(1)作家論の論理的瑕疵
A「作家論なんてやってる奴は「それ以外」の方法を知らないか、知っていても能力的にできないだけ。発想がひんこんで洞察力がないので、既存の読み方をもってくるしかないし、バカの一つ覚えみたいに近似解を何度も何度も導くことに疑問すらもたない。答えが一つだと安心できるのもポイント高い」
A「なにより「作家-作品」のつながりを持たせるために、作品内部のファクトを重視するわけだけど、ファクトをもってして到達できる見解ならばそこに"作家"という情報は必要か?ないだろ。逆にファクトを蔑ろにして「作家-作品」を結びつけるならばそいつの妄想でしかない。つまり作家論ってのはどっちに転んでも役立たずなわけだ。この問題に彼らはどう付き合ってるんだろうね」
――付き合うもなにも気づけないからやってんでしょ? と私なんかは思うわけですが、おそらく深淵な理由があるのでしょう。
以前「こいつの作品には絶対善しかでてこない!この作家のフリートーク、日常ツイートを見れば分かるように多様な視点が欠けている!!!!」というあまりの脳のキレッキレ具合に失笑してしまったことがありましたが、あるのでしょう。奥深い理由が。
楽しければいいじゃないか
おそらく彼らの答えはこれしかない。
"楽しければいいじゃないか"。矛盾を抱えていても、なにも生み出せないとしても、ボクが楽しいんだからいいじゃないか。倫理的な問題があろうと、妄想で作者を切り刻もうともいいじゃないか。
作家論は作家を解剖するものであって作品を紐解いているわけじゃないと蹴り上げられようとも、文学史の最初期で否定されたとしても*1、それでいいじゃないか。ボクが面白いんだから!ボクが親善大使だっ!!!
――という結論にしか到れないのは、論理的に、倫理的にもその問題を超えられず開き直るしかないからだ。そしてその作家論を彼ら自身に向けたとたん、怒り始めるんだからどうしようもないよネ。それだけこれはゲスい行為なんだって自覚してもよさそうだけど。
もちろん数多の批評行為はどれも瑕疵があるし、これぞ究極のものなんてはありはしない。しかし作家論はどれと比べてもほんとうにそのポテンシャルはないし、作品の新しい視点を切り開くわけでも、新奇的な価値観を見出すわけでもない。切り開くのはあくまでも"作家"ね。作品じゃない。なにより、作家への妄想をさも事実のように語るからタチが悪いわけ。
それでも楽しいからいいじゃないか!――というプリミティブな欲求に対して何も言えることはないので、では私自身それをやってみて、それが一体全体どのように映るのかを見ていきたい。
というのが本記事の目的である。
(2)MBTIでレッツ作家論!
アルゴリズムを抽出するタイプは以前に否定したので、今回はとりわけ未熟な型を試そうと思う。
つまり「作品の事実から→作者はファシストである」「作者はこうだから、作品にはフェミニズムが垣間見える」という妄想・暴論の事である。こういう作家論、よく見かけるでしょ?
ただそれらは引用すれば事足りるため、わざわざ私がやる必要はないだろう。なので今回はすこし切り口を変えて、MBTI≒ソシオニクスで
- 「作品の事実から→作者はISFPである」
- 「作者はENFJだから、作品はこうなってる」
という推論(暴論)をかましていこうと思う。原理的には作家論まんまなので、違和感はないだろう。
タイプ論は↓で説明したので割愛する。
(3)タイプの診断方法
人をタイプ診断するさい、覚えておきたい事はこの5つ。
- 視線
- 笑顔の形
- 話し方
- 動作/外観
- 作品の性質
まず8機能にアクセスするさい、眼球は所定の位置にとどまる。
Niであれば左上、Neであれば右上というふうに、視線を割り出していくと相手がどのタイプか判定しやすくなる。
- Ni:左上
- Si:左下
- Ne:右上
- Se:右下
- (仮)Fi.Te:右下
(視線)
そして最もとどまる位置を2つ割り出して、Fi笑顔/Fe笑顔を割り当てていけばいい。
(笑顔)
ここで勘案しなければいけないのは、
- ①はその対である⑦も使われること
- ②はその対である⑧を社会的な場で使える者もいること
- ④⑤をめちゃくちゃ鍛えて克服したプロもいること
- 視線右下は「Se,Fi,Te」の3つの機能が混在している可能性がある
「可能性」といったのはFi.Teについてはまだ調査しきれていないのでそう書かせてもらった。(仮)としているのもそのため。
例えばENFPであれば「Ne(右上)」をガンガン使うのはもちろんのことその対であるNi(左上)も使用していたり、INFPなのにNiを高頻度で使っていたり、INFJなのにSeに頻繁にアクセスする場合があるということ。
とくに40代、50代だと機能の発達が成熟していることが多いので注意が必要かもしれない。
そういった性質をを踏まえた上で、まずは最も使う視線を2つまで絞りこむことが肝要になる。
例えば「左上」「右下」によく視線が動き、かつ「Fe笑顔」であるとする。
となると第一機能、第二機能にNiをもつ――つまり頻繁に使えるタイプは――INFJ、INTJ、ENFJ、ENTJの4つだけとなる。
INFJはよほどSeをしごかなければ眼球が右下にいくことはないし、INTJはFi笑顔なので除外、となれば「Ni(左上)」「Te(右下)」「Fe笑顔」を有するのはENTJかENFJだけとなる。
あとはENTJ独特の怜悧な印象か、ENFJ独特のエモーショナルな雰囲気で見分けていくことになるので、この方法だとせいぜい精度は6割くらいかな?
ここに「会話の仕方」を組み合わせていけば、より精度は高まっていくだろう。
話し方
話し方――つまり進行速度、選択単語、反応、応答などはタイプ毎に似通うのが見とれる。
例えばISFPであれば「自分が気に入った(①FI)事実(②Se)」を好んで話す。テレビドラマの感想戦であれば彼女がみたストーリーを、その通り、そのままに描写(②Se)し、感情を込めて(①Fi)話しはじめるだろう。Neが発達してなければ比喩表現は限りなく少ない。ちなみにこれはESFPも近い(①Se②Fi)が、前者は内向的、後者は外向的かどうかで判断できる。
ISFJであれば①Siの記憶構造をもつため、話の進行がゆっくり(=継次処理)としており緻密に、詳細に、事実を描写する。2歩すすんだら1歩戻るような話し方を好み、また③Niによるせいか①Siでアクセスした経験記憶を「つまり」と要約しながらも、その記憶構造のためなかなか要点を言わない傾向がある。
INTJであれば①Niによって「話すべき全体像」を一気にとらえ、それを②Teでわかりやすく合理的に説明するのでシステマチックに、けれど滑らかな進行が見て取れる。
ENFPであればNeによって多彩な比喩表現を用いながら、Fiでエモく話すだろうか。このタイプは本当分かりやすい。
ちなみにこれらの特徴は発話にかぎらず、「文章」においても表出するので――対象者の機能度合いも勘案しなければいけないが――各タイプの特徴をとらえておくと判別はかなり楽になる。
各タイプのFunctionの位置毎の役割、①機能による文脈によって思考の仕方、思考速度、記憶の読み出し方がダイレクトに「話し方」に影響することを考慮されたし。
(機能の見取り図)
注意しなければならないのは、対象人物が渡された原稿そのまま読んでいたりすると目線は動かないし、話し方も単調になってしまい、判定するのが難しくなるということか。
この田村ゆかりさんのインタビューを見ればわかるように、視線は動いているが、その回数はとても少ない。
ということで出来るだけ、フリートークに近いインタビューをサンプルにするのがよいと思う。そしておそらく彼女はINFP。
以下、推定タイプ。
Seを扱えるINFJ:森山未來さん
ISFP:内田真礼さん
INFP:花澤香菜さん
ENFJ:名塚佳織さん
Seを使えるINFJ:羽生結弦さん
目線、話し方でも割り出せるが「身体の使い方」も考慮するとよいかもしれない。
ソシオニクスではINFJは身体の使い方がうまいとされる。①Niによって俯瞰視点から自身の体をコントロール出来るからだろうが、そこに修練を積み重ねると「ベルベット」の動きにまで昇華されるのだと思われる。
森山未來さんのダンス、羽生選手の「動き」はひとつひとつが洗練されていて絹のような、なめらかさを携えてはいないだろうか? (キレッキレの恋ダンスなんかもとくに) ああいった身体性がINFJの到達点だと考えられる。
またタイプごとの外観も語られており、ENFJであれば手足が細く、INTJであれば猫背で前かがみになっていて、瞳の大きさや、歩きかた、服装の傾向などもサブタイプ毎にまとめられているので参考になるだろう。
Se主導だとダイナミックで力強いよね。動き方。
顔の造形
タイプ判定をやっていくと気づくのは、共通した「顔立ち」があることだ。悠木碧.洲崎綾.水樹奈々さんらを見比べてみるとその特徴がよくわかる。
「眼裂の形」「前歯」「やや丸顔」がお三方とも通じる顔立ちであり、またこれはISFPに共通するものと言っていいかもしれない。上画像はISFPの写真であり、体脂肪率などいろいろ影響はあろうが、なんとなく言っていることが分かるんじゃないかな。
フォトショかかってると分かり難いので、できるだけ生に近いものをサンプルにするとよいと思われる。
作品内容
それでも判別できないのであれば、作品に踏み込んでいけばいい。
商業的作品は、必ずしも作者の意向を反映したものとは限らないが、精度をあげる材料としては申し分ない。
例えば歌手のYUIさんは「目線」「笑顔の形」「話し方」でINFJとタイプできるが、そこに歌詞もあわせるとより妥当性を増すだろう。
――Rolling days(YUI)
これは『Rolling days』の歌詞だが、INFJだと「私かよ!」とつっこむのではなかろうか。
ってくらいに言いたいことが言えないので我慢ばっかしてるし、意志表示をしなきゃとも思ってるし、理想を夢見ながら現実の有象無象に嫌気が差しているのとか
―― again(YUI)
特に『again』はきゅんきゅんくるよね。
夢を追いかけながらも人につまずいて、いろいろな罪悪感を抱えこんでしまう。でもそれは涙で打ち消せはしないよ、ずっとずっと抱えていくんだ。抱えながら理想を叶えるために生きていくんだよ――という主題に対して「でも現実から逃れたいんでしょ?」「でも人生長過ぎるよね?」「犠牲者のふりするのやめなよ」と対立する考えをぶつかりあわせながら、陰と陽を超えていこうとする。超えていった先でなにかを得ようとする、INFJの芸術は本当わかりやすい……。
――といったように音楽であれば歌詞、映像であれば背景や動作の質、なにを重視し、どんなものを描こうとしているかといった点を考慮していくと精度は高まるだろう。
Twitterをやっていればそれも合わせるとよい。ただしマネージャーや組織ぐるみで運営していたら意味がないのでそこを考慮しつつ。
もちろん8機能、Functionの役割、各タイプの世界観を知らなければどうもこうもないのでまずはそこの理解することから始めるといいと思われる。
まとめると
- 視線
- 笑顔の形
- 話し方
- 動作/外観
- 作品の性質
声優考察:SFタイプとNFタイプ
――ということでタイプ判別の手がかりを書いてきたわけだけど、そろそろタイトルどおり声優について語ってみようと思う。
※ここからは敬称を略させていただきます。
SFは「感覚+感情型」であり、NFは「直感+感情型」である。
どちらも芸術に適正があるものの、NFは直感によって感情を極限までふくらませるのでその熱量はすさまじい。ポテンシャルだけでいえばNFの圧勝であり、それは声優においても言える。
声優のおおくはISFPタイプで構成されているので、そういった数多の人材と、NFである中原麻衣、雨宮天、名塚佳織、田村ゆかり、花澤香菜、福圓美里、生天目仁美らを比べてみればその差は一目瞭然であろう。どなたも頭角を現し、明らかに才能があるなとしか思えない表現をみせつけてくる。
INFJであろう中原麻衣、雨宮天、ENFJであろう名塚佳織はキャラ-自己への感情流入にたいし「転換点」がなく、自分=キャラであるため演技がとてもナチュラルであり、かつその感情表現は豊穣である。
――ひぐらしの竜宮レナ、CLANNADの古河渚、刀語の七実……どれをとってもそこにいるのは"中原麻衣"ではなく"そのキャラクター"である。自己を押し出すのではなく、架空の存在の輪郭を描き、なりきり、自己同一化するのがINFJ・ENFJの演技になると思われる。魅力的。
たいして(推定)ESFPであろう佐倉綾音は感情がこもっていなく、あるいは表面的で、全く心に響かない演技の数々だ。これは①主導にSeがあるのと、②創造機能にFiがあるため感情精査が他と比べるとうまくいっておらず、またそれを表現することに関しても幅が狭い要因となっている。正直薄っぺらいんだよ。演技は毎度のごとくテンプレであり、同じやり方を、同じふうに繰り返すことばかり。キャラクターを演じるのではなく、自分を押し出すような、自己でキャラを塗り替えんとするそれは演技でもなんでもない。ただの自己表現だ。
しかし『オカルティック・ナイン』の成沢稜歌に関しては「表面的」であることが有利に働いている。このキャラの場合、本心を隠し、「ガワ」であることが作品的に重要なので、佐倉綾音の表面的な演技とがっちり結びつく。そのシンクロ率がかえって成沢稜歌という魅力を高めてくれていると言えそうだ。
INFPである田村ゆかり、花澤香菜、生天目仁美、福圓美里らはとかく「熱量」がすごい。感情表現の幅がおどろくほど広く、深く、そして時にはこちらを焼き尽くすほどの一点集中型のエネルギーをぶつけてくる。
スマイルプリキュアのみゆき(=福圓美里)の高らかな希望の叫びに、涙してしまったものも多いだろう。ああいうふうに、あてられたものは感化される。されてしまう。INFPの演技はとかくアジテーション的であり、拒むことさえ難しいものだ。それゆえに声優としてはピカイチであろう。
もちろんISFPの演技も①Fiによるため素晴らしいが、ただ声優界では飽和状態なため、有象無象と化している。ここでは――悠木碧のような――圧倒的な力がなければISFPに例え魅力はあっても見出されにくいのではないかと思われる。そしてISFPの演技はどことなく「作り物」感があるのは、自己経由しながらキャラの感情に入れ込んでいるからだろう。これがINFJ・ENFJとの演技との最大の差であり、分かりやすい部分である。
(完)
おわり
どうだったでしょうか。最悪だったんじゃないでしょうか。作家論とはつまりはこういうことであり、身内で遊んでいる分にはいいでしょうが、一度衆目に晒せば非難轟々に至ると愚考します。(え?面白かったですか。よかったです)
もちろん私の力量不足のために作家論としての体裁は整わなかったかもしれませんが、整うが整まいが、やっていることに変わりはなく手順が間違っているならば結果も必然でしょう。
この記事は当該方法を用いている者にたいし、抑止、牽制としての効果を発揮するかは定かではありませんが、とりあえず投げつけてみると色々な反応を見れて面白いかもしれません。「お前らがやってるのはこういうことなんだよばーか!」と暗に訴えることでスッキリするでしょう。知りませんけど。
「でも面白かったんでしょ?」
ええ最高でした。最高に面白かったです。プリミティブな欲求ってすごいですね。今度から私もガンガン作家論やっていこうと思います! ついでに作家論をやっている者にも「キミが作家論に執着するのはISTJだからだよ。NeとNiが貧弱だからそれ以外の考えが浮かばないんだろうな。可哀想に。動脈硬化のように発想が行き詰まっている。そのアタマは髪の毛を育てる苗床か?」と殴っていくのもいいかもしれませんね! 最高です!最高に面白いです! 面倒なのでやりませんけど!!!
逆にいえば、やり返される覚悟が作家論には必要でしょう。自分だけやって相手にはしないで欲しい、なんて都合のいい考えが通用するわけありません。やり返されるのを承知するのであらば、その爛々に輝く好奇心をむき出しにして突っ込めばいいんじゃないでしょうか。
――楽しければいいじゃないか?やり返される覚悟があるならばな!
これが私がだせる作家論への回答です。そしてお互いに覚悟を求め、互いに互いにむけて作家論を行使し、無限ループに発展するわけですね。地獄だ。
(了)
MBTI・ソシオニクス記事
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