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葛西氏との対話部屋-Ⅱ

管理人及び葛西氏との相違点

項目/信・不信 葛西氏 MonLinGen
不信 備考/条件 不信 備考/条件
題目の力
三世の生命観
宿業
宿業転換
体験談
罰論 無暗に出さない 興味無し
五十展転の功徳
三代会長
勤行・唱題
日蓮仏法
アンチへの不信   内容如何
信心による功徳

前部屋のコメントが50を超えていますので「Ⅱ」を作りました。

通常どおりコメントが出来ます。

2018年2月26日

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葛西氏との対話部屋-Ⅱ” への1件のコメント
  1. monlingen より:

    前回までの個人的な整理

    「アンチ創価学会」というテーマで対話をしています。前回までは「体験」「体得」「感得」を色々話し合いましたが、余り一致点が見つけられませんでした。
    一応葛西さんからの「質問」に、管理人が「答える」(意見)という形で進めています。

  2. monlingen より:

    葛西さんへ

    かなり話の澱(よど)みが進んでいるようです。
    で、こちらから貴方に質問をします。複雑なものではないので軽く考えて下さい。

    ●貴方は「題目」の力を信じていますか?

    …単純なことです。
    何か問題があった場合、全ての世法的な話を抜きにして御本尊の前に座るという、その気持ちが貴方にありますか?何も考えずにひたすら御本尊に題目をあげ,そして結果としてその問題が解決していくと言う、「事実」又は「現証」を信じますか?

    イエス・ノーだけでいいので,宜しくお願いします。

  3. 葛西 より:

    回答は、「イエス」です。

  4. monlingen より:

    葛西さんへ

    非常に意外な答えが出てきました。少々驚いています…。でも、ありがとうございます。
    では、暫く私の質問にお答え下さい。これも「イエス・ノー」だけでお答え下さい。
    私のも含めて、結果は或る方法で表示します。それを元に対話を再開してみましょう。

    ① 三世の生命観を信じますか?
    ② 個々人に宿業と言うものが「ある」と言う事を信じますか?
    ③ 学会活動、又は日蓮仏法の活動で、「宿業転換」が「出来る」と言う事を信じていますか?
    ④ 学会で話される「体験談」を信じますか?
    ⑤ 宿業転換に於ける活動の失敗又は逃避によって、所謂「罰」が出るという話を信じますか?
    ⑥ 「五十展転」の功徳(の体験談)を信じていますか?
    ⑦ 創価学会の三代会長の話される(された)ことを信じますか?
    ⑧ 学会で言われている信心活動を,今もされていますか?(単純に勤行や活動等)
    ⑨ 日蓮仏法そのものに対して「不信感」はありませんか?
    ⑩ 「元」創価学会員が話す,所謂アンチ系の話に対しての嫌悪感はありませんか?
    ⑪ 「功徳」が「ある」又は「出る」と言う事を信じますか?

    仕事前の作業で少々乱暴で、纏まりのない記述になりましたけど許して下さい。
    この夕方、又は夜に再度質問を書くかもしれません。その時も宜しくお願いします。

  5. 葛西 より:

    かなり粗い質問ですが、極力シンプルに記載します。

    ① 三世の生命観を信じますか?→YES
    ② 個々人に宿業と言うものが「ある」と言う事を信じますか?→YES
    ③ 学会活動、又は日蓮仏法の活動で、「宿業転換」が「出来る」と言う事を信じていますか?→YES
    ④ 学会で話される「体験談」を信じますか?→YES
    ⑤ 宿業転換に於ける活動の失敗又は逃避によって、所謂「罰」が出るという話を信じますか?および
    →YES、ただしこれは必ずしもそうであるとは考えない。
    「失敗および逃避」はよりも問題は法の誹謗。少なくとも私は、活動から逃避した人間に、罰論を振りかざさない
    ⑥ 「五十展転」の功徳(の体験談)を信じていますか?→YES
    ⑦ 創価学会の三代会長の話される(された)ことを信じますか?→YES
    ⑧ 学会で言われている信心活動を,今もされていますか?(単純に勤行や活動等)→YES
    ⑨ 日蓮仏法そのものに対して「不信感」はありませんか?→YES
    ⑩ 「元」創価学会員が話す,所謂アンチ系の話に対しての嫌悪感はありませんか?→内容に拠るので一概には言えない
    ⑪ 「功徳」が「ある」又は「出る」と言う事を信じますか?→YES

  6. monlingen より:

    葛西さんへ

    雑な作りですが、当部屋の表紙に「表」を掲載しました。
    この表をベースにしながら話し合うのも一興かもしれません。

    さて、これ(表)を見るとかなりな疑問が出てきます。
    「感得」と「体験」は、私は同じ種類のものと考えていますし、またそのようにもここで記しました。然るに、葛西さんがどうして無駄な話に終始しようとするのか、不思議でなりませんね。体験が信心で大事だということは、多分理解されているはずですが…。

    「何故?」と私の質問から始まることが、大事になってきそうです。

  7. 葛西 より:

    これについては何度も記載していると思いますが、
    私のお伝えの仕方が悪かったのだと思います。大変失礼しました。

    <私が認める点>
    信仰において「感得」や「体験」が重要

    <認めない点>
    その「感得」や「体験」を根拠に、
    あらゆる主張や論争、判断を行うことには反対する。
    たとえば以下。

    1.日蓮正宗などとの対論
    自らの感得を根拠に論争をしても、
    馬鹿にされるだけ。
    必要となるのは、教義に基づいた論争である。
    現に貴殿は、ダメだしブログにおいて、
    「教学を知らない馬鹿」と認定されていた。
    また、「感得」を根拠にしてもよいならば、
    法華講員の「大御本尊への信」という彼らなりの「感得」に基づいた主張を一切反駁できない

    2.創価学会員の信心の有無の判定
    たとえば貴殿は、「あべひ-ちよ」対談において、
    「コメントを全て読めば、どちらが題目をあげているかわかる」という「感得」に基づいた信心に関する判定を行った。
    また宮部氏などにも不遜な物言いをした。
    こうした「感得」に基づいた貴殿の論法は、
    あまりに暴力的で独善的。
    つまり、「自分は信心の感得力がある」という傲岸不遜な前提で、
    学会員の信心について判定する態度には、問題があるといわざるをえない。

    3.問題の省略
    「なぜこんな無駄な話に終始するのか」と書いておられますが、
    私は「感得さえあれば何でもOK、それ以外は重要ではない」とは思わない。
    論争は緻密に行うべき。
    これは貴殿の自らの主張を言語化するのを怠り、
    感得ですべてを根拠付ける論法にも言える。

  8. monlingen より:

    葛西さんへ

    大分話の中身が透明になってきました。ホッとしています。

    私は「感得」,もっと詳しく話せば、

    「信心に於ける感得・体験は非常に大事である。で、その大事な体験(感得)の事の「例」を挙げて説明しようとしていました。その話に対して,葛西さんはその事は大事ではない,更には感得や体験を元に話すMonLinGenはとても不遜極まる人間だ,と言う評価を受けたわけです。
    私は,単純な話しをています。信心には体験が非常に大事である。
    それだけです」

    言語化はありとあらゆる遣り方で行っています。例を挙げて、直接信心の体験をあげて,様々にしていましたし、しようとしました。
    それに対する否定感は結構な感じに思えます。
    しかし、ここで話を上向きにすると、

    〇信心の感得(体験)はとても大事なことである

    と言う共通認識には届きそうです。
    先ずそれが大事になってきます。小さな話は後ほどすればいいので、この結論でいいでしょうか?この事にお互い共感出来ていればいいと思います。

    そして、これをベースにした次のお話に進みたいと思いますが、

  9. monlingen より:

    葛西さんへ

    私が何故「感得」「体験」というものをこれだけ大事にしているか,そろそろ判って頂きたいですね。

    正宗信心の「感得」「体験」と、創価学会のそれとは本質的な違いがあります。これははっきり言えます。
    正宗のHPを読んで下さい。彼等の信心の基本は「猊下(僧侶)に対しての絶対服従」です。この話は、表紙のページにそのものずばりの表現で掲載されています。民衆の諸々の苦を除くことや、幸せという話は、記載はありますが二の次、三の次の話です。ましてや、三障四魔に負けるなと言う信心上の重要な話は、ほとんど四の次になっています。
    この「事実」は貴方が思っている以上に大事な事なのです。

    創価学会は民衆を中心にした信心です。民衆の幸せが全てであり、それ以外は付属品です。広宣流布の事を、かつて戸田先生はこう言われました。

    「日蓮仏法は民衆の幸せを第一に考えるべき。その残りカスが広宣流布なのです」

    …僧侶がどうのこうのと言う話は一切ありません。

    この学会と宗門の、信心の基本の在り方の違いを理解すべきです。「根本」が違えばそれから出てくる「体験」や「功徳の在り方」も当然違うのです。
    良い悪いは取り敢えず置きますが、違うと言う事を認めるべきなのです。

    言い方としては、宗門には宗門の「体験」が存在する,と言う事も話せます。しかし創価学会と同じ「体験や功徳」が、宗門の信心にあるはずは決してありません。日顕宗は「邪宗」だと言う事を、もうそろそろ理解して然るべきだと思います。
    「先生を信じる」「創価学会を信じる」「日蓮大聖人を信じる」と言う事は、上記の話を自分の頭で考え、そして納得する努力をすることなのです。

    これを「慢心」だと結論付ける人もいます。でも、気にする必要は一切ありません。私はそう「信じて」います。

  10. 葛西 より:

    ありがとうございます。

    恐らく管理人さんと私の見解の相違は、
    以下の点に拠るものなのでしょう。

    ・管理人さまの記載
    「信心に於ける感得・体験は非常に大事である。で、その大事な体験(感得)の事の「例」を挙げて説明しようとしていました。その話に対して,葛西さんはその事は大事ではない,更には感得や体験を元に話すMonLinGenはとても不遜極まる人間だ,と言う評価を受けたわけです。
    私は,単純な話しをています。信心には体験が非常に大事である。
    それだけです」

    私は貴殿が話されているのは、「それだけ」ではないと思います。
    一般論として、「信心には体験が非常に大事」と言うのは、
    全く問題ないし、私も同意見です。
    しかし問題は、
    貴殿が自らが「感得」やら「体験」のある人間だと自称し、
    他人の信心を推し量る行為をされていることでしょう。
    また、日蓮正宗との論争も、
    その個人的感得だけが根拠で十分だとおっしゃっている。

    また貴殿の論法は、体験の「例」を示すだけでなく、
    それを論拠として主張を行うものが多かったと考えます。

    とはいえ、貴殿に倣い、
    私から質問をさせてください。
    これは、「信心の感得(体験)はとても大事なことである」をベースに議論を進めるにしても、
    確認しておきたいことです。

    YES/NOでお願いします。

    ①宗教の判断基準は、「民衆の幸福」を第一の目的にしているか、否かである

    ②日蓮正宗に対する破折は、HPにおいて「民衆の幸福」を第一に置いていないことを指摘するだけで十分だ

    ③自らの「感得」に基づき、他の学会員の信心を推し量ることは許される

    ④ブログの記事に対するコメントを読めば、その人間が題目をあげているかわかる

    ⑤私は、信仰における「感得」を有している。

    ⑥ちよさん、あべひさんの対話における、自分の行動に対して反省すべきところがあると考えている

    ⑦自らの感得に基づいて、他人をアンチ認定することは許される

    ⑧このブログ(Monlingen)のターゲットには、非学会員も含まれる

  11. monlingen より:

    葛西さんへ

    ブログ設定上のミスでコメント表示がなされていなかったようです。ご迷惑をお掛けしました。
    現時点では正常に機能していますので、宜しくお願いします。

    さて葛西さんからの質問

    ① イエス
    ② イエス(補足事項有)
    ③ イエス(補足事項有)
    ④ イエス(補足事項有)
    ⑤ イエス
    ⑥ ノー
    ⑦ イエス
    ⑧ イエス

    以上です。補足事項とは、補足説明をしないと「イエス」の説明が出来ないものを言います。

  12. 葛西 より:

    ご返信とご対応、誠にありがとうございます。

    「信仰における感得の重要性」については同意見のようですが、
    承服しかねる点がございます。

    A.「創価学会」の信仰は正しく、日蓮正宗の信仰は誤りだ

    B.「私」の信仰における感得に基づいて、他人の信心を推し量れる

    C.「私」の信仰における感得に基づいて、他人が題目をあげているか判断できる

    D.「私」の信仰における感得に基づいて、他人をアンチ認定できる

    AとB・C・Dは大きく異なるかと存じます。

    自らの教団の正当性を主張するのは至極当然であると考えますが、
    その主語を「私」にし、他の学会員に信仰的な判断を下すのはかなり暴力的だと思います(何度も主張させていただいておりますが)。

    B・C・Dで前提とされているのは、
    「私の感得は他の学会員より優れている」という傲岸といわざるを得ない自己信奉です。

    そこで質問ですが、
    なぜそこまで「私=自分」の感得に自信をお持ちなのですか?
    あべひーちよ対談においても「反省すべき点はない」といわれていますが、
    そこまで反省の契機なく、自分に自信を持って他人に振舞えるのは、やや不思議です。

  13. monlingen より:

    葛西さんへ

    「私の信心感得を中心にして、他人の信心を批判することは,傲岸至極」

    と言う話を中心に説明します。
    このブログは私MonLinGenが運営しています。これは、物理的な設定やソフト設定、更にはインターフェイス、表現方法全てに渡っています。
    つまり、このブログは私のものなのです。
    これはとても大事なことです。「私のブログ」は,私自身の「考え」「思想」等全て、私の在り方で運営する「権利」を持っています。他のブログ、例えばアンチ連のブログもそれぞれの管理人の自由意志で行われています。学会に対して自分の思うように書いています。

    その「自由意志」の在り方を、誰が非難出来ますでしょうか?
    …誰にも論難は出来ません。何故なら、彼等のブログですから…。

    だから、ネット上には種々様々なブログが存在「出来る」訳です。それを別の言葉で言うと、「表現の自由」となります。
    種々雑多な表現方法のブログが存在出来ること自体が、表現の自由の,当に真っ当な在り方だと言えます。だから面白いし,だから考えさせられる訳です。
    桜梅桃李とはこの事だと思います。
    この在り方は,少なくとも私は絶大な「支持」をして行きたいと考えています。他の愚にも付かないブログの在り方に対しても,全く同じ考えです。
    問題は、批判はそれらのブログの「個々の記事」に対して行うべきものです。記事の瑕疵が見つかればそれを突いていくべきです。勿論、今やっているような「MonLinGenは傲岸だ」に対しての批判・論難も、話としてはありだとは思いますが、しかし,出来得ればもっと記事の中身を精査して反論なり批判をすべきだと,私は考えています。

    「そんなに感得に自信があるのか」と言うお話、「あります」、とお答えします。

    体験や知識は人間にとってはとても大事なものです。個々人の体験・知識も同じです。
    私も信心体験を持っていますし、他の経験も当然持っています。それらを総合したのがここでの記事の内容です。
    「記事」を書くという事は、少なくとも私にとっては、いい加減な気持ちで出来ているものではありません。一つの記事に対してどれだけの心血を注いでいるかは,ここでは一切話しませんが、他のブログはともかく、私は一つの記事に対して人一倍以上のエネルギーを込めて作っているものです。
    瑕疵や勘違いもあり得ます。その批判なら,自分で再考して、反省すべきは反省します。今回気づいた、「アンチ創価学会」というものを余りにもアバウトに考えていたと言うことは、別記事にしました。これはとても大事な反省点でしたので、今猛省している最中です。有難い事ではありました。
    しかし、貴方の指摘される事に関しては、自分自身反省すべき点はありません。

    ブログの訪問者、特にコメント送付者の存在は非常に有難いと思っています。反論も批判も多々あるでしょう。しかし、若しこのMonLinGenが貴方の考える如き「傲岸不遜」のブログであれば、もっと他のブログの柔らかい記事を読むようにすれば良いと思います。
    これは突き放した話ではありません。ブログは文字通り星の数程存在します。自分の感覚に合う合わないも当然出てきます。敢えて気持ちの濁るブログを読み続ける必要は,あまりないような気がしますが,どうでしょうか?
    私が何度か話した、「一人に理解して貰えればいい」という本当の意味はここにあります。

    上記の意味で、これからも自分の考えで,自分の在り方で,そして自分の言葉で、私のブログの記事を書いていきたいと,そう思っています。
    貴方にはかなり不遜なコメントでしたけど、そう考えていることを再度確認します。

  14. 葛西 より:

    ありがとうございます、「不遜」というより非常に驚きました。
    議論の終盤になり、「言論の自由だから、私の文章が気に喰わないなら去ればよい」という発言が飛び出したことに対して、です。

    ともあれ、貴殿の文章では、
    以下の3つのメイン・ステートメントがあると思います。

    A.「表現の自由」という権利保障ならびにブログに対する管理権に基づいて運営されるこのブログに対し、
    「論難」する権利はない。嫌ならば去ればよい。

    B.批判は、個々の記事に対して為されるべきだ。

    C.私は自分の体験・感得に自信を持っており、それに基づいて書かれた記事に対しても同様である。

    順番に記載します。

    <A>
    Aについては、私と貴殿の間に、「表現の自由」をめぐる見解に相違があるようです。
    私は許されないのは「権力による検閲」などによる妨害であり、私人間の「論難・非難」ではないという理解です。

    とはいえ、貴殿がこのブログを有しているので、
    そうした「論難」を排除したいならば、私をコメント制限したり、過去コメントも削除すればよいと思います。
    ですが、これまでの経緯(貴殿からの対話のお誘い、私からの提案の承認、対話部屋の開設、数十件のコメントにわたる対話)を考えると、
    ここで「論難が許されない」と仰られるのは、奇異に感じます。

    <B>
    これまでも貴殿の過去の言動に照らして、主張を行ってきたつもりでした。
    (「題目をあげているか、コメントを読めばわかる」「感得で他人をアンチ認定できる」などの主張や、だめだしブログでのコメントなど)
    「傲岸不遜」という私の主張も、そうした事実に対して投げかけたものです。

    ですが、「貴殿が書かれたブログの記事」に対する批判を行うべきだ、ということでしょうか?
    (すると、トピックが拡散するように感じますが・・・)

    <C>
    これについては、さすがですね。。。。
    問題は「ブログ記事に対して自信を持っている」とかではなく、
    「自信の感得で他人を信仰的に判断する」ことでしたが、もうそれを「暴力的」云々言っても貴殿は聞く耳を持たないのでしょう。

    さて、以下に質問をまとめます。今後の進め方です。

    質問
    ・Aの主張を見ると、「論難は許さない」というものなので、
    議論の続行が不可能のように思えますが、その認識で正しいですか?
    それとも、Bの主張のように、個々の記事に関する議論をしたいのでしょうか?

    ・ここに来て、「気に入らないなら別ブログに行け」という主張をされ、困惑しております。
    それが本意なのでしょうか(それならば去ります)?
    それとも、今後の議論の進め方について、腹案があるのでしょうか

  15. monlingen より:

    葛西さんへ

    ブログの「個性」というものを考えたことがありますか?

    八方美人的に様々なコメントに対して,全てにいい顔をするブログもあるでしょうし、頑とした自分だけの世界を構築したブログもあるようです。
    それぞれの考えでやっています。誰の遠慮も気にしないで好きなことを書けるのが,現在のブログの在り方だと思います。訪問者は、そのそれぞれの「個性的」な考えの魅力に惹かれてブログのurlをお気に入り登録する訳です。
    気に入らなければ,登録削除…。簡単な話です。
    お気に入りのブログを読んで、気になった事があればコメントも書くでしょう。でも、「性格批判」は少々遣り過ぎになります。
    「あんたは傲慢だ、体験でものを言うな、あんたの認識は間違っている等々…」
    これはブログ批判ではなく,個人中傷になります。
    私は、アンチ学会と言われているブログの中の記事をピックアップして,それに対しての内容の批判をしています。矛盾点を批判しているのです。当ブログの性格批判はしていませんし、興味もありません。
    このブログの表紙に、私のブログに対する在り方を記しています。私のこのブログは,自分の考えで,自分の言葉で,自分の表現で作っています、と。この考えを変えると,「ブログの個性」が吹っ飛んでしまいます。どこにでも転がっているどうでもいいブログになってしまいます。
    訪問者の批判コメントにいとも簡単に右往左往されるそんな管理人が、果たして「個性的」なブログ作成が出来るでしょうか?そんなブログの記事を,貴方は読みたいですか…。
    私のお気に入りのブログ主は、しっかりとした自分を持っている人です。それが例えアンチ学会だろうと何だろうとも…。

    感情論を中心にすべきではありません。
    貴方は、「MonLinGenは傲慢だから、その性格を治せ!!」という論調の対話をし続けています。その意見の賛同者も居るようです。しかしそれはブログのコメントとしては,間違っています。
    記事の中身の批判ならいくらでも受けます。そして、何とか説明して判って貰おうと努力します。しかし、「気に入らない人間性の批判」というのは,どうも頂けません…。

    例えば、区協議会の話合いで,お互いの理念の善し悪し、家族関係のあれこれを話し合ったことがありますか?私はありませんし、するべきでは無いと思っています。
    地区協のやるべきは,打ち出しや座談会の内容決めです。その内容にズレがある場合は皆でそのズレを修正します。これが悪い,あれが良くない、こうすれば等々…。
    貴方の追求しようとしているのは,地区協で参加者への性格批判、生まれ育ちの批判です。

    あまり良い趣味だとは言えません…。

    私は貴方の質問に答える形で、この対話を進めてきましたし,これからも同じようにやって行こうと考えています。
    私の腹案、代案ではなく,貴方の質問の内容が問題になってくるのでは?

  16. monlingen より:

    葛西さんへ

    ちょっと思いつきましたことがありますので,記してみます。

    当「対話」の初頭にも書きましたけど、若し対話が平行線を辿るようなら、そこでその話題は止めるべき、と。
    貴方は非常に粘着質すぎます。まるで誰かさんの様に思えます…。
    こんな鬱陶しい対話を続けて,貴方は私に「何」を答えて欲しいのでしょうか?

    謝ればいいのでしょうか? …でも、何に対して?
    葛西さんに話を全て合わせればいいのですか? でも理由は?
    ここではブログの話をしているつもりでしたが? 何故個々人の信心の話が関係あるのでしょう?

    多々疑問点が多い,この対話です。

    私は余り粘着性を持っていない人間です。葛西さんが「粘着質性格」だとしても,それはそれでいいと思います。それも人間性なんでしょうからね。
    疑問を一つひとつドライに解決しましょう。疑問が募ったとしても,それはそれで他人事です。気にする必要はありません。
    「そうなんだ…」と思えばいいことです。
    私は貴方の性格を変えようとは,一切考えていません。ねっとりとした性格はそれはそれでいい面もあるんでしょうから…。

    私からの貴方への忠告です。
    もっと状況をすっきり考える性格になりましょう…。

    と、話すと,貴方はどう思われます?
    考えて下さい。貴方が盛んにしている事は,こう言う話になります。

  17. monlingen より:

    葛西さんへ

    補足の補足です。少々「葛西さん気味」の粘着質性で申し訳ありません。又ちょっとした話を思いつきましたので…。

    二つの話をします。一つは「そもそも論」、もう一つは「本質論」です。若し本気で聞いてくれると,とても嬉しいです。
    先ず、私は、今まで貴方の疑問の数々にお付き合いをしていました。渋々(しぶしぶ)とも、仕方なく…とも言えるかどうかはともかく、積極的とではなく受け身的に貴方への答えを綴ってきました。
    これは非常に大事なことですので,3~4度読み返して下さい。
    貴方への私の答えの文言は、「自分なりの説明」の仕方でやっていました。出来るだけ分かり易く、例え話も色々考えながら…。そして、これからもそうしていきます。
    その試行錯誤の文章や内容は,自分にとっては特に話さなくてもいいことも多々存在しています。しかし,その私の真剣な話が、貴方の「自分は気に入らない」と言う唯それだけの「理由」で、何故に貴方からのピントのずれた粘着質の非難を受け続けなければならないのか、とても疑問に思えています。そんな義務が私にあるのでしょうか?
    貴方に喜んで貰えるような好意的な答えなど、出来ると思いますか?
    創価学会の考え方って,桜梅桃李だったと思っていますが違っていましたか?それとも北朝鮮のチェチュ(主体)思想の蔓延する場所だったのでしょうか…??
    …まあ、そうであるならそんな学会は変えていくべきですね。
    ともかく、貴方からの疑問には自分なりの在り方で説明しています。理解出来ないと言う事は、貴方と私の思想上の違いという話です。その事は貴方が単純に認めるべきだと、そう思いますが…?

    第二は、貴方の論難点は全く間違っています。
    ブログ主の性格・思想批判は、少なくともこの対話上の論旨(論点)ではありません。ブログ上の疑問点の話のはずです。(この中心が全く理解出来ない人が、多々おられるようですので,再度「対話」及び「前回の対話」を読み返して下さい)
    …「いわさきちひろ」と言う偉大な絵本作家がいました。知っている人も多いかもしれません。私は彼女の作品には天性のものを感じている一人です。しかし、彼女の夫は共産党の松本善明でした。なかなか凄い取り合わせですが,本当の話です。
    創価学会員の我々として彼女をどう見るべきか…。
    彼女の才能は、思想とは一切(とは言えないまでも)関係はありません。作品の凄さは作家本人の思想により何も減少しません。
    凄い作品は,純粋に凄いのです。
    貴方はちひろの凄さを無視して、作家の共産主義思想についてを延々と議論しています。思想と作品の関係は、この場合は全く無関係のはずです。
    こんな在り方って、どうなんでしょうか?

    これも真剣に考察して頂けると,とても有難いですね…。

    • 葛西 より:

      長文のご返信、ありがとうございます。

      なるほど、「傲岸不遜」という言い方が貴殿の性格批判と受け取られ(私の書き方が悪かった)、
      そこで表現の自由や個性などを持ち出されたのですね。理解しました。

      これについては、以下謝罪いたします。

      ●傲岸不遜等の言葉の使用
      「貴殿の言動による他者への影響の暴力性」を批判する積りが、
      毀損的な言語の使用によって貴殿の人格批判をするような格好となってしまった。
      非礼をお詫びします。

      ●今後について
      議論のまとめに入りましょう。

      まず私は貴殿の性格批判をすることを目的にはしておらず、
      具体的な言動の機能・効果面(社会学的な意味で)からの批判をしようとしたものです。
      ですので、再度私の主張をそのような形でお書きします。

      その後、
      以前お書きした、

      -私が議論のまとめを両論併記の形式で作成
      -貴殿が確認

      とにはいるのはいかがでしょう?

      ●若干の抗議
      以下、抗議させていただきますが、
      反応は不要です。

      -個性云々について
      ここで性格批判に対して、
      月並みな「個性」論で応答されています。
      ですが、そもそも私を「アンチ」認定されたり、
      「人間として生来有する思考力が欠けている」と仰られたのは、貴殿だったのでは。

      -「粘着質」「受身的」
      議論において、「やる気が無い」と言い、
      意見を述べている相手に「粘着質」と述べるのは、
      貴殿がアレンジしたほかの対談でもよく見られるものですが、
      こうした態度については再考いただきたく存じます。
      私も嬉々として対話をしてきたわけではない。
      貴殿から非礼とも言えることを言われながら、
      最後まで責任を持とうとやってきたのです(貴殿は「雲隠れ」がお嫌いでしょう)。
      ここで冷笑的な態度をとられるのは、非常に不快であり、悲しく感じます。

      -「作品」と「作者」の区別
      いわさきちひろを出されたのは、
      要するに「テキスト主義」と「作家主義」の内、
      前者を採るべきだということですよね。
      これについては、
      作家や芸術家を研究する際には、どちらも手法として多く採用されているので、
      貴殿の「テキスト主義」への過度かつ安易な偏重は、文学理論に詳しい方からすれば冷笑されるかと思います。
      また、芸術作品とは異なり、
      貴殿の記事は貴殿の「思想」「信仰」と不可分でしょう。
      そもそも上記の2つの立場を、
      明確な二項対立として設定すること自体に無理があるという認識です。

  18. monlingen より:

    葛西さんへ

    私ははっきり最初に話したこと、この対話は「資料収集」の為、と。お忘れなく…。

    しかし、非常に勉強になったことは色々ありました。それに関してはとても感謝しています。人間の意外な面が発見出来たことも、やった甲斐がありました。まあ、それにこう言う文章を頭から捻り出して書いていくという行為も,実際は嫌いではない事でもありますし、また、葛西さんも非常にお好きなように感じます。これに関しても,成る程と思っています。
    「冷笑的」云々。資料収集は第三者的に眺めていないと、なかなか出来ません。何を話すとどんなものが飛び出してくるかを考えながらの行為も,そもそも冷笑的に見えるのかもしれません。

    私は逃げようがないと言う事は,貴方もご存じのはずです。「逃げる」という実行為は、「ブログ閉鎖」を意味します。まだ少々やりたいことも残っている現時点では、トンズラ自体は意味のない話になりますから,ご心配なく。
    話の中心をどこに置いているのか,多分お互い違いを持っている様です。私はブログの記事が大事だと思っていますので,それを中心にしていますし、これからもしていこうかと思っています。
    信心のどうのこうの,人間性のどうのこうのは、ここでやったとしても水掛け論に終わります。千日手は禁じ手ですので、一つひとつドライに行きましょう。
    個々の問題を徹底的に分析する貴方の性格は非常に理解出来るし、又仕方のない話かもしれませんが、気を引き締めて、捨てるものは捨てて,新たな気持ちで対話を進めるべきだと思いますよ。でないと延々とこんな感じの詰まらない話が続きます。

    質問は続けますか?
    であれば宜しくお願いします。

  19. 葛西 より:

    早速ありがとうございます。
    私もこだわりすぎましたね。その点は素直に謝罪させていただきます。

    このまま後味の悪い終わり方になるのも残念ですので、
    貴殿が当初提案されていた「信仰における体験や感得が重要という点をベースにした話し合い」に移行するのはいかがでしょう。

    私もこれまでの批判的な態度は改め、
    貴殿との相違は明らかにしながらも、同意点を探るスタンスでいきます。

    ただ、「信仰における体験や感得が重要という点をベースにした話し合い」を、
    貴殿がどのようなものとして想定されているのか、まずは知りたいです。

  20. monlingen より:

    葛西さんへ

    信仰に於ける「体験や感得」は、非常に大事だと思います。その説明は今までここで縷々(るる)してきた積もりです。

    又やるとなると、かなりうんざりな思いに囚われてきますが…。

    『題目を一度もあげたことのない人に、題目の凄さや功徳を、葛西さんは一体どう説明出来ますか?』

    これを貴方の考えで説明して下さい。多分それが答えになると思います。

    • monlingen より:

      追加です。

      若し信仰に「体験」など不必要だと,そう思われているのであれば、そのはっきりした「理由」を記して下さい。

  21. 葛西 より:

    さて、Monlingenさま、これまでありがとうございました。

    恐れ入りますが、ここで1点、打ち明けさせてください。

    実は私は学会員ではありません。
    ただの社会学専攻の大学院生・講師です。

    ふとした縁から創価学会について論じなければならなくなり、
    いろんな学会員にヒアリングをしてきたのですが、
    出てくる意見は同じものばかり(元学会本部職員の3人と仲がよい方は違いましたが)。

    そこで、統計的外れ値が欲しいと思い、
    ネット検索を進めたところ、「創価だめだしブログ」に行き当たり、貴殿のことを知った次第です。
    教義的な知識がほぼない無知な状態で、果敢に相手を攻めていく貴殿の姿勢には、強く感銘を受けました。

    そこで貴殿を調査対象に決め、このブログでやや挑発的な発言をしたところ
    (私の狙い通り)対話部屋を作成いただき、これまで話してきた次第です。
    かなり適当にコメントを書いていたので、途中で対話を打ち切られないか不安でしたが、
    私の当初の意図通り、ここまで付き合っていただき、感謝しかありません。

    久々にアカデミックなバックグラウンドや、論理性の無い方とお話しするのは、
    私にとって大変新鮮でした。
    頻発する「感得」、無根拠な「アンチ断定」、突然の「個性を大事にしろ」論・・・
    どれも議論において口に出したらそれだけで馬鹿認定されること間違いなしのものですが、
    貴殿は資料的価値が大変高いように思います。

    ともあれ、大変に勉強になりました。
    貴殿のような過激な主張をする方がどんな論理的体系を築いているのかと思いますが、
    まさかロジックが皆無だったとは・・・・(苦笑)
    ここに貴殿の信仰の強さを感じた気がします。すばらしいですね

    大変申し訳ないのですが、
    明日より学会(アカデミックな集まり)で遠出するため、ここで対話を打ち切らせてください。
    私としては、外れ値の資料は十分集まりました。

    貴殿も十分に資料集めが出来て、満足だと思います。
    (とはいえ、私は創価学会の本を数冊読んだだけの知識で回答していたのですが、
    学会員っぽかったですか?)
    どうぞ、私のコメントを資料にお使いください(どれも適当なもので申し訳ございませんが。。。。)、
    貴殿は世間の社会学者顔負けの卓越した分析能力をお持ちのようですので。

    繰り返しになりますが、
    貴殿の資料的価値は非常に高いので、今後も盛んに「作品(笑)」の発信をしていただきたいと思っています。
    最後に、貴殿の今後の信仰生活におけるご多幸を、心よりお祈り申し上げます。

  22. monlingen より:

    葛西さんへ

    葛西さんの冒頭の話を信じるとすれば、今までの疑問は全て解消しました。ちょっと,と言うかかなりホッとしています。

    どこまで行っても信心と体験の一致点が見つからない状態は,さて学会員としてはどうなんだろうと不思議な思い、そして腹立たしさを感じながらのこの対話の積み重ねでした。そう言う意味での在り方であったなら、私も納得しました。腹は立っていませんので,気にしないで下さいね。
    逆に、と言う事であれば、基本貴方の様々な意見は「資料」としては使用不能です。アンチ側の資料としては純正では無い訳ですので、当然です。でも、外野部屋の話題に関してはとても参考になりましたので,その意味ではやった甲斐があったと云うことです。

    私もとても楽しめました。
    惜しむらくは、もう少し根を詰めて学会書籍を読んで,そして解析してほしいものですね。貴方の驚くような内容が,若しかして飛び出してくるかも知れません…。

    ともかく、お互いご苦労様でした。…でも、2階に上って梯子を外された気もしないのは、気のせいかな…?

  23. monlingen より:

    皆さんご苦労様でした。

    この部屋は数日放置して,そしてメニュー解除します。特に削除は考えていません。
    若し、興味のある方は再読して下さい。

    MonLinGen(2018年3月9日 13:42)

  24. monlingen より:

    このまま「The End」も面白くありませんので、自分なりのこの対話や、外部部屋の「総括」をしてみたいと思います。

    彼、HN葛西氏は、初めから終わり近くまで「嘘」で塗り固められた「対話」をしました。最後になって自分の正体を明かしたことは、彼の人間性のギリギリ「仏界涌現」と言うべきなのでしょうか…。でも、唯これだけが(若しかして)「真実」だったという事は、かなり寂しい人間性にも思えます。…基本彼の言は全て「嘘」という話も出来そうですが、そこまで人を追い詰める必要も無さそうです。
    彼は、自称「大学の学究者」との事。これとても信じるべき話でも無さそうですが、若し事実であれば、彼のこれから行う学問は全て「嘘学問」だという結論が導き出されます。当然です,これだけ真面目な話合いの中、平然と作り話をし続ける「生命(いのち)」は、死ぬまで消えることはありません。自分の学問を頑張って、更に頑張ってやってみても、成れるのはせいぜい三~四流学者でしょう。可哀想だとも言えそうです…。
    ただ、私も彼の「資料収集」という気持ちも理解出来ます。過去にアンチ系のブログで同じ様な事をした経験を持っていますので、研究をする元になる思いは判ります。が、「自分の言葉」は自分自身の本音を話すべきです。それが相手に対する礼儀だと言えます。

    私の言は全て本気の言葉です。勿論間違った用法や言葉遣いもあったことも認めはしますが、書いたものは全てその時点で自分自身の考えていた本心です。
    この対話を、「折伏」とまでは考えていませんでしたが、何とか信心を知らない人に、「信心に於ける体験の大事さ」をどうやれば理解して貰えるかを考えながら,例え話を駆使して書き綴ってきました。その私の真剣さは,少数でしょうけど、理解出来た人には届いた気もしています。

    又これを通じて「慢心」という言葉が多々出てきました。誰の何の慢心なのかはよく理解出来ませんけど、非常に多くの人からの声です。でも、「慢心の理由」が一切書かれていません。理由のない批判は単なる「中傷」だと思っていますので,ほぼ無視はしていましたけど、一つ気になる話が「外部部屋」にありました。
    名前はともかく、彼曰く、

    (中略) “どんな意見を持つかは自由ですし、それを発信するのは自由です。ですが、それによって学会の評判を下げること、このブログによって現場で困る学会員がいること(詳細は書きませんが私は折伏現場で困りました)、を心に留めて欲しいです”

    と言う話で締めくくっています。
    これも「慢心」話の類いでしょうけど、やはり「理由」が書かれていません。どうしてこのブログが「創価学会とは無縁のもの」だと、私が記載しないと駄目なのかよく分かりません。また、或る記事への批判が載せてあります。この記事の本当の意味も分からずにどうして「論理破綻」しているのか…尽きない疑問の想いに苛まれそうになります。
    この彼は自称創価学会員。本当であれば,彼自身、自分の地区で折伏をする人に対して,彼がどんな「気持ち」を持っているのかとてもよく分かる言です。少なくとも本当の学会員なら,どんなことがあっても折伏者への積極的な応援はして然るべきです。彼がやっているのは「応援」ではなく、折伏「潰し」だと感じました。

    葛西氏は嘘八百の権化でした。この事実が分かって,さて彼の書いた話の責任はどうなるのでしょうか?(もうここには来ないでしょうけど,一応記しておきます)

    そんな状況の中でも、非常に好意的に私の話を応援して頂いた方、ここでお礼を申し上げます。

    ありがとうございました。

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