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ヨーロッパ歴史演習、ヨーロッパの歴史、特殊講義担当 林田伸一
歴史を勉強する面白さは、いろいろな点に見出すことができますが、そのひとつとして、時代によってあるテーマが別の角度から見られるようになったり、それまで顧みられなかったテーマに光があてられたりすることがあります。
ひとつ例を挙げてみましょう。意外に思われるかも知れませんが、ヨーロッパの宮廷は、歴史家たちによって長いこと軽視されてきました。宮廷に与えられていた特権と浪費の舞台というネガティヴなイメージが、大きな理由だったと考えられます。しかし、歴史研究が集合心性や表象の問題に取り組んだり、文化人類学的な方法を導入したりといった動向の中で、近年になって宮廷やそこで行われる儀礼・祝祭に対する関心が高まってきました。
宮廷も中世、ルネサンス期、絶対王政期と異なった性格を示しますが、ここではルネサンス期の宮廷について少し触れることにしましょう。この時期、国王と宮廷は王国のあちこちを頻繁に移動していました。「私の大使在任中の全期間を通じて、宮廷は二週間と続けて同じ所にとどまっていませんでした」。 16世紀前半、フランソワ一世時代の駐仏ヴェネチア大使、マリーノ・ジュスティニアーノは長期間に及ぶ旅暮らしに音を上げて、こう本国に書き送っています。 一般には、宮廷といえばヴェルサイユのような壮麗な宮殿や庭園と結びつけてイメージされているので、これは奇妙な事態にみえるかも知れません。けれども、これはフランソワ一世に限ったことではなく、16世紀後半のシャルル九世も、母后カトリーヌ・ド・メディシスとともに1564年から66年にかけて王国をほぼ一周するような大巡行を行っています。そのさい、国王たちは廷臣、外国使節、召使い、御用商人、そして馬やロバなど国王としての生活に必要なすべてを引き連れて旅をしていました。 人や馬の数はそれぞれ数千にものぼっていたので、まるでひとつの都市が移動しているようだと形容する同時代人もいたほどです。 この巡行の様子は、カトリーヌ・ド・メディシスが注文してつくらせたともいわれる〈ヴァロワ・タピスリー〉-フィレンツェのウフィッツィ美術館所蔵-の一枚に描かれています。
しかし、なぜ、王と宮廷はこうも頻繁に移動していたのでしょうか。それは、この時期、すなわち中世末からルネサンス期にかけて、王国内において王権の占める位置が大きく変貌を遂げつつあったことに関わりがあります。中世のヨーロッパでは権力構造の基本は貴族たちの領地支配にあり、君主が実質的に支配することのできたのは、王領という限られた地域にすぎませんでした。しかし、百年戦争の終わり頃から、国王権力が徐々に伸長し始めると、それにともない大諸侯領は王領に吸収されていきます。国王の巡行は、そうした地域と国王の結びつきを強める狙いをもって企てられたものと見ることができるでしょう。実際、宮廷の行く先々で繰り広げられた壮麗な儀式や祝祭は、人々の記憶に長く残り、国王とその地の人々の絆を強めるのに一役買ったのでした。
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