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2月10日(土)

 日記を書くちょうどよいペースがわからない。『新潮』3月号のリレー日記企画が好調のようで、あのそうそうたるメンバーのなかで私の日記も読まれる(かも)と思うと身がすくむ。すくんでいるだけで普通に書いてるんだけど。無駄にすくんでる。
 ところで、嫌いなひと、苦手なひとについて。だいたいこっち側から、このひと嫌いやな、苦手やなと思っていると、確実に間違いなく、むこうもこちらのことを嫌っていたり苦手だと思っていたりする。ある意味「通じ合っている」のだ。
 いままでさんざん人間関係でトラブってきたのだが、やっとこの歳になって気をつけようと思っていて(外から見るとぜんぜんそう見えないと思うが)、いま自分に禁止しているのが、「過去の会話を反芻しない」ということと、「そのあと架空の会話に入らない」ということだ。なんか嫌なこと言われると、それがずっと頭のなかにこびりついて、ついついそのあとずっと何回も何回もフラッシュバックしてしまう。そしてやがて、「あのときこう言うたったらよかった」「こう言い返してやればよかった」という想像が動き出して、脳内だけの架空の会話が始まる。それはだいたい、現実に言われたことの数倍ひどい会話になっていて、自分で勝手に想像してるだけの会話に、自分でものすごく腹を立てたりする。そうやって自分のなかで憎悪がふくれあがる。それはやがて沈殿し、堆積して、行動に出る。
 こういうことを一切やめた。めっちゃ楽になった。人との会話を反芻しない。その続きを想像しない。
 それでトラブルが減ったわけではない。今日は雨。掃除して、原稿。

2月13日(火)

 確認のためもういちど「ランボー 怒りのランボー」をTwitterでつぶやいてみたのだが、あいかわらず反応なしである。今日は会議のため出勤、そのまま研究室で原稿書き。
 原稿を書いていて、以前ある理系の研究者の方から、「沖縄の文化や規範は、亜熱帯のあの気候を考えないと理解できないんじゃないですか」と真顔で言われたことを思い出した。あと「沖縄の社会はさとうきび畑の農村や海んちゅ(漁師)たちのことを考えないとわからない」とも言っていた。いま沖縄の産業構造にしめる第1次産業の生産額の割合は1.5%ぐらい、復帰(72年)当時でも7.5%ぐらいである。復帰当時、日本全国の第3次産業が55%ぐらいだったときに、沖縄ではすでに70%を超えていた。現在では全国が73%ぐらい、沖縄は85%ぐらいである。沖縄は「サービス産業の島」である。

2月14日(水)

 「ランボー 怒りのランボー」にまったく反応がないことが受け入れられない。おさい先生からバレンタインになんか要らんかと言われ、ピカソの画集くれとリクエストする。
 先日から仕事のあいまにAmazonプライムなどでスピルバーグの映画をちょっとずつ観ている。忙しいので10分ぐらいずつの細切れになるが、かえってそのつどのシーンをじっくり観ることができる。細かいところにたくさん仕掛けがしてあってすごいな、と思う。暴力や恐怖の描写が異常に、神経症的なほど上手い。スピルバーグすごいな。
 昨日はぶっ壊れたプロジェクタにかわって注文したものが届いてさっそく設置する。15年前のプロジェクタと比較すると、値段は4分の1、性能は10倍だ。10倍って根拠ないけど。10倍きれいってことだな。感覚だ感覚。それで新作の映画版『It』を観る。とても面白かったが、スティーヴン・キングの原作のことが好きすぎて(暗記するほど読んでいる)、「あれも入ってない」「これも入ってない」「ここ端折りすぎじゃないのか」「こんな簡単な説明でいいのか」と、いちいち余計なお世話なことを考えてしまう。それぐらいこの原作が好きだ。
 しかし考えると、ピカソが好きで、スピルバーグが好きで、キングが好きって何かこう、「そのまんま」すぎて恥ずかしい。電車のなかでいつもApple Musicを聴きまくっていて、いろいろ聴くけどやっぱりビル・エヴァンスがいちばんいいなあと思ったりしている。初心者か。「何周か回って辿り着いた結論」ということにしておいてほしい。
 昔の『社会学評論』からいくつか論文をダウンロードして読む。あとは原稿書き。4月に出る予定の単著と、αシノドスと琉球新報のエッセー。この春休みはめちゃめちゃ書かないといけない。17年度は論文が2つだけという悲惨な結果だったが、18年度は単著が3冊、共著が4冊、そのほか対談本が2冊の予定。あくまでも予定。がんばったら単著もう1冊いけるかな。
 もちろん、すべてをイチからいま書いているわけではなく、長年にわたって並行して続けてきた複数のことが、たまたま一斉に出来上がってきてるだけで、これはあれだ。たくさん靴下をまとめ買いすると、いっせいに同じ時期に穴が空いてくる。あれと同じだ。逆だけど。いっせいに穴がふさがっていく。
 これは何周か回って辿り着いた結論なんだけど、なんだかんだいってピカソの絵って素晴らしい。明るくて、音楽的で、生きることを肯定してくれる。こんな俺でも生きてていいんだな。

2月15日(木)

 缶詰5日めぐらい。進んでないようで進んでいる。ようで進んでいない。どうしてもあいだに会議が入ったりする。
 立命館大学の先端研に来てから10ヶ月ぐらいになるが、いつも教授会で真剣に議論していてびっくりする。こういうものは派閥や根回しで事前に全部決まるものだと思い込んでいた。真剣に議論しているのに、しこりが残らない。「のに」ではなく、「から」なのだろうか。
 おはぎはパンくずが大好き。だからといってパンをちぎってあげてもあんまり食べない。パンとパンくずは違うのだ。
 薄曇りの、穏やかな、暖かい日。昼間4時間ほど散歩して、あとは家でだらだらと原稿を書く。
 きなこの写真を見て泣く。

路地裏を散歩していて、かわいらしい植木鉢たちを発見。
 

2月18日(日)

 おとといは新潮社のtbtさんが大阪に来られてるというので打ち合わせしながら天満で飯食って、そのあと友人Aと社会学者の前田拓也さんを誘って韓国スナックへ。オモニがしぬほど飯を出してくれた。飯食ったのに、また食う。良い音楽をかけるバーに移動して2時まで飲む。『江戸時代に癌は存在しなかった』という本を書けばボロ儲けできるのではないかという話になった。最後の最後で「概念の話です」ということにすればよい。
 きのうは上間陽子さんの講演会。大阪市大人権問題研究センターの企画、場所は龍谷大学の梅田キャンパス、なのに俺が会場を設営した。龍大の梅田キャンパスはできた当初から10年ぐらい研究会や講演会やシンポジウムで使ってきたので、慣れているのだ。立命館に移って唯一残念なことは、この施設がもう自分主体では使えなくなったということだ。立命館にも梅田キャンパスがあるんだけど、もったいないことに、土日に使えるこういうスペースがない。
 講演会は盛況で4~50人来た。お話も壮絶。上間さん、小さな体、小さな声で、大きな仕事をしている。
 お茶してからいろんな人と合流してお食事。中華。そのあと解散して、tbtさんと二人で遅くまで飲んだ。禁煙のワインバー。たいへん良い。
 ひさしぶりに酒飲んだ、しかも二日連続で。飲んだぶん、原稿は進んでない。
 今日は別件の原稿書いて洗濯して、あとは映画『レヴェナント』観た。圧巻、圧倒的。さいきんイニャリトゥがいちばん好きだ。
 日記ってこういう感じでいいのかな。なんかオチとか付けなくてもいいのかな。実は全部嘘で、ひとりで家にいました。

2月19日(月)

 二日連続で深酒して昨日は一日ぐったりしてて、結局三日ほど無駄にする。最低限の仕事はしてるので無駄にはなってないけど、でも無駄にした。
 ついこないだTwitterで俺のファンですって言ってきた「業界」の方が俺のフォロー外してて、別にリムーブもブロックも気にしないけど単純に「何で??」って思う。なんか余計なこと書いたのかな。余計なことしか書いてないけど。
 「こいつ何かイメージと違う……」みたいなことだろうか。
 私の本を読んだ方とはじめてお会いすると、100億%ぐらいの確率で「もっと物静かな方だと思ってました」と言われる。細くて白くて痩せてて寡黙でメガネで室内でもマフラーとか巻いてるイメージなんだそうだ。
 メガネしか合うてへん。
 おさい先生が風邪で寝ていたので、ひとりでスーパーで買い出し。冷蔵庫が空っぽだったのであれもこれもと適当に買ったら1万円を超えてしまった。大きなビニール袋4つ。自転車のカゴに乗らなくて困った。しばらく家で何でも食えるぞ。
 夜はカフェイン投入してグランフロントのコワーキングカフェみたいなところで仕事。していたのだが、向かい側にすわったおばちゃんの独り言がめっちゃうるさくて、なんか笑ってしまって仕事にならなかった。とりあえず今日の分の原稿は書いたから、仕事になった。あと、マルチ屋さんや情報商材屋さんみたいなひとがめっちゃ多かった。そういう会話をしていた。
 帰宅して原稿のファイルを送信。炭水化物抜きを再開、風邪のおさい先生が、グリルした鳥もも肉と蒸し野菜を作ってくれた。申し訳ない。
 対談の依頼と、初めてお会いする編集の方との打ち合わせ(顔合わせ)の依頼が来る。
 洗濯はしたけど、掃除をしてない。掃除せな。
 「申し訳ない」と「申し分ない」は似てるけど逆だ。

2月21日(水)

 昨日は教授会、そのあと某誌の取材。カバンから『断片的なものの社会学』を出しながら「この本を読んでも意味がわかりまへん」「何を質問すればいいかわかりまへん」と言われた。こういうとき何て言えばいいんだろう。いっしょうけんめい喋ったけどやっぱり不機嫌になってしまった。自分でも、おとなげないと思う。
 おとなじゃないのかもしれない。50歳だけど。生後50カ年児。
 夜は前任校の卒業生と女子会。西院でたまたま見つけた trattoria Tenera という店がとても美味しかった。雰囲気も良い。またちょくちょく行こう。
 帰りの電車で立ったまま寝てた。座席は空いてたけど、空いてる電車で立っているのが好きだ。
 今日は男子自由形家事労働。特に掃除。休み休みだから時間ばっかりかかってしょうがない。あと、都心ローコスト狭小3階建住宅は階段を何度も上り下りしないといけなくて、掃除機をかけることがとてもしんどい。
 だんだん普通の日記になってきた。こんなんでよかったのか。もっとこう、英語圏の最新の学術研究動向とか、最新の学説とか、最新のニュースとかを解説したほうがよいのではないか。
 そういうのできない。そういえば、社会学者なのに、時事解説みたいな仕事がきたことがない。さすがに研究者としてどうか、と思う。研究者ではない、と思えばいいのか。では何か。わからない。
 夜は文月悠光さんの『臆病な詩人、街へ出る。』をちょっと読んでから原稿書き。沖縄戦体験者の生活史をまとめた報告書を再読して、そこから抜き出すエピソードを選ぶ。20人に聞いた生活史をそのまま載せているだけの報告書だけど、わりと本気で、これは「世界文学」だと思う。私は聞き取りを通じてその物語をまとめる「お手伝い」をしただけで、沖縄の人びとはみんなこういう物語を持っている。物語とともに生きている。小さな島の、大きな人生。

2月22日(木)

 ずっと1年ぐらい、ラジオが欲しいなと思っている。ラジオである。小さい、乾電池で動く、安くて、音の悪いやつ。そのへんに置いて、仕事中に小さく鳴らしたい。
 もちろんラジオ番組ならネットでいくらでも聴けるのだが、そういうんじゃなくて、小さなスピーカーの、物理的な実体を持つ安物のラジオで、雑音混じりのラジオ番組を聴きたい。
 さきほど別件の用事で近所の家電量販店をぶらついていて、SONYの手のひらサイズのやつが2000円で売ってて、かなり買いそうになったけど、買わなかった。梅田のヨドバシにいってもいつも、ほとんど誰も客がいない、高齢者向けの、ラジオ専用機の小さな小さな棚のところで、ああ欲しいな欲しいなと思っている。1000円とか2000円のものなので、いつでも買えるんだけど、なぜかいつも買わない。
 帰宅して、ブラウザでネットでストリーミングしてるラジオを聴いてみた。すぐ消した。違う、これじゃない。もっと汚い、チャチな、モノラルのラジオの音が聴きたい。
 そういうラジオが、子どものときに枕元にあった。みんなが寝静まった真夜中に、イヤホンで深夜番組を聴くのが好きだった。デジタル時計が付いていて、真っ暗な部屋のなかでぼんやりと緑色に光る数字をよく覚えている。
 子どもの頃によく、真夜中に小さな小さな飛行機に乗って、この街を越えて、大きな河も山も越えて、どこまでもどこまでも飛んでいくところを想像していた。そういう、ひとり乗りの、小さな小さな飛行機が欲しかった。とても欲しかった。東京や札幌の、どこか知らない街はずれをぐるりと一周して、街の灯りを眺めて、どんなひとが住んでいるんだろうと想像して、そして夜明けごろに、誰にも気づかれずにひとりで帰ってきて、なにごともなかったかのように布団に入ってもういちど寝る。そういう想像をしながら寝てた。
 20年前、新婚時代に買った小さなゴミ箱がもうぼろぼろで、それ自体がゴミのようになってきたので、もっと大きなゴミ箱に捨てたら、おさい先生が救出していた。せっかく捨てたのになんで復活してるんだろうと思って、またゴミ箱にゴミ箱を捨てたら、おさい先生がまた救出していた。
 ゴミとしてのゴミ箱を捨ててあるようには見えなくて、単に「掃除のときに邪魔だから二つのゴミ箱を重ねてある」みたいにしか見えなかったらしい。
 ゴミ箱をゴミとして捨てるにはどうしたらいいんだろう。このままでは永久にゴミ箱を捨てることができない。
 終日、資料読みと原稿書き。あと書斎の掃除。