私は「キリスト教は日本文化の敵である」と書いた。
日本文化を守り伝えていきたいと考えるかぎり、キリスト教文化が日本で広まるのは敵となる。日本文化にとって、珍しくわかりやすい「悪」ではないか、とおもっている。
16世紀、キリスト教信者が増えるにつれ、仏閣を破壊したり、また正月を祝うことを信者に禁じたことがあった。悪魔の祭りに参加してはならぬ、と仏教は(および神道的行事は)悪魔だと明言している。
日本人として困ってしまう。お寺を壊し、お正月も壊そうとする文化は私は受け入れたくない。
そしてキリスト教側は、敵認定した私に対談を申し込んできた。キリスト教について知りたいことがあったら、おっしゃってくださいとも言ってくれた。
敵対する人のほうが、無視する人よりまだましだ、ということであろう。
敵認定した人には(つまり私には)キリスト教徒の姿が見えているが、無関心な人には見えていない、と感じているのではないか。
お会いした京都の牧師さんは、言いたかったことを言ってもらえた、と言う。
とくに「キリスト教は、信じないものにとっては、暴力である」、という私の主張に、いままで誰も言ってくれなかったことだと、賛意を示していた。
私が新書に書いたのは、たとえばこういう文章である。
「キリスト教を背景にした西洋文明は、自分たちと同じルールで動く社会しか認めようとしない。そして自分たちが善であることは疑うことのない前提となっている。あきらかに狂信的な暴力集団であり、立ち向かうと善意によって滅ぼされる。
キリスト教は、信じないものにとっては、ずっと暴力であった」
「キリスト教国は、キリスト教国であるために、イスラム教徒たちと戦い、旧教カトリックと新教プロテスタントに分裂して戦い、そして世界に自分たちの教えを広めようとしていく。
キリスト教は、世界中のあらゆる場所に自分たちの教えを広め、可能なかぎり多くの人たちをキリスト教徒にしようとしている。そのために手段を選ばないところがある。
かれらは戦いを辞さない。それが正義だからだ。でもあきらかに世界征服を狙っている。
物語世界では、世界征服を目論むものは徹底的な悪と相場は決まっているが、彼らにはそういう意識はない」
こういうふうに書いた。
キリスト教が暴力であるという指摘をしたのは、もちろん私が初めてではない。あたりまえだ。
そもそも「十字軍」「ユグノー戦争」(サンバルテルミの虐殺)という世界史の有名な単語を思い浮かべるだけで、暴力を越えて、血の匂いさえしてきそうだ。敵を殲滅しようという意志をもった恐ろしく圧倒的な暴力である。
そういうキリスト教の暴力の歴史を覚えないと、(世界史選択である限り)大学には入れない。だから、キリスト教が暴力だということは、ほんとうはみんな知っているはずである。
戦国日本もその暴力に巻き込まれそうだった、というのを知らないだけだろう。