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2018-03-12

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・黙祷が終わって、「あ。」と気づいた。
 いままで、わかっていなかったことだ。
 「思い出し過ぎてはいけない」のだ。

 悲しい出来事があって、
 海を見ることができなくなっていた人が、
 それからはじめて港まで歩いてきて、
 黙祷するひとりになってくれた。
 「みんなで来たから、よかったね」と言った。
 この日、だれよりも思うことはあっただろうし、
 こころのなかを悲しみだけで満たすこともできたろう。
 でも、ぼくらが今年の黙祷の時間を
 ここで過ごすと言ってあったので、
 なかまとして、いっしょに歩いて来てくれたのだと思う。

 いつものような笑顔で海のほうを向いて、
 1分間の祈りのあとで、自然に涙を落としていた。
 ここに来て祈るのも、ここで泣くのも勇気だ。
 この人は、思い出し過ぎないようにしていたのだった。
 いくらでも思い出はあるのだけれど、
 ちょうどよく思い出すことができたのは、
 「みんなで来たから」だったかもしれない。
 仏壇でなくて、海に向かって祈れたのは、
 とてもよかったのではないだろうかと、
 たまたまの隣り人であるぼくは思った。
 えらかったね、とほめたい気持ちだった。

 思い出し過ぎないこと。
 思い出すのは、いくら思い出してもかまわないが、
 思い出し過ぎると、きっと
 溢れるものによって溺れてしまうのだ。
 思い出し過ぎないことで、
 「よかったね」と言えた人の隣りにいて、
 ぼくも小さくだけれど生まれかわった。

 これは、じぶんだけでなく、
 親しい人みんなに伝えてやろうと思った。
 思い出し過ぎてはいけないんだよ、と。
 うん、なんでも過ぎるのはだめなのだ。
 恋し過ぎるのも、やり過ぎるのも、みんなだめだよ。
 ぼく自身も、忘れないようにしよう。 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
たぶん、過ぎることは、なにかから逃げてるんだろうなぁ。


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