世界中のアニメーションが東京に集まる東京アニメアワードフェスティバル2018(TAAF2018)で、アニメーション オブ ザ イヤー部門の劇場映画部門グランプリを獲得したのが片渕須直監督の「この世界の片隅に」。公開から1年以上が経った今も、各地の映画館で上映されていることから、TAAF2018では恒例の受賞記念上映を行わず、片渕監督が登壇して、映画の長さの分だけみっちりとしゃべるトークイベントを2018年3月11日に開催した。

「もっといろいろなところへ行ってみたい。自分が物を作るというのは、そういう見知らぬ世界に行く旅なんです。振り返ってみると、アニメーションの世界に入ったのはそういうことです。空想の世界かどうかはわからないけれど、自分が行ったらおもしろい体験ができるところに行きたくてやっているんです。それがアニメーションの本質ではないでしょうか」。

映画館のスクリーンを使い片渕須直監督(右)秘蔵の資料などが紹介された。右はアニメ・特撮研究家の氷川竜介
映画館のスクリーンを使い片渕須直監督(右)秘蔵の資料などが紹介された。右はアニメ・特撮研究家の氷川竜介。

2時間10分に及ぶトークイベントの終わりに、片渕須直監督が語ったこの言葉が、「この世界の片隅に」という作品で、どうしてあれほどまで詳細に、そして正確に昭和10年代の広島や呉における人々の暮らし、そして風景を再現しようとしたかというひとつの理由になっている。

「この世界の片隅に」メインビジュアル (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
「この世界の片隅に」メインビジュアル (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

太平洋戦争が始まる直前から、終戦直後までの広島市や呉市を舞台に、すずさんという1人の女性が経験した日常を、背景も含めて丹念に描いた内容で支持を集めた「この世界の片隅に」。トークイベントでは、アニメ・特撮研究家の氷川竜介を進行役に迎え、「この世界の片隅に」がどのようにして生まれ、そしてどのようにしてあの時代を再現していったかが語られた。

「この世界の片隅に」場面 (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
「この世界の片隅に」場面 (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

どのシーンをとっても、当時の状況がしっかりとした考証の上に再現されていると言われる映画。たとえば映画の冒頭、すずさんが中島本町へ海苔を届けに行ったとき、クリスマスに賑わう街の商店のショーウィンドーにモールが飾り付けられている。この材料を、プラスティックではなく「経木モールです」とすぐ説明しできるくらい、片渕監督は当時を調べ上げた。

呉の橋の上で、すずさんが自分は妊娠しているかもしれないと思ったところから、病院で調べて違っていたとわかる展開。この間にどれだけの日数が必要かを知るために、片渕監督は知人を通して調べてもらい、中3日でわかる方法があったと知った。すずさんの夫の周作が軍属の身分から軍人になって職場へと向かう日に雨が降っていたのも、同じ状況で徴用された人が過去にいて、その入営日に雨が降っていたことを知り、原作から天候を変えたという。

「なくても成り立つが、やったらやっただけ、そこにすずさんが存在しているようになる」。「わからなくても描けてしまうけれど、そうしないとすずさんと同じ場所に立てない」。2時間以上に及ぶトークの中で、片渕監督からはすずさんが存在しているように感じてもらうため、当時をしっかりと描こうとしたといった言葉が何度も出てきた。氷川はそれを「強度の問題」と言い、黒澤明監督のこだわりを例に挙げた。受けて片渕監督も、「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」という黒澤監督の言葉を引いて、「映画作りの大事なところ」と指摘した。アニメーションであっても同様に、細部まで突き詰めていくことでそこに何かが宿る。「この世界の片隅に」の場合は、すずさんという存在が実在の人物のようになって屹立する。そうやって生まれた強度が、共感を誘って今に至るロングランを支えていると言えるだろう。

片渕監督がここまで実証主義になった理由のひとつに、大塚康生というアニメーターへのあこがれがあった。好きだった「未来少年コナン」の作画監督でもある大塚が所属するテレコム・アニメーションフィルムへと入り、大塚から出題された動画から原画へと上がるときの課題が、「ガード下の屋台で中年親父がコップ酒で呑んでいるところを描け、というものだった。ここでこう描いたら間違い」。そう言って片渕監督がペットボトルで見せたのが、横から順手でつかんで口に近づける飲み方。コップ酒はコップの上からつかんで口へと運ぶ。観察力と想像力が要求される現場での経験が、リアルに描こうとする意識を形成したようだ。

「この世界の片隅に」場面。ここから箸を持ち上げる仕草にもこだわった (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
「この世界の片隅に」場面。ここから箸を持ち上げる仕草にもこだわった (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

「この世界の片隅に」では周囲にも、同様に実証を重んじるクリエイターが集まったようで、キャラクターデザインと作画監督を務めた松原秀典は、食卓を囲む北條家の面々が箸を持とうとするシーンにこだわり、つかんでいきなり食べられるような形にせず、間に持ち変えるコマを入れてリアルにした。すずさんが飛ぶサギを追うシーンでは、モデルとなった場所に行って階段を駆け下り、足下にも注意を向けながら斜め後ろへと飛び去るサギを見られるかといった検証を行った。そうすることで「気持ちはサギに吸い込まれるような走り方」が描けた。ただし、若いすずさんと違い「自分たちのは遅い。理想化はしないと描けない」とのこと。実証は実証として、シーンに応じて変化を加えていく必要性を教えてくれた。

「この世界の片隅に」場面。すずさんが走るシーンも現地でスタッフが実際に走り体感して描いた (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
「この世界の片隅に」場面。すずさんが走るシーンも現地でスタッフが実際に走り体感して描いた (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

「この世界の片隅に」で片渕監督がシナリオと絵コンテを両方とも自身で手がけたことについて、氷川から問われた片渕監督は、「1人でやっても別人みたい」と返答した。「シナリオでは段取りや整合性を考えるが、絵コンテは快感原則にそって描かれる。時間を司るシナリオで流れをわかっても、絵コンテが意義を唱えることがある」。同じ自分の異なる言い分を調整して映像へと仕立て上げていくことで、互いの良いところが出た作品になるといえそうだ。

目下、制作が進められているという長尺版「この世界の片隅に」では、マンガの原作には出会いのシーン以外も描かれていた、リンさんという名の遊郭の女性に関するエピソードが"復活"してくる。すずさんと周作との関係を揺さぶるエピソードだけに原作でもファンが多いところだが、映画の尺を要求された時間内に収めるうえでカットを余儀なくされた。もしも映画がヒットした時、どうして落としたんだという声が多く出て、長尺版につながるといった思惑があったことは知られているが、一方で「料理のところを端折りましたでは違った映画になってしまう」といった思いもあった。

「この世界の片隅に」場面。料理のシーンをカットせず制作したことで生まれた映像の力が作品の支持を呼んだ (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
「この世界の片隅に」場面。料理のシーンをカットせず制作したことで生まれた映像の力が作品の支持を呼んだ (C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

すずさんが数少ない食材や雑草を使い、煮炊きをして食事の支度をするシーンをカットしてもストーリーは進むが、あとで「料理のシーンを見たいという人がいて、追い風になるとは思えない」。それというのも丹念に描かれた料理のシーンそのものが、映像として力を持っていて、それが「この世界の片隅に」という映画の好評を支えているからだ。

もうひとつ、長尺版でリンさんとのシーンを入れたとき、今のように親子で見たり学校で上映されたりする映画になったかというと迷うところ。もちろん、教育的な観点からカットした訳ではないと明言したが、今後作られるだろう長尺版は「違う映画になる」と片渕監督は話し、氷川も「お話の匂いが変わるくらい」と指摘する。マンガで感動した人にはうれしい"復活"が、映画でファンになった人にとってどういった感情をもたらすか。そこが興味の向かうところになりそうだ。

氷川からは、「この世界の片隅に」の長尺版に続く片渕監督の新作に関して質問があった。答えた片渕監督。「少なくとも、もう1回は同じようなアプローチで臨みたい。行くことはできないけれど、そこにいる人たちと時間を共有したような気分を味わいたい。登場人物たちの世界に加わりたい。そのための資料を集めています」。時代についての言及はなく、時期も明らかにはされなかったが、「2021年がMAPPA(「この世界の片隅に」の制作会社)の10周年だと言われます」。その記念作品として発表される可能性がありそうだ。

片渕須直監督(右)と氷川竜介
片渕須直監督(右)と氷川竜介

3月11日は、7年前の2011年に東日本大震災が発生した日付。その時間もまたいで行われたトークイベントでは、震災が「この世界の片隅に」という作品作りに及ぼした影響などにも触れられた。前年の2010年夏あたりから、こうの史代の原作マンガをアニメーションにしたいと考え、当時の様子についていろいろと調べていた。空襲があって消火活動が行われ、物資が不足してすずさんの日常が変わっていく。そうした状況の「本物が目の前に来てしまったのか、こうなるのか」と感じたという。楠公飯作りから草履作り、天秤棒を担いでの水運びと、映画に描かれたさまざまな事を実際に体験し、リアルに描こうとこだわった映画にも、きっと東日本大震災で感じた、日常がくるりと変わってしまう体験が入っていることだろう。

最後に、アニメ オブ ザ イヤーのグランプリ受賞に関して聞かれた片渕監督。「いくつ賞をとっていると聞かれ、50を超えて数えられなくなりました。でも、ひとつひとつことなった観点から評価をいただいている。ひとつひとつの意味合いを感じることができます」と話し、アニメアワードでの受賞もひとつの評価と喜んだ。そして、「すずさんの存在感、すずさんがいるということが、映画館の広がりの中で見ていただくことで感じていただけると思います。だから大きな画面でも見てほしい」と劇場への来館を呼びかけた。幸いにして「この世界の片隅に」の上映は今もどこかで行われている。音響面にこだわった映画館もあって、自然の音から恐ろしい戦争の音までが体感として伝わってくる。すでに見た人もまだの人も、今回の受賞を機会にあらためて見てみると良いだろう。

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会