1952年5月10日付「聖教新聞」。右上の見出しに「狸祭り」の文字が見える

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1000ページにも及ぶ膨大な未公開資料をもとに、創価学会の知られざる歴史を明らかにした『創価学会秘史』が話題を呼んでいる。

「恒久平和」の旗印のもと、日本最大級の宗教団体として勢力を広げてきた創価学会だが、戦前・戦中期には様相を異にしていた。ジャーナリスト・高橋篤史氏が放つ特別レポート。

カリスマ君臨の契機となった「事件」

2010年5月の本部幹部会以降、公の前に姿を現さない池田大作名誉会長だが、その求心力はいまだ創価学会において絶対だ。

半世紀以上、巨大教団を率いてきたそのカリスマ指導者が組織内でのし上がるきっかけとなった事件は1952年4月に起きた。それは当時、24歳の池田氏が青年部の情報参謀となって最初に臨んだ実力行動だった。

「狸祭り事件」は創価学会の青年部メンバー48人が日蓮正宗の僧侶を大石寺境内で暴力的に吊し上げ、見世物にした挙げ句、詫び状を書かせたものだ。相手は小笠原慈聞という当時すでに70歳過ぎの老僧だった。

小笠原は戦時中、日蓮正宗内では反執行部の立場をとり、他方で軍部政府に対しては大政翼賛的な態度でおもねり、そのため分派的な動きも見せていた。

1952年5月10日付「聖教新聞」。右上の見出しに「狸祭り」の文字が見える

この事件は今日、暴力的場面が削られた上で小説『人間革命』に収められている。そこにおいて一連の出来事は、過去の戦争翼賛的言動を理詰めの話し合いにより平和的に反省させたものとして描かれている。

そして最後、軍部政府と対決した末に獄死したとされる初代会長・牧口常三郎の墓前で青年部メンバーが小笠原に詫び状を書かせる場面は、「反戦・平和の団体」を標榜する今日の創価学会にとって画期すべき大きな成果であるかのごとく打ち出されている。

しかし、事実は大きく異なる。例えば、『人間革命』は、「狸祭り」という言葉を、小笠原が中空の月を眺めながら不意に呟いたものとしているが、実際は青年部が実力行使に及ぶ場合を想定してあらかじめ付けていた作戦名だった。

そして何より大きく異なるのは、吊し上げられた小笠原と何ら変わらず、戦時中の創価教育学会もずいぶんと戦争翼賛的な態度をとっていたという事実である。

「信仰は事業のバロメーターなり」

当時、大方の宗教団体がそうだったように、日蓮正宗も政府が進める戦争には協力的な立場だった。その在家信徒団体である創価教育学会とて同じだ。

例えば、日本が対英米戦に突入した直後の1942年2月に発行された創価教育学会の機関紙『価値創造』の第6号には、日蓮正宗宗務院が前月21日付で出していたこんな布告が転載されていた。

それによると、日蓮正宗は2月8日午後、大石寺において全国から僧侶や檀信徒を集め「大東亜戦争戦勝祈願大法要」を開催していた。日蓮正宗にとって信仰の根本である「戒壇の大御本尊」の御開扉に続き、「戦争完遂宣誓式」が行われたという。

その頃、創価教育学会は教員中心の団体から出版業をはじめとする中小企業経営者を中心とする団体に性格が大きく変わっていた。

牧口の一番弟子である戸田城聖(当時は城外と名乗っていた)は補習塾だけでなく出版業にも乗り出していた。1940年には小学生向け雑誌を創刊したが、そこでは海軍特集を組むなど軍国少年の育成に一役買っていた。

戸田がまさにそうだったように、出版業の会員企業は戦争翼賛本をドル箱としていた。理事の一人が経営する六藝社が出していた『洞庭湖』『泥濘』『戦友記』といった戦地からの帰還作家による戦争文学作品など、『価値創造』には会員企業による新刊広告が数多く掲載され、それら広告料が発行費用を賄っていた。

当時、創価教育学会は牧口が唱えた教育宗教革命論を脇に置き、現世利益を前面に押し出した活動に大きく舵を切っていた。信心を深めればそれだけ経営する企業も儲かるとの教えであり、ある幹部はそれを「信仰は事業のバロメーターなり」と声高に言い放った。

戸田は金融業や証券業、食品製造業も手掛け始め、ある会員経営者が営んでいたレンズ工場を買い取り、兵器産業への進出すら企てた。会員経営者は「生活革新同盟倶楽部」との名称で集まりを持ち、中でも戦争文学で鼻息の荒かった戸田をはじめとする出版業の会員は営業成績を毎月競い合い、『価値創造』はそれら具体的な数字まで掲げていた。

戦時下、一般会員にとって最も切実な心配事は肉親の戦地における無事だったが、これも信心を深めれば心配には当たらないというのが創価教育学会の教えだった。数に優る敵軍の急襲も撃退できるし、待ち伏せ攻撃も偶然の出来事によって避けることができるといった具合で、『価値創造』にはそうした類の会員による体験記が収められていた。

相次ぐ「勇ましい発言」

そんな中、『価値創造』は1941年10月の第3号でヒトラーの『我が闘争』の紹介に大きく紙面を割いていた。

その頃、ナチスドイツは宿敵フランスを屈服させ、さらにソ連にも深く侵攻し首都モスクワの目と鼻の先まで迫っていた。いわば絶頂期にあった頃だが、そんなヒトラーを『価値創造』は見出しにおいて「現代の転輪聖王」と持ち上げ、理想的な君主とみなしたほどだった。

さらに日本軍が南方で緒戦の勝利に次ぐ勝利を重ねていた1942年ともなると、創価教育学会の幹部たちからは勇ましい発言が相次ぐようになる。『価値創造』の後継誌として出された小冊子『大善生活実証録』(同誌は国立国会図書館に覆刻版の所蔵がある)によると、こんな具合だ。

「陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、赫々たる戦果を挙げている事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第である……我国としても、もう寸毫の妥協も許されず、勝つか負けるかの一時のみ、否、断じて勝つの一手あるのみである」

総会の開会にあたり幹部の一人がそう言えば、別の幹部は閉会をこう締め括った。

「いまや、皇国日本か北はアリューシャン群島方面より遥かに太平洋の真中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、更に南洋諸島を経て、西は印度洋からビルマ支那大陸に、将又蒙彊満州に至るの広大なる戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐くが戦場精神によって一丸となり、ひたすらに目的達成に邁進しつつあることは、すでに皆様熟知されるところである」

総会はいつも皇居に向かっての遥拝で始まり、会の終わりには軍歌がうたわれた。牧口や戸田にとって天皇中心の国体観念やその下での対外拡張政策は当然のことだった。

前回紹介した創価教育学会の草創期を支えた元教員たちの何人かはその後、軍に召集され中国大陸などで戦死している。

しかし、牧口や戸田は彼らのそうした過酷な運命に特段の関心を払った形跡がない。戸田に至っては戦後間もなくの座談会の場において「信心が足りなかったから死んだ」といった趣旨の発言をしていたほどである。

組織力を知らしめるために

では、冒頭の狸祭り事件は学会史においてどう位置づけられるべきなのか。

戦後、戸田は創価学会とともに事業の再建に取り組んだ。が、出版業は全滅、次に力を入れた金融業では刑法犯に問われかねないほどの杜撰経営で破綻に至っている。

そんな中、戸田は創価学会を事業の代替物とみなし、組織拡大のため青年部を実働部隊に猛烈な折伏戦を始める。創価学会を集金マシーンに仕立て上げるため、まず目論んだのが法人化だった。

が、そもそも在家信徒団体の一つにすぎない創価学会が独自の法人を持つことに日蓮正宗側は難色を示した。そこで全国から関係者が一堂に集まる立宗700年記念の大法要の機会を捉え、法人化への道を正面突破しようと組織力を誇示するため敢行したのが老僧・小笠原に対する集団吊し上げ事件(「狸祭り事件」)だった、と見るのがおそらくは正しい歴史認識だ。

当時、『聖教新聞』や『大白蓮華』といった機関紙誌は暴力的な場面も含め事件の詳細を大々的に報じていた。組織が急拡大を始めていた創価学会にとってそれは栄えある勝利の一場面だったのである。

じつのところ、創価学会が「反戦・平和の団体」を標榜しはじめたのは1970年秋以降のことだ。その年前半、池田氏の下で強烈な折伏戦を展開し、なおも急角度で組織を拡大させ続けていた創価学会は、批判的なマスコミを押さえ込もうと言論出版妨害事件を引き起こす。

世間の反発は相当なもので、結局、池田氏は謝罪に追い込まれ、1954年の政治進出以来掲げてきた「王仏冥合」や「国立戒壇の建立」といった宗教国家的なスローガンを撤回せざるを得なくなる。

真の歴史を隠した理由

戦後、創価学会は主に「貧・病・争」に悩む社会の下層を取り込み成長した。が、時代は移り変わり、その頃は保革対立の下、学園紛争の嵐が吹き荒れ、中間層が社会の主役に躍り出た時代。そこで創価学会は学生やインテリ層をも取り込むソフト路線に舵を切る。

その際、前面に押し出したのが反戦・平和だった。牧口が獄死した11月18日という日はその14年前の教育書『創価教育学体系』の第1巻の発行日とたまたま同じだった。この劇的なまでの暗合を利用しない手はなく、1970年を境に創価学会はこの日を創立日と明確に定めた。それまで5月に行われていた総会も翌年以降は11月に行うようになった。

以後、半世紀近く、反戦・平和のプロパガンダは功を奏し、反核運動などで一定の実績を積んで、そうしたイメージは組織の内外にすっかり定着した。

その点、過去の思想弾圧への協力的態度や戦争翼賛の数々の言動は今日の創価学会にとって不都合極まりない。1990年代に日蓮正宗と決別し、池田氏はじめ「三代会長」の事績が学会の中心価値となってからはなおさらである。しかも、池田氏の不在が長期に及ぶ中、カリスマなき集団指導体制が組織の求心力を保つため「三代会長」の神話はますます重要性を増している。

創価学会はとりわけ1950年代以前における真の歴史を隠し、会員からも遠ざけている。そして、『新教』や『価値創造』といった過去の機関紙誌を封印してしまった。都合良く歴史を語ることが許されないのは当然のことであり、それが連立政権の一翼を担う政党の支持母体によってなされているのなら一層憂慮すべき事態だ。

筆者が上梓した『創価学会秘史』が、そこに一石を投じることになれば幸いである。

                                   (了)