「どうして『ロシア』じゃなくて『OAR』なんだろう?」
平昌五輪でフィギュアスケートや女子カーリングを観ていて、気になった人はいるだろうか。
OARは「ロシアからのオリンピック選手(Olympic Athletes from Russia)」の略。
つまり、平昌五輪でロシアは国としての代表チームはなかった。あくまで選手個人の集まりという扱いだったのだ。私たちがテレビの前でロシアの国旗や国歌斉唱を目にする機会はなかったはずだ。
なぜこんなことになったのか? それは、ロシアが国家ぐるみで大規模なドーピングをおこなってきた疑惑があるからだ。
世界一注目される大会で、国をあげて世界を欺く。そんなことが本当に可能なのか? どうやって?
第90回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞した「イカロス」は、意図せずそんな国家規模スキャンダルの深淵に近づくことになった、一人の米国人男性によって撮られている。
「ロシア人選手の99%がドーピングを経験」「これが真実なら想像を絶する犯罪行為です」――まるで映画のような世界がそこにはある。
ドーピングのことはアンチ・ドーピングの専門家に聞け
監督は、アマチュア自転車選手でもあるブライアン・フォーゲル。
スポーツ界におけるドーピングを調査するため、自ら薬物を試し「ドーピングは可能か?」を検証しようとした。
実際にどれだけ選手の肉体と記録に影響を与えるのか、そして、「薬物NO」を掲げておこなわれている事前検査をパスすることはできるのか――という実験だ。
そのためには、ただ闇雲に筋肉増強剤を飲むだけではダメだ。最終的にバレてしまっては意味がない。“プロ”のアドバイスを受けなければ。
ドーピングの専門家は、裏返せばアンチ・ドーピングの専門家でもある。
紆余曲折を経て、ロシア随一のドーピング検査機関の所長、グレゴリー・ロドチェンコフの指導のもと「ドーピング生活」に励むことになる。
物語の前半は、本来はひた隠しにされるはずのドーピング行為に堂々と取り組む様子がアンバランスで面白い。日々きちんとデータを測定して、針の跡が残らないよう場所を変えて注射を打って……こんなに繊細で大変なのか!
こういう企画だとはいえ、アスリートの薬物を摘発する立場のロドチェンコフが「大丈夫だ、バレないよ」なんて平然と言ってのけるのはあまりにシュールだ。
2人の海を越えるやりとりはビデオチャット。ロドチェンコフはたいてい半裸で(なぜ!)お酒を飲んでいることも少なくない。
時折ジョークを交えながら話す姿は「陽気なロシア人のおじさん」そのものだ。楽しげに話しているのは、表立っては言えないドーピングの方法だけど。
時にロサンゼルスとモスクワを行き来しながら、フォーゲルとロドチェンコフは友情と言っていい関係を育んでいく。2人の不思議にあたたかい日々はある出来事で一気に色を変える。
「ロシアが国家ぐるみでドーピングに関与か」。
2014年12月、ドイツのテレビ局によって報じられた世界のスポーツ界を揺るがす大スキャンダル。国家的なドーピング推進プロジェクトの中心人物として名前があがったのがロドチェンコフだった。
「私はいつ暗殺されてもおかしくない」
プーチン大統領もビタリー・ムトコ スポーツ大臣も否定するが、報道を経て調査に乗り出した世界アンチ・ドーピング機構(WADA)は、ロシアの隠蔽工作を裏付ける報告書をまとめた。
ロドチェンコフは所長辞任に追い込まれ、研究所は閉鎖。
いつも陽気だったロドチェンコフおじさん(親愛を込めてこう書きます)のPC越しの表情が日に日に険しくなっていく。
ブライアン、私を見ろ。私は、いつ暗殺されてもおかしくない。このやりとりだって監視されているかもしれない。
現時点ではロシアがオリンピック(当時翌年に控えた2016年リオ五輪のこと)に参加するかどうかまだわからない。私が命を心配している理由はまさにそれだ。もし私が粛清されれば、ロシアはオリンピックに参加するだろう。
……生き延びなくては。
この会話からまもなく、「ここから逃げなければならない」と悟ったロドチェンコフは、フォーゲルにロサンゼルス行きの航空券の手配を依頼する。「片道切符では怪しまれてしまう」という理由で往復切符を買うよう指示する。
きっと、帰りの便のフライトチケットを使うことはないとわかって。
現実味を増す“粛清”
実質的な亡命を遂げ、ロドチェンコフが米国にやってきた後、映像のトーンはさらにシリアスになる。
フォーゲルは、一人のジャーナリストとして世界を揺るがすスキャンダルの中心物に迫り、しかるべき告発を手伝うことになる。まさかこんな未来が待っているとは、監督は想像だにしなかっただろう。
――ロシアにはオリンピックで不正する国家規模のドーピングシステムがありますか?
イエス。
――あなたはそのシステムの首謀者でしたか?
もちろん。イエス。
――ロシアはロンドン五輪では81個のメダルを獲得しました。そのうちいくつが不正ですか?
5割は確実だよ。5割としておこう。もちろん、国がスポンサーした特別プログラムによるものだ。
――プーチンはそのシステムの存在を知っているんですか?
もちろん。私の名前も。
極めて厳しい監視体制が敷かれているはずの五輪会場で、ドーピング検査の対象である大量の“汚れた尿”をいかに“クリーンな尿”に差し替えたのか、その方法まで赤裸々に明かしている(意外にシンプルな方法で拍子抜けしてしまう)。
衝撃的なのは、ロドチェンコフと同じくドーピングスキャンダルの渦中にあった、彼の長い友人・ニキータが亡くなった報を受けるシーンだ。
ロサンゼルスにいるロドチェンコフに知らされたニキータの死因は、急性心不全。「ありえない」「彼とは学生時代からの友人だが、心臓や身体が悪いなんてことは聞いたことがない」と狼狽する。
「彼は(ドーピングの内情を告発する)本を書こうとしていたらしい」「ロシアで本を書くのは危険なんだ」……。
誰も言葉にしないが「粛清」の言葉がちらつく。アメリカにいても、安全かどうかなんてわからない。
もう一度世界を揺るがす
ロドチェンコフは迷いながら、決死の覚悟でニューヨーク・タイムズに国家的スキャンダルの「渦中の人」として独占告白することを決める。
2016年5月の同紙の報道をきっかけに、WADAは再度調査を実施。あらためてロシア政府が組織的なドーピングに関与していることを突きつけた。
が、なおもロシアは否定し続ける。直前に迫ったリオ五輪にあたって、IOC(国際オリンピック委員会)も全面的な出場禁止措置はとらなかった。
そして2017年12月、IOCは平昌五輪を前にロシアの五輪資格を停止。個別に身の潔白を証明した選手のみ「OAR」枠で出場という対応になった(注:同処分は2月28日に解除された)。
ラストは切ない。
かくしてロシア当局に命を狙われることになったロドチェンコフは、米国政府の保護下に置かれることになる。フォーゲルはもちろん、ロシアに残した妻や子ども、妹との連絡も一切絶たれてしまう。
暗殺や粛清の可能性をすぐ側に感じながら、彼は今も米国のどこかで一人息を潜めている。
――次はいつあなたに会えるんでしょうね。
大丈夫、私は戻ってくる。私のことを忘れんでくれ。
フォーゲル監督はアカデミー賞受賞にあたって「私たちは『イカロス』が、ロシアが目を覚ますきっかけとなってくれることを願っています」とコメントを寄せている。