを抱いた。彼女にかかった悪い虫を吸い込んだら、自分はどうなってしまうのか。この歳にもなって、誰彼構わず発情してしまうようになったのでは笑えない。
(だがここで止めたら、大魔女の名が廃る!)
ヴィオラに向き直り、再び両手で頬を挟むと、目を瞑り、意を決して唇を重ねた。
「ふうっ、ん……」
ヴィオラのくぐもった声、吐息の熱さを感じながら、エラルドは舌をヴィオラの口内へと差し込んだ。ヴィオラはほとんど本能的に口を広げ、少女の短く細い舌を必死に伸ばしてくる。エラルドは口腔粘膜の蕩けるような感触を舌先で覚えながら、少女の短い舌に蛇のように絡みつき、引き込むようにして吸い込んだ。
泡立つような気配に舌を引き抜き、唾液の糸が唇の先を伝うのを覚えながら、エラルドは自らの身体の中へ入り込んだ得体のしれないうずきに、喉を抑えて堪えた。その目の前で、ヴィオラが身体を崩して、大きく胸を膨らませながら、安らかな寝息を立て始めた。
(どうやら、上手くいったようじゃな)
エラルドは、次にエカテリーナの方へ視線をやった。エカテリーナはすでに自慰を止め、惚けたような顔で二人の方を見ていた。
「どれ、お嬢ちゃんにも、キスをしてやらねばな」
エラルドがにじりよると、エカテリーナはむっとした顔をして、
「いらない!」
と大声をあげる。
「なんと!」
エラルドは鼻を鳴らし、再びエカテリーナの臭いを確かめる。それからまた、あの不気味な声で高笑いした。
「なんじゃ、そうであったか!」
エラルドには、全て合点がいっていた。ヴィオラの身体を蝕んだ、強い魔力のこと。その魔力の強さに、自分自身が気付かなかったこと。
それから、エカテリーナの身体には、同じ魔術が効力を発していなかったこと。
「エカテリーナ、母さんは元気か?」
エラルドは少女に向かって、楽し気な口調で尋ねた。
「どうして、私の名前……」
エカテリーナが怪訝な顔をするのに、エラルドは目を細めてはにかみ、答える。
「なんたって、わらわは大魔女じゃからな」
数えきれないほどの建物の横を通り過ぎ、雲の切れ間を飛び越え、太陽を追いかけ続けた二人は、ようやく、白雲の折り重なってできた宮殿の前にたどり着いた。はじめそれは、単に仰々しい門扉が二人の行き先を邪魔するように立ちふさがっているようにしか見えなかった。しかしその遥かな頂上を見上げて首を痛いほどに傾けていくにつれ、丸くふっくらとした屋根の先に鋭い突起が立っていて、そこに細長い一筋のリボンがはためいているのを見つけると、ようやく、その門の先に自分たちの目指した場所があるのだと分かった。
ヴィオラは門扉に軽く触れ、それから力を込めて押してみる。ヴィオラの小さな掌は門の中に吸いつけられるようにして埋まり、慌てて腕を引くと、指先には蜘蛛の糸のような粘着質が絡みついていた。
そのとき、どこからともなく、エコーのかかったような声が降り下りてきて、二人のこめかみを揺さぶった。
「誰じゃ、ノックもせずにわらわの宮殿に潜り込もうとする不届き者は」
二人は声の主の姿を周囲に探した。しかし姿はどこにも見えない。エコーのかかった声は不気味な広がりのある笑い声を発した。
「辺りを見回したって無駄だよ。わらわは今、お前たちの頭の中に直接語り掛けておるのだからな」
ヴィオラがこめかみを抑え、目を見開く。不気味な笑い声が鳴り続いている。耳を塞いでも、確かに聞こえてくる。ヴィオラは恐ろしくなって、エカテリーナの腕を掴む。
しかしエカテリーナは、心底愉快そうに笑っていた。耳に手を当てたり、離したりして、声の聞こえ具合を確かめてから、目を輝かせて、
「本当だ! 耳を塞いでも聞こえてくるよ!」
と昂奮を隠さない声で叫んだ。それからヴィオラの手を取って上下に力強く振りながら、
「すごいねえ、すごいねえ」
と繰り返す。彼女の声に重ねるようにして、不気味な声もまた、より高らかに笑い返す。
「あははははは、何年ぶりだろうなあ、こんな愉快な客人は」
それからすぐ、目の前の門扉の存在感がふっと消え、宮殿の入口へと続く長くうねりのある道が姿を現した。煉瓦状の雲が規則的に並んでおり、両側をパステルの灯のような花たちに囲まれている。
二人の少女は道なりに進み、巨大な宮殿の入り口を抜ける。
宮殿の中はぼんやりと水色で、雲の民の家とは違い、壁の存在感が確かに存在していた。幅の広い階段が目の前にあり、中空に下がるシャンデリアは青い炎のついたろうそくをその身に称えている。いくつもの扉に目移りし、困惑している少女たちの背後を、音もなく、一人の女性がすり抜けていった。女性は二人の前に立ち、かかとを鳴らすと、長い胴をゆっくりと折り曲げながら名乗り、挨拶をした。
「わたくしは、エラルド様の忠臣、クラウディアと申します。本日は、お二方を客人としてもてなすよう、仰せつかっております」
クラウディアは、控えめにも美しい女性であった。雪のような白い柔肌に、銀色の瞳が浮かんでいる。透き通るような鼻筋に、細く結ばれた唇の紅が、やたらに視線を吸い寄せる。
身体は真っ黒なスーツに全身を包まれていたが、ところどころに見られる女性的な曲線の美は、特に少女たちの視線を集めた。
「な、なんですか?」
クラウディアが困惑気に尋ねると、二人の少女は、
「かっこいい」
と声を揃えた。クラウディアは、照れ隠しのつもりなのか、咳ばらいをひとつしてから、少女たちに背中を向けた。
「さ、こちらがエラルド様のお部屋です」
クラウディアの靴は、歩くたびに軽やかな音を立てる。エカテリーナはそれすらもかっこいいと感じ、ブーツの底で雲の床を蹴ってみたが、音は鳴らなかった。
「エラルド様、客人をお連れしました」
階段の先の大きな扉を潜り抜けると、エカテリーナの家全体よりも広い一部屋がそこに広がっていた。エラルドは窓の向こうのバルコニーから沈む太陽を眺めていたが、クラウディアの呼びかけにゆっくりと振り返ると、部屋の中へと戻り、二人の少女の元へと厳かな雰囲気で近づいてきた。
「久しぶりじゃな。主ら」
思いがけない言葉に二人は顔を見合わせる。エカテリーナが言った。
「あの、私、あなたとは初対面だのはずなんだけど」
「よいよい。お主は正しい。人はだれしも、初めてがあって最後があるものじゃ。無限の時の巡りあわせは、いつでも同じ法則の下にある」
言葉の意味を掴みかねて、エカテリーナは首を傾げる。エラルドはまたも、大声をあげて笑う。
「いずれ分かる時がくるじゃろう。事故と言え、エスチェテにたどり着くようなおなごたちじゃからの」
事故という言葉に、ヴィオラが反応する。
「事故って、どういうことですか? 私たちは、石の巨人に乗ってここに飛んできたんです。それが事故だってことですか?」
「そうじゃ。もっとも、なぜあの巨人が動いたのか、わらわにも分からぬがの」
エラルドは難しい顔をしたまま、ヴィオラに顔を近づけた。それから怪訝な顔をして、今度はエカテリーナの方へ鼻を寄せ、音を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「主ら、少しばかりに臭うな。へたっぴな魔術の臭いじゃ。そう感じぬか、クラウディア」
「確かに、媚の魔術がかかっているように感じられます」
クラウディアは頷き、再びまっすぐに背筋を正す。少女たちは顔を見合わせる。ふいに、そのヴィオラの横顔を、エラルドの両手が挟み込んだ。
「そのままじゃ、主らも不便じゃろうて。どれ、わらわが吸魔してやろうかの」
ヴィオラの顔に、エラルドの柔らかな唇が近づく。ヴィオラは、彼女の唇のあわいから漏れだす熱く湿った吐息と、そのささやかな果実臭に戸惑い、顔を青くする。
「え、やっ! な、なにをするつもりですか……?」
首を左右に揺り動かし、細長く冷たいエラルドの手から逃れようともがきながら、ヴィオラは叫んだ。エラルドは上唇を舐め、目端を悪戯っぽく歪ませながら、
「なに、ちょっと舌を吸うだけじゃ。大人しくしていれば、すぐに終わるからの」
「そ、それって、キ、キスする気じゃ……」
ヴィオラの瞳孔が大きく開く。その顔は首まで真っ赤になり、膝は小刻みに震えている。上体を後ろに傾ける無茶な姿勢を、頬を通って後頭部へと回ったエラルドの手が支える。エラルドは目を細め、紅色に艶めく唇を、ヴィオラの頬にあてがい、舌を突き出した。
「ひっ」
ヴィオラの肩がひくつき、強い力で、首を大きく横へそらす。エラルドの腕から零れ落ち、床に崩れた後、なおも顎を傾けられたヴィオラは、目に涙を潤ませたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「スイッチが入ったようじゃの」
エラルドは楽し気に言いながら、なおもヴィオラの頬に舌をあてがってなぞったり、唇の先を当てて吸いつけたりを繰り返した。その度にヴィオラの身体は大きく震え、少女らしい甲高い嬌声があたりに響いた。
エカテリーナは、何かいけないものを見ているような気がして目を覆いつつも、心臓に鶏のくちばしで突かれるような痛みを覚えていた。ヴィオラの声を聞くたびに、なにか言葉にできないような悩ましさが、胸の奥に渦巻いていくのを感じた。
エラルドは、なおも頬への愛撫を続けている。ヴィオラは身をよじらせながら、彼女のふくよかな胸に手をあてて押し返していたが、その力も弱くなったと見えて、エラルドの攻めはますます間隔を短くしていった。
「ひゃ、ぁうんっ!」
ヴィオラがひと際大きな声をあげて腰を弓形に反らせると、エラルドは首筋に触れていた手をゆっくりと掃くように下げていき、ヴィオラのわずかな膨らみのまわりを撫で始めた。指が当たるたび、膨らみの上の白いワンピースは皺模様を変えていく。ヴィオラは呼吸を短くし、途切れ途切れの短い言葉で喘ぎながらも、もはや無抵抗で、エラルドの所作に熱い視線を送っている。
「そろそろ、よいかの」
エラルドの親指がヴィオラの乳頭に触れ、そのままこね回すように動き始めると、ヴィオラは喉の引きつるような声をあげた。圧し、つまみ上げ、揉みまわし、様々な刺激を未発達の突起に繰り返し与えるたび、ヴィオラの悲鳴にも似た声は大きくなっていった。
「あ、あの、エラルド様」
クラウディアが腰を曲げ、申し訳なさそうな声でエラルドの耳元にささやきかける。エラルドは右手の仕草を止めないままで、
「なんじゃ、お楽しみ中じゃというのに」
と彼女を鋭い視線で睨みつけたが、クラウディアは怖気づく様子もなく、淡々と、
「もう一人のお嬢様が、その、自慰に、耽っておられるようでして」
「なんじゃと」
エラルドは鋭い視線のまま、首を左右に振り動かした。そこに確かに、口中に指を含ませつつ自らの乳房を愛撫する少女の姿があるではないか。
「ああ、なんとも悩ましい」
エラルドは奥歯を噛みしめつつ、エカテリーナの自慰に意識を奪われる。口からはぬるく粘りのある唾液がしたたり、濡れた唇の隙間からは、熱い吐息が白く濁っている。細めたまぶたの奥からは虚ろな瞳がわずかに覗く。乳房に触れる手の動きは、エラルドの所作をまねたのだろうか。一本一本の指を不規則に動かして、柔い感触を愉しみつつ、甘美な情感に耽っているように見える。その証拠に、少女は時々内股を小刻みに震わせて、幼い女芯のうずきを本能的に感受していた。
「ねえ、おば様」
エラルドの首に、ヴィオラの腕が回される。エラルドが驚いてそちらを見ると、ヴィオラは口元に微笑みをたたえたまま、情熱的に潤んだ瞳で彼女の方をまっすぐに見ていた。
「もっと気持ちいいの、欲しいのよ、おば様」
エラルドは、それが自分の執拗な愛撫の結果でないことに、すでに気づいていた。
(これは明らかに、手練れた魔女の仕業だ)
エラルドはわずかに恐れを抱いた。彼女にかかった悪い虫を吸い込んだら、自分はどうなってしまうのか。この歳にもなって、誰彼構わず発情してしまうようになったのでは笑えない。
(だがここで止めたら、大魔女の名が廃る!)
ヴィオラに向き直り、再び両手で頬を挟むと、目を瞑り、意を決して唇を重ねた。
「ふうっ、ん……」
ヴィオラのくぐもった声、吐息の熱さを感じながら、エラルドは舌をヴィオラの口内へと差し込んだ。ヴィオラはほとんど本能的に口を広げ、少女の短く細い舌を必死に伸ばしてくる。エラルドは口腔粘膜の蕩けるような感触を舌先で覚えながら、少女の短い舌に蛇のように絡みつき、引き込むようにして吸い込んだ。
泡立つような気配に舌を引き抜き、唾液の糸が唇の先を伝うのを覚えながら、エラルドは自らの身体の中へ入り込んだ得体のしれないうずきに、喉を抑えて堪えた。その目の前で、ヴィオラが身体を崩して、大きく胸を膨らませながら、安らかな寝息を立て始めた。
(どうやら、上手くいったようじゃな)
エラルドは、次にエカテリーナの方へ視線をやった。エカテリーナはすでに自慰を止め、惚けたような顔で二人の方を見ていた。
「どれ、お嬢ちゃんにも、キスをしてやらねばな」
エラルドがにじりよると、エカテリーナはむっとした顔をして、
「いらない!」
と大声をあげる。
「なんと!」
エラルドは鼻を鳴らし、再びエカテリーナの臭いを確かめる。それからまた、あの不気味な声で高笑いした。
「なんじゃ、そうであったか!」
エラルドには、全て合点がいっていた。ヴィオラの身体を蝕んだ、強い魔力のこと。その魔力の強さに、自分自身が気付かなかったこと。
それから、エカテリーナの身体には、同じ魔術が効力を発していなかったこと。
「エカテリーナ、母さんは元気か?」
エラルドは少女に向かって、楽し気な口調で尋ねた。
「どうして、私の名前……」
エカテリーナが怪訝な顔をするのに、エラルドは目を細めてはにかみ、答える。
「なんたって、わらわは大魔女じゃからな」
5
温かい紅茶に栗色の茶菓を添え、二人の着いた白色の飾り台の上に並べてからクラウディアもまた席に着く。その後から部屋に戻ってきたエラルドは身体から湯気を発しつつ、心地よさそうな嘆息を着いている。
「クラウディアも入ってこんか。心地よいぞ」
クラウディアは立ち上がり、軽くお辞儀をしてから、
「お言葉ですがエラルド様、わたくしは、さほど汗をかいておりませんので」
「ほう、そうかの。それならば、かかせてやろうかの」
エラルドが顔を寄せるのにピクリとも動かず、睫毛を淡く揺らしながら、
「お望みとあらば」
などと答える様子が色っぽく、シャワーを浴びたばかりの二人の少女は目を見張り、生唾を飲み込みながら、早くも首筋に汗の感覚を覚えていた。
「まったく、面白くないやつじゃ。のう、ヴィオラ?」
突然言葉を振られたことでヴィオラはどぎまぎしながら、曖昧な相槌を打ってから、
「あ、あの、ごめんなさい」
と俯いた。
「私、その、自分が魔法に掛けられていたなんて、知らなくて。おば様に、失礼な態度をとったかも知れなくて」
エラルドはかぶりを振って、
「なに、気にせんでええ」
と笑ってから、クラウディアの隣の席に座した。その後で、立ちっぱなしになっていたクラウディアも腰を降ろす。
「ねえ、おばあちゃん。石の巨人のこと、聞かせて」
エラルドが座るが早いか、エカテリーナが机の上で身を乗り出し、開口一番、そのように尋ねた。
「私たち、石の巨人に乗ってここまで来た。おばあちゃんが言うには、もう一度石の巨人に乗れば、家に帰れるんだよね? それってつまり、石の巨人が下の世界と上の世界を繋いでるってこと?」
エラルドは鼻を鳴らし、得意げに目を細めながら、
「少し違うな」
と言う。
「あの巨人は、そんな単純なものじゃない。もちろん、上と下の行き来にも使えるじゃろう。だがな、使う者次第では、もっと大きなことを成し遂げることもできるじゃろうて」
「大きなこと?」
エカテリーナが首を傾げると、エラルドはにやりと口元を歪める。
「世界征服、とかの」
ヴィオラは、軋む岩石をの身体を振り回しながら、あの巨体が街を暴れまわるところを想像した。それはおぞましい、一方的な虐殺の様子だった。ヴィオラは背筋に寒気を感じて、思わず指を絡めた。眼前のエラルドが急に真剣な顔になり、二人に向かって言う。
「石の巨人は本来、幾人かの魔女にしか動かせぬ代物じゃ。それが今日、お前さんたち二人をここへ連れてきた。それは奇跡と言ってもいいじゃろう。ひとつでも歯車が狂えば、今頃、山々のひとつやふたつ……いや、地上界そのものが、消えなくなっていたとしても、おかしくなかったのじゃ」
「それなら、どうして巨人は動いたの?」
エカテリーナが当然の疑問を口にする。微かな沈黙が、辺りに広がった。クラウディアが紅茶をすする音を聞いたヴィオラが、彼女の所作を上目遣いに見つつ、真似る。エカテリーナは喉の渇きを感じながらも、エラルドのまっすぐな視線が彼女の小さな身体を捉えて離さないので、紅茶に手を伸ばすことができずにいる。
「エカテリーナ、ヴィオラのことが好きか?」
唐突な質問にヴィオラがむせたのを、片目でちらと覗いて、エカテリーナは頬を赤く染めた。一度だけ、ゆっくりと頷く。
「そうか」
エラルドは目を細め、口元を緩めたまま、二人の少女に交互に視線を投げかけた。どちらも幼く、あどけない少女である。しかし二人の間には、単に二人の少女である以上の、ささやかで形のない、曖昧な花弁のような親愛が横たわっているのだと、エラルドには感じられた。
「ならばヴィオラ、エカテリーナに新たな名をつけてやってくれんかの」
「新しい名前、ですか?」
「なに、気負うことはない。ちょっとした儀式のようなものじゃ」
エラルドが軽々しく口にした儀式という言葉の重みを、ヴィオラは強く感じる。それは多分、単にあだ名をつけるだけのことではない、大きな意味を持っているのだあろう。その行為の意味も、それがもたらす結果も、ヴィオラにはよく分かっていないのだ。戸惑いながら、ヴィオラはエカテリーナの方を見る。エカテリーナは、爛々と目を輝かせ、少し恥じらうように頬を染め、口角を過剰なほどに上げている。根拠のない期待が、ヴィオラの身を貫く。
(新しい名前なんて、そう簡単に、決めていいものなのだろうか?)
泣きそうに目端を歪ませたヴィオラに向かって、エカテリーナは、屈託のない表情で笑いかける。
「大丈夫だよ、ヴィオラ」
ヴィオラの肩に手を置いて、椅子に腰かけたまま、その身体を抱き寄せる。ヴィオラの肩越しに、細い声音で続ける。
「私、ヴィオラがつけてくれた名前なら、何でも嬉しいよ」
その声を聴いた瞬間、ヴィオラは、自分の重く感じていたもののすべてを、エカテリーナに代わってもらったような気分がした。彼女がそうしたように、少女の小さく、未だ紅潮の残る耳元に、細い声でささやくように言った。
「ありがとう、カタリナ」
「カタリナ! それが新しい名前か!」
エラルドが喜びに満ちた声をあげる。ヴィオラはカタリナの髪を撫でてから身体を離し、大きな仕事をやり遂げた後のような、自信にあふれた表情で、
「ええ、そうよ」
と答えた。
「この子の新しい名前は、カタリナ!」
飾り台の上の紅茶のカップが音を立てて揺れ、円い波紋を映し出した。それと同時に、聞き慣れた岩の擦れ音がバルコニーの外側から飛び込んできた。
「石の巨人だ!」
カタリナが声をあげて立ち上がる。地上で見た単に巨大な脚だけの姿ではなく、頭部と胴体のある、人型の姿をしていた。バルコニーから部屋の中に向けて、重々しい巨大な岩の掌が差し込まれる。
「それに捕まっていれば、地上に帰れるじゃろう」
とエラルドが言った。カタリナはヴィオラの手を引いて椅子から起こし、その掌の前へと進み出てから、もう一度、エラルドとクラウディアの方を振り返る。
「ありがとう、おばあちゃん! 今日は、とっても楽しかった!」
その隣で、ヴィオラも控えめにお辞儀をする。一寸遅れて、エラルドの隣に立つクラウディアが同じ所作を取ったのが、彼女にはおかしくて仕方なかった。
「またいつか、わらわの宮殿に遊びに来ると良い。今度は、お前の母さんも一緒にの」
エラルドはカタリナの方へゆっくりと歩み寄り、彼女を強く抱きしめた。くすぐったそうに目を細めるカタリナの掌を握りしめ、互いに、穏やかな鼓動の音を聞いた。
「うん、おばあちゃん」
カタリナは言ってから、エラルドの身体から離れる。ヴィオラと繋いだままの手に力を込め、それからもう一度、石の巨人の方を向く。二人顔を合わせて頷き合ってからその掌の上に飛び乗ると、無数の指のひとつに腕を絡ませた。
「巨人の指から、決して手を離すんじゃないよ!」
エラルドの言葉が、だんだんと遠くなっていく。巨人が上体を立て直しまっすぐに立つと、雲の大地が遥か遠く下方に見えた。
「またね、おばあちゃん!」
「さようなら、元気で!」
口々に別れの言葉を言ったのもつかの間、巨人が一気に屈みこみ、二人の少女の身体もまた、勢いよく振り回される。
「えっ」
「ひやっ!」
掌を優しく握りしめた巨人は、勢いよくその場を飛び立ち、下の世界へと向かって、自由落下していく。
「ええええええええええええっ!」
「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
二人の悲鳴が、宮殿から急速に離れていく。クラウディアは、二人と巨人に対して、律儀に手を振り続けている。
一方のエラルドは、腹を抱えて高笑いをしていた。
「あっははははははははははは!」
「笑いすぎですよ、エメラルディア様」
その横顔をたしなめて、クラウディアはふわりと笑った。
「なんじゃ、急に昔の名など呼び出して」
「いいえ、ただ、なんとなく呼びたくなったので」
クラウディア一点の歪みも淀みもない表情を見つめ、エラルドは、頬を乙女の色彩へと染めていく。
「なあ、クラウディア、キス、するかの」
「エメラルディア様がしたいのであれば」
「クラウディアは、いじわる、じゃの」
「ええ、エメラルディア様」
エラルドは目を瞑り、艶めいた唇を、クラウディアへと重ねた。そっと舌を突き出すと、クラウディアの情熱的な吐息がその先にかかって、エラルドは身悶えするほどの感動を覚えた。クラウディアの素朴で引き締まった舌がエラルドへと絡みつき、引き絞るように前後へ運動する。
「ふぁっ、くぅ……んっ!」
エラルドの喉奥から、悩まし気な声が零れる。一度唇を離し、舌先でつつき合うような愛撫を繰り返してから、再び舌を絡め合う。エラルドの肩へとまわされたクラウディアの腕に、わずかに力が入る。その所作を敏感に感じ取ったエラルドは、鼻を鳴らして笑いながら、クラウディアの下腹へと手を伸ばしていく。
「ひゃんっ!」
指先が下腹へ触れたとたん、クラウディアは大きく身体を引いて背筋を丸め、少女のような嬌声をあげていた。その身体を追い、執拗に唇を重ねながらもエラルドは、下腹への愛撫を続けていく。パンツスーツの上から指関節をあてがいなぞり上げるだけでも、クラウディアの敏感な花園は引きつるような動作を繰り返し、徐々に柔らかに開花していく。
「エ、エメラルディア様、それは、キスじゃ……」
顔を逸らし、唇を離すとエラルドの唾液の感覚が口内に残って緩く粘つき、クラウディアは落ち着かない気分になる。エラルドは上目遣いにその奥ゆかし気な表情を見つめつつ、彼女のベルトを緩めると直接に、手指を秘園へと伸ばしていく。
「ひゃぁんっ!」
指が秘唇の片割れをめくり上げた瞬間、クラウディアは全身の力が抜けるのを感じた。その場へゆっくりと崩れ落ちると、エラルドは追いすがりながら、女芯に触れていた指を抜き出し、彼女の前でしゃぶって見せる。
「あの、エメラルディア様……」
クラウディアは肩で息をしながら、荒れた呼吸の隙間を縫って言葉を紡ぐ。
「なんじゃ?」
「あの二人は、大丈夫でしょうか?」
突拍子もない質問のようにも思えたが、エラルドは気にする様子もなく、
「まあ、大丈夫じゃろう」
と答えた。
「あの二人ならば、どんな困難があろうと、必ず乗り越えていくじゃろう。わらわと、クラウディアのようにの」
子供っぽく笑うその表情を見ながら、クラウディアは、どこか懐かしい気分に浸っていた。
「たぶんそろそろ、地上にたどり着いたころじゃろう。これからどうなっていくか、わらわには見届けることしかできん。花の美の如き生涯をいかに全うするか。のう、クラウディア。わらわは、楽しみでならんのじゃ」
「エメラルディア様……」
クラウディアは上体をあげ、横座りの姿勢で言う。
「続きは、ベッドの上でしませんか? この服装、ちょっとだけきつくって」
エラルドははにかんで、それに答える。
「いいじゃろう、クラウディア。ふふふ、わらわは今、ちょっぴりおセンチじゃからな。今宵は寝息もつかせぬぞ」
温かい紅茶に栗色の茶菓を添え、二人の着いた白色の飾り台の上に並べてからクラウディアもまた席に着く。その後から部屋に戻ってきたエラルドは身体から湯気を発しつつ、心地よさそうな嘆息を着いている。
「クラウディアも入ってこんか。心地よいぞ」
クラウディアは立ち上がり、軽くお辞儀をしてから、
「お言葉ですがエラルド様、わたくしは、さほど汗をかいておりませんので」
「ほう、そうかの。それならば、かかせてやろうかの」
エラルドが顔を寄せるのにピクリとも動かず、睫毛を淡く揺らしながら、
「お望みとあらば」
などと答える様子が色っぽく、シャワーを浴びたばかりの二人の少女は目を見張り、生唾を飲み込みながら、早くも首筋に汗の感覚を覚えていた。
「まったく、面白くないやつじゃ。のう、ヴィオラ?」
突然言葉を振られたことでヴィオラはどぎまぎしながら、曖昧な相槌を打ってから、
「あ、あの、ごめんなさい」
と俯いた。
「私、その、自分が魔法に掛けられていたなんて、知らなくて。おば様に、失礼な態度をとったかも知れなくて」
エラルドはかぶりを振って、
「なに、気にせんでええ」
と笑ってから、クラウディアの隣の席に座した。その後で、立ちっぱなしになっていたクラウディアも腰を降ろす。
「ねえ、おばあちゃん。石の巨人のこと、聞かせて」
エラルドが座るが早いか、エカテリーナが机の上で身を乗り出し、開口一番、そのように尋ねた。
「私たち、石の巨人に乗ってここまで来た。おばあちゃんが言うには、もう一度石の巨人に乗れば、家に帰れるんだよね? それってつまり、石の巨人が下の世界と上の世界を繋いでるってこと?」
エラルドは鼻を鳴らし、得意げに目を細めながら、
「少し違うな」
と言う。
「あの巨人は、そんな単純なものじゃない。もちろん、上と下の行き来にも使えるじゃろう。だがな、使う者次第では、もっと大きなことを成し遂げることもできるじゃろうて」
「大きなこと?」
エカテリーナが首を傾げると、エラルドはにやりと口元を歪める。
「世界征服、とかの」
ヴィオラは、軋む岩石をの身体を振り回しながら、あの巨体が街を暴れまわるところを想像した。それはおぞましい、一方的な虐殺の様子だった。ヴィオラは背筋に寒気を感じて、思わず指を絡めた。眼前のエラルドが急に真剣な顔になり、二人に向かって言う。
「石の巨人は本来、幾人かの魔女にしか動かせぬ代物じゃ。それが今日、お前さんたち二人をここへ連れてきた。それは奇跡と言ってもいいじゃろう。ひとつでも歯車が狂えば、今頃、山々のひとつやふたつ……いや、地上界そのものが、消えなくなっていたとしても、おかしくなかったのじゃ」
「それなら、どうして巨人は動いたの?」
エカテリーナが当然の疑問を口にする。微かな沈黙が、辺りに広がった。クラウディアが紅茶をすする音を聞いたヴィオラが、彼女の所作を上目遣いに見つつ、真似る。エカテリーナは喉の渇きを感じながらも、エラルドのまっすぐな視線が彼女の小さな身体を捉えて離さないので、紅茶に手を伸ばすことができずにいる。
「エカテリーナ、ヴィオラのことが好きか?」
唐突な質問にヴィオラがむせたのを、片目でちらと覗いて、エカテリーナは頬を赤く染めた。一度だけ、ゆっくりと頷く。
「そうか」
エラルドは目を細め、口元を緩めたまま、二人の少女に交互に視線を投げかけた。どちらも幼く、あどけない少女である。しかし二人の間には、単に二人の少女である以上の、ささやかで形のない、曖昧な花弁のような親愛が横たわっているのだと、エラルドには感じられた。
「ならばヴィオラ、エカテリーナに新たな名をつけてやってくれんかの」
「新しい名前、ですか?」
「なに、気負うことはない。ちょっとした儀式のようなものじゃ」
エラルドが軽々しく口にした儀式という言葉の重みを、ヴィオラは強く感じる。それは多分、単にあだ名をつけるだけのことではない、大きな意味を持っているのだあろう。その行為の意味も、それがもたらす結果も、ヴィオラにはよく分かっていないのだ。戸惑いながら、ヴィオラはエカテリーナの方を見る。エカテリーナは、爛々と目を輝かせ、少し恥じらうように頬を染め、口角を過剰なほどに上げている。根拠のない期待が、ヴィオラの身を貫く。
(新しい名前なんて、そう簡単に、決めていいものなのだろうか?)
泣きそうに目端を歪ませたヴィオラに向かって、エカテリーナは、屈託のない表情で笑いかける。
「大丈夫だよ、ヴィオラ」
ヴィオラの肩に手を置いて、椅子に腰かけたまま、その身体を抱き寄せる。ヴィオラの肩越しに、細い声音で続ける。
「私、ヴィオラがつけてくれた名前なら、何でも嬉しいよ」
その声を聴いた瞬間、ヴィオラは、自分の重く感じていたもののすべてを、エカテリーナに代わってもらったような気分がした。彼女がそうしたように、少女の小さく、未だ紅潮の残る耳元に、細い声でささやくように言った。
「ありがとう、カタリナ」
「カタリナ! それが新しい名前か!」
エラルドが喜びに満ちた声をあげる。ヴィオラはカタリナの髪を撫でてから身体を離し、大きな仕事をやり遂げた後のような、自信にあふれた表情で、
「ええ、そうよ」
と答えた。
「この子の新しい名前は、カタリナ!」
飾り台の上の紅茶のカップが音を立てて揺れ、円い波紋を映し出した。それと同時に、聞き慣れた岩の擦れ音がバルコニーの外側から飛び込んできた。
「石の巨人だ!」
カタリナが声をあげて立ち上がる。地上で見た単に巨大な脚だけの姿ではなく、頭部と胴体のある、人型の姿をしていた。バルコニーから部屋の中に向けて、重々しい巨大な岩の掌が差し込まれる。
「それに捕まっていれば、地上に帰れるじゃろう」
とエラルドが言った。カタリナはヴィオラの手を引いて椅子から起こし、その掌の前へと進み出てから、もう一度、エラルドとクラウディアの方を振り返る。
「ありがとう、おばあちゃん! 今日は、とっても楽しかった!」
その隣で、ヴィオラも控えめにお辞儀をする。一寸遅れて、エラルドの隣に立つクラウディアが同じ所作を取ったのが、彼女にはおかしくて仕方なかった。
「またいつか、わらわの宮殿に遊びに来ると良い。今度は、お前の母さんも一緒にの」
エラルドはカタリナの方へゆっくりと歩み寄り、彼女を強く抱きしめた。くすぐったそうに目を細めるカタリナの掌を握りしめ、互いに、穏やかな鼓動の音を聞いた。
「うん、おばあちゃん」
カタリナは言ってから、エラルドの身体から離れる。ヴィオラと繋いだままの手に力を込め、それからもう一度、石の巨人の方を向く。二人顔を合わせて頷き合ってからその掌の上に飛び乗ると、無数の指のひとつに腕を絡ませた。
「巨人の指から、決して手を離すんじゃないよ!」
エラルドの言葉が、だんだんと遠くなっていく。巨人が上体を立て直しまっすぐに立つと、雲の大地が遥か遠く下方に見えた。
「またね、おばあちゃん!」
「さようなら、元気で!」
口々に別れの言葉を言ったのもつかの間、巨人が一気に屈みこみ、二人の少女の身体もまた、勢いよく振り回される。
「えっ」
「ひやっ!」
掌を優しく握りしめた巨人は、勢いよくその場を飛び立ち、下の世界へと向かって、自由落下していく。
「ええええええええええええっ!」
「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
二人の悲鳴が、宮殿から急速に離れていく。クラウディアは、二人と巨人に対して、律儀に手を振り続けている。
一方のエラルドは、腹を抱えて高笑いをしていた。
「あっははははははははははは!」
「笑いすぎですよ、エメラルディア様」
その横顔をたしなめて、クラウディアはふわりと笑った。
「なんじゃ、急に昔の名など呼び出して」
「いいえ、ただ、なんとなく呼びたくなったので」
クラウディア一点の歪みも淀みもない表情を見つめ、エラルドは、頬を乙女の色彩へと染めていく。
「なあ、クラウディア、キス、するかの」
「エメラルディア様がしたいのであれば」
「クラウディアは、いじわる、じゃの」
「ええ、エメラルディア様」
エラルドは目を瞑り、艶めいた唇を、クラウディアへと重ねた。そっと舌を突き出すと、クラウディアの情熱的な吐息がその先にかかって、エラルドは身悶えするほどの感動を覚えた。クラウディアの素朴で引き締まった舌がエラルドへと絡みつき、引き絞るように前後へ運動する。
「ふぁっ、くぅ……んっ!」
エラルドの喉奥から、悩まし気な声が零れる。一度唇を離し、舌先でつつき合うような愛撫を繰り返してから、再び舌を絡め合う。エラルドの肩へとまわされたクラウディアの腕に、わずかに力が入る。その所作を敏感に感じ取ったエラルドは、鼻を鳴らして笑いながら、クラウディアの下腹へと手を伸ばしていく。
「ひゃんっ!」
指先が下腹へ触れたとたん、クラウディアは大きく身体を引いて背筋を丸め、少女のような嬌声をあげていた。その身体を追い、執拗に唇を重ねながらもエラルドは、下腹への愛撫を続けていく。パンツスーツの上から指関節をあてがいなぞり上げるだけでも、クラウディアの敏感な花園は引きつるような動作を繰り返し、徐々に柔らかに開花していく。
「エ、エメラルディア様、それは、キスじゃ……」
顔を逸らし、唇を離すとエラルドの唾液の感覚が口内に残って緩く粘つき、クラウディアは落ち着かない気分になる。エラルドは上目遣いにその奥ゆかし気な表情を見つめつつ、彼女のベルトを緩めると直接に、手指を秘園へと伸ばしていく。
「ひゃぁんっ!」
指が秘唇の片割れをめくり上げた瞬間、クラウディアは全身の力が抜けるのを感じた。その場へゆっくりと崩れ落ちると、エラルドは追いすがりながら、女芯に触れていた指を抜き出し、彼女の前でしゃぶって見せる。
「あの、エメラルディア様……」
クラウディアは肩で息をしながら、荒れた呼吸の隙間を縫って言葉を紡ぐ。
「なんじゃ?」
「あの二人は、大丈夫でしょうか?」
突拍子もない質問のようにも思えたが、エラルドは気にする様子もなく、
「まあ、大丈夫じゃろう」
と答えた。
「あの二人ならば、どんな困難があろうと、必ず乗り越えていくじゃろう。わらわと、クラウディアのようにの」
子供っぽく笑うその表情を見ながら、クラウディアは、どこか懐かしい気分に浸っていた。
「たぶんそろそろ、地上にたどり着いたころじゃろう。これからどうなっていくか、わらわには見届けることしかできん。花の美の如き生涯をいかに全うするか。のう、クラウディア。わらわは、楽しみでならんのじゃ」
「エメラルディア様……」
クラウディアは上体をあげ、横座りの姿勢で言う。
「続きは、ベッドの上でしませんか? この服装、ちょっとだけきつくって」
エラルドははにかんで、それに答える。
「いいじゃろう、クラウディア。ふふふ、わらわは今、ちょっぴりおセンチじゃからな。今宵は寝息もつかせぬぞ」
6
石の巨人は中空を矢のように鈍く切り裂きながら、大気を跳ねのける轟音と共に地上へと降り下りていた。その掌の中に握られ、無数の指のひとつに片腕を強く絡ませながら、カタリナとヴィオラは絶叫していた。
「いやぁああああああああ!」
「きゃあああああああああ!」
少女たちの耳には、互いの絶叫などもはや聞こえてはいない。鼓膜をつんざくような轟音を伴って、激しい風の流れが次から次へと頬を駆けあがり、二人の髪を空へと振り上げる。地上はますます近づいてくる。緑一色に見えた大地に、褐色の模様が浮かび上がり、時計台が伸びてきて、街の風景が輪郭を取り戻す。それでもなお地上からははるか高く、めまいのしてきそうな感覚に、カタリナとヴィオラは互いの指の感覚を確かめ合いながら必死で堪えた。
背の高い木々の並ぶ輪の中に突入し、反り返るようにしなった木々が激しい葉擦れの共鳴を起こす。土煙をあげながら、砂粒までも明らかになった褐色の禿げた大地の上に巨人の脚が突き刺さる。地鳴りが掌の中のカタリナとヴィオラの耳にまで届き、振動が二人の身体を揺らす。それでもなお降下が止まらないのは、巨人がその高い脚を曲げ、掌の中の彼女らを地上のすぐ傍へと運んでいるからである。顔に向かって降りあがる砂塵に目を瞑りながら、二人の少女はなおも絶叫をあげ続けた。
どれだけ間、叫び声をあげ続けたのだろう。すぐ隣でもう一人の少女の声が聞こえることに気づいたヴィオラは、目をゆっくりと開き、地上の、よく見知った木々の並びと豊かで澄んだ空気の匂いを感じた。砂埃はまだ少しだけ高く舞っていたが、鼻頭をくすぐるほどでしかなく、目を開いていても大丈夫そうだった。
「ねえ、カタリナ」
ヴィオラはなおも絶叫を続けるカタリナの肩を揺さぶり、目を開くように促す。
「帰ってきたよ、私たち。もう、落ちてないよ」
その言葉を認識してか、カタリナは叫び声を小さく絞りながら、ゆっくりと目を開いて辺りの景色を眺めた。確かにそれは、見知った地上の風景であった。
「よかったね、カタリナ。帰ってこれたんだよ」
ヴィオラは感極まった様子で繰り返し、カタリナの両手を掴むとその場で飛び跳ねた。カタリナはまだどこか現実感を忘れているように、訝しげに辺りの見回していた。
「帰ってきたの?」
「そうだよ、帰ってきたんだよ!」
「地上に?」
「地上に!」
「雲の上じゃなくて?」
「そう、地上に」
「帰ってきたんだ……」
何度も確認して、ようやく嬉しさが込み上げてきたのか、ヴィオラと一緒になってその場でぴょんぴょんと飛び跳ねるカタリナだったが、やがて不思議なことに気づいて眼を見開くと、焦りをも孕んだ様子でヴィオラに向かって尋ねる。
「ねえ、私たち、石の巨人の指に掴まって、ここまで降りてきたんだよね?」
「え、うん。そうだけど」
カタリナの言葉の意図を掴みかねて、ヴィオラは首を傾げ、眉尻を下げる。カタリナはなおも辺りを見やりつつ、続ける。
「石の巨人は、どこへ行ったの?」
ヴィオラははっと息をつめて、カタリナと一緒になって辺りを見回した。確かに、そこに石の巨人の姿はなかった。ただ禿げあがった褐色の土が、わずかな砂煙を伴って広がるばかりである。
「夢、だったのかなぁ」
覚束ない様子で、カタリナが弱々しく呟く。けれどもヴィオラには、それが夢でなかったことくらい、ちゃんと分かっていた。
「夢だとしたら、とっても、楽しい夢だったわね」
ヴィオラはカタリナに笑いかけ、細い腕をぐいと引き寄せると、肩に手を回して彼女を抱きしめた。
「ね、カタリナ」
石の巨人は中空を矢のように鈍く切り裂きながら、大気を跳ねのける轟音と共に地上へと降り下りていた。その掌の中に握られ、無数の指のひとつに片腕を強く絡ませながら、カタリナとヴィオラは絶叫していた。
「いやぁああああああああ!」
「きゃあああああああああ!」
少女たちの耳には、互いの絶叫などもはや聞こえてはいない。鼓膜をつんざくような轟音を伴って、激しい風の流れが次から次へと頬を駆けあがり、二人の髪を空へと振り上げる。地上はますます近づいてくる。緑一色に見えた大地に、褐色の模様が浮かび上がり、時計台が伸びてきて、街の風景が輪郭を取り戻す。それでもなお地上からははるか高く、めまいのしてきそうな感覚に、カタリナとヴィオラは互いの指の感覚を確かめ合いながら必死で堪えた。
背の高い木々の並ぶ輪の中に突入し、反り返るようにしなった木々が激しい葉擦れの共鳴を起こす。土煙をあげながら、砂粒までも明らかになった褐色の禿げた大地の上に巨人の脚が突き刺さる。地鳴りが掌の中のカタリナとヴィオラの耳にまで届き、振動が二人の身体を揺らす。それでもなお降下が止まらないのは、巨人がその高い脚を曲げ、掌の中の彼女らを地上のすぐ傍へと運んでいるからである。顔に向かって降りあがる砂塵に目を瞑りながら、二人の少女はなおも絶叫をあげ続けた。
どれだけ間、叫び声をあげ続けたのだろう。すぐ隣でもう一人の少女の声が聞こえることに気づいたヴィオラは、目をゆっくりと開き、地上の、よく見知った木々の並びと豊かで澄んだ空気の匂いを感じた。砂埃はまだ少しだけ高く舞っていたが、鼻頭をくすぐるほどでしかなく、目を開いていても大丈夫そうだった。
「ねえ、カタリナ」
ヴィオラはなおも絶叫を続けるカタリナの肩を揺さぶり、目を開くように促す。
「帰ってきたよ、私たち。もう、落ちてないよ」
その言葉を認識してか、カタリナは叫び声を小さく絞りながら、ゆっくりと目を開いて辺りの景色を眺めた。確かにそれは、見知った地上の風景であった。
「よかったね、カタリナ。帰ってこれたんだよ」
ヴィオラは感極まった様子で繰り返し、カタリナの両手を掴むとその場で飛び跳ねた。カタリナはまだどこか現実感を忘れているように、訝しげに辺りの見回していた。
「帰ってきたの?」
「そうだよ、帰ってきたんだよ!」
「地上に?」
「地上に!」
「雲の上じゃなくて?」
「そう、地上に」
「帰ってきたんだ……」
何度も確認して、ようやく嬉しさが込み上げてきたのか、ヴィオラと一緒になってその場でぴょんぴょんと飛び跳ねるカタリナだったが、やがて不思議なことに気づいて眼を見開くと、焦りをも孕んだ様子でヴィオラに向かって尋ねる。
「ねえ、私たち、石の巨人の指に掴まって、ここまで降りてきたんだよね?」
「え、うん。そうだけど」
カタリナの言葉の意図を掴みかねて、ヴィオラは首を傾げ、眉尻を下げる。カタリナはなおも辺りを見やりつつ、続ける。
「石の巨人は、どこへ行ったの?」
ヴィオラははっと息をつめて、カタリナと一緒になって辺りを見回した。確かに、そこに石の巨人の姿はなかった。ただ禿げあがった褐色の土が、わずかな砂煙を伴って広がるばかりである。
「夢、だったのかなぁ」
覚束ない様子で、カタリナが弱々しく呟く。けれどもヴィオラには、それが夢でなかったことくらい、ちゃんと分かっていた。
「夢だとしたら、とっても、楽しい夢だったわね」
ヴィオラはカタリナに笑いかけ、細い腕をぐいと引き寄せると、肩に手を回して彼女を抱きしめた。
「ね、カタリナ」
7
二人の少女は手を繋いだまま、背の高い草木の覆い立つ獣道を並んで歩いた。行きには危険極まりなく思えたこの道も、落ち着いて見れば自ら動かない草花たちの、穏やかに風にそよいでいるだけであった。あるいはこの変化も、二人の「夢」がそう仕立てたものなのかもしれない。雲の上の楽園には二人を害するものなど何もなかったが、それでも二人にとっては、かけがえのない大冒険の舞台であったのだ。大冒険に比べれば、こんな些細な獣道など、大したものではない。そういう風により大きな冒険を求め続けて、自分たちは大人になっていくのかもしれないと、カタリナはぼんやりと思った。
街を飾るセメントに長い影が伸び、暮れた夕陽が空に紅を射す。浮かんでいる雲のどこかに二人の歩んだ大地があって、その中には料理上手の雲の民や、スリムでかっこいい長身の女性や、物知りで面白いおばあちゃんが住んでいるのだ。それを知っているのは、たぶん自分たちだけだろう。
少しだけ広くなった道を街とは反対側に歩いて、小さな木造りの家が見えたころ、カタリナは胸に熱いものがこみ上げるのを感じ、疲れた身体を気にすることもせず、ヴィオラの手を引いて走り出した。
「お母さん、ただいま!」
木戸を開き、大声で言う。奥の部屋から少し慌てた様子の母が飛び出してくる。
「大丈夫だったろうね、何か妙なことをしてないだろうね」
「妙なこと?」
ヴィオラが首を傾げる。カタリナの母は、キッチンに目をやりながら、
「ほら、あの銀の鍋。ふたをし忘れていたんだよ。それで何か、変な気分になったりとか、体が熱くなったりとか」
「別に、全然へっちゃらだよ! ね、ヴィオラ」
カタリナは無邪気に答えたが、ヴィオラは少しばかり思い当たる節があって、顔を俯けた。その様子をさとく見つけた母は目を細めながら、
「まあ、二人だけの内緒って言うんなら、それでいいんだけどさ」
と言った。
トマトと野菜を煮込んだ夕食をご馳走になりながら、ヴィオラはあの石の巨人のこと、それから雲の国の大冒険のことを話すべきか考えた。隣で食器を鳴らすカタリナもまた、同じことを考えているようだった。ダイニングテーブルを挟んで奇妙な沈黙が流れているのを、母だけはどこか面白そうに眺めていた。
「それで、二人はどんな冒険をしてきたの?」
母の半ば図星を突いた言葉に、二人は揃って肩を震わせる。
「べ、別に、冒険なんてしてないよ。ね、ヴィオラ?」
カタリナがほとんど反射的に答える。あの冒険のことは、やはり、二人だけの秘密にしておきたいのだろう。その意図を汲み取って、ヴィオラもまた反射的に、彼女に同意の言葉を重ねる。
「そ、そうよね、カタリナ」
二人は息を吐き、料理の皿へと手を伸ばす。しかしその何気なく紡いだ言葉の一端に、母は目端を緩ませる。
「ははぁ、カタリナ、ねえ。いい名前じゃないか」
少女同士の甘い関係に気づいたのだろう。頬に手を当てながらうっとりと眼を潤ませる様子に、二人は一瞬目を見張った。それからまた、互いの視線を重ね合わせて赤面するのだった。
二人の少女は手を繋いだまま、背の高い草木の覆い立つ獣道を並んで歩いた。行きには危険極まりなく思えたこの道も、落ち着いて見れば自ら動かない草花たちの、穏やかに風にそよいでいるだけであった。あるいはこの変化も、二人の「夢」がそう仕立てたものなのかもしれない。雲の上の楽園には二人を害するものなど何もなかったが、それでも二人にとっては、かけがえのない大冒険の舞台であったのだ。大冒険に比べれば、こんな些細な獣道など、大したものではない。そういう風により大きな冒険を求め続けて、自分たちは大人になっていくのかもしれないと、カタリナはぼんやりと思った。
街を飾るセメントに長い影が伸び、暮れた夕陽が空に紅を射す。浮かんでいる雲のどこかに二人の歩んだ大地があって、その中には料理上手の雲の民や、スリムでかっこいい長身の女性や、物知りで面白いおばあちゃんが住んでいるのだ。それを知っているのは、たぶん自分たちだけだろう。
少しだけ広くなった道を街とは反対側に歩いて、小さな木造りの家が見えたころ、カタリナは胸に熱いものがこみ上げるのを感じ、疲れた身体を気にすることもせず、ヴィオラの手を引いて走り出した。
「お母さん、ただいま!」
木戸を開き、大声で言う。奥の部屋から少し慌てた様子の母が飛び出してくる。
「大丈夫だったろうね、何か妙なことをしてないだろうね」
「妙なこと?」
ヴィオラが首を傾げる。カタリナの母は、キッチンに目をやりながら、
「ほら、あの銀の鍋。ふたをし忘れていたんだよ。それで何か、変な気分になったりとか、体が熱くなったりとか」
「別に、全然へっちゃらだよ! ね、ヴィオラ」
カタリナは無邪気に答えたが、ヴィオラは少しばかり思い当たる節があって、顔を俯けた。その様子をさとく見つけた母は目を細めながら、
「まあ、二人だけの内緒って言うんなら、それでいいんだけどさ」
と言った。
トマトと野菜を煮込んだ夕食をご馳走になりながら、ヴィオラはあの石の巨人のこと、それから雲の国の大冒険のことを話すべきか考えた。隣で食器を鳴らすカタリナもまた、同じことを考えているようだった。ダイニングテーブルを挟んで奇妙な沈黙が流れているのを、母だけはどこか面白そうに眺めていた。
「それで、二人はどんな冒険をしてきたの?」
母の半ば図星を突いた言葉に、二人は揃って肩を震わせる。
「べ、別に、冒険なんてしてないよ。ね、ヴィオラ?」
カタリナがほとんど反射的に答える。あの冒険のことは、やはり、二人だけの秘密にしておきたいのだろう。その意図を汲み取って、ヴィオラもまた反射的に、彼女に同意の言葉を重ねる。
「そ、そうよね、カタリナ」
二人は息を吐き、料理の皿へと手を伸ばす。しかしその何気なく紡いだ言葉の一端に、母は目端を緩ませる。
「ははぁ、カタリナ、ねえ。いい名前じゃないか」
少女同士の甘い関係に気づいたのだろう。頬に手を当てながらうっとりと眼を潤ませる様子に、二人は一瞬目を見張った。それからまた、互いの視線を重ね合わせて赤面するのだった。